Ⅱ 中篇(下)


 アイネイアスはルツに興味を持った。

「ルッツリアといったな。病人ではなさそうだ」

「お察しのとおり仮病よ。密航するためにこの街に来たの。海の向こうの異国が、わたしの故国なの」

 ルツは何も隠すつもりはないようだ。

「お前は異国の出身なのか」

「実はわたしの母が、異国の王族の姫なの」

「なに」

「冗談よ」

「それは良かった」

 アイネイアスは書き物を投げ出すと机の向こうから、薄く笑った。

「もしそれが本当ならば、貴重な客人になる。馬車で皇都に送り返しているところだ。早馬を飛ばして事実確認をした上でな」

「別にそうしてもいいわよ。養父は既に屋敷を引き払って外国に逃げているから知人は誰もいないわ。わたしは子どもの頃にお母さまと一緒に帝国にやって来て、その後すぐに内乱が始まってしまって宙ぶらりんのまま十年間ずっと皇都で暮らしていたの。誰もわたしのことなんか想い出しもしなかったわ」

「王族だと云い張る詐欺師はこの世の中に大勢いる」

「あなたの副官のギーレは名誉の剣を下げていた。あれは選ばれた人にしか賜れない短剣よね」

 その短剣はアイネイアスも持っている。

「お母さまは早くに死んだの」

 ルツの顔は沈んだ。

「未婚のままわたしを産んだものだから、家出をするようにして帝国に来たの。そして帰郷できぬまま病気になって死んでしまったわ。滞在していた屋敷の人はとても親切で、独りぼっちになったわたしを養女にして実子同様に今まで育ててくれたの」

「なぜ今になって海の向こうに帰る気になったのだ」

「問題になりそうだったから」

「というと?」

「見逃してくれたら、今夜の貴方のこの失態は誰にも云わないでおくわ」

 ルツは『失態』のところに力を篭めて、にっと笑った。

「禁衛軍の将校が誰かと間違えて少女を真夜中に誘拐したなんて世間に知れたら、貴方が困るのではないこと、アイネイアス」

 もう一度アイネイアスは奇妙な感じにとらわれた。最初は落ちぶれた貴族の家の娘かと想ったが、少女の口ぶりには命令し慣れた響きがある。少なくとも軍の将校を相手にしてこの口の利きようは、ただの娘には出来ないことだ。本当に王族の娘であれば納得だが、頭がおかしくて想い込んでいるだけかもしれない。しかしルツの眸は澄んでいて、現実と夢物語の区別がつかないとも想えなかった。

「お前が王女ならばお前の同行者は何者だ」

「テセウスは養父に雇われた、ただの護衛よ」

 器に盛られた葡萄をルツは頬張った。室の扉が叩かれた。

「お邪魔をして申し訳ありません隊長。皇都からの急使です」

 アイネイアスは葡萄を食べているルツを一瞥すると、席を立ち、戸口に向かった。

 扉を開けると、副官のギーレが立っていた。そこから見える室内にギーレは首を傾けた。

「隊長、あの少女は」

「ギーレ。お前はどうやら、間違えて隔離区画からあれを連れて来たようだ」

 それを聴いたギーレは真っ青になった。

「皇女の天幕を間違えてしまったとは想えませんが……早急にもう一度」

 ギーレは黙った。アイネイアスが「黙れ」という眼をしていたからだ。夜も遅い。仕切り直して皇女を引き取るのは朝になってからだ。

「ご苦労」

 ギーレの差し出した筒を受け取ると、灯りの近くに行ってアイネイアスは封蝋を破った。広げた手紙を読むアイネイアスの顔に愕きが浮かぶ。アイネイアスは手紙とルツを交互に比べ見た。

「さあ、アイネイアス」

 ルツは葡萄を食べ終わっていた。

「貴方の優秀な副官は天幕を間違えたりはしないわ。狙いはフィベのユーリだったのね。彼女に何の用。今度は、貴方の話をきかせて頂戴」



 早朝、日の出前から城郭都市の上級官吏ラズロは忙しく立ち働いていた。目立たぬ屋敷を用意して、禁衛軍に気づかれることなく皇女をそちらに移さなければならない。

 アイネイアスの名を聴いた時の皇女には、戸惑いと、隠しきれない含羞があったように想う。そのあたりのことも確かめた上で、今後のことを相談しなければ。

「今もまだ専制国の一部とはいえ、城郭都市は自治領なのだ」

 ラズロは、そのことに誇りを持っていた。ついでに、皇帝の代理を標榜した尊厳侯に反乱を起こした親族をもつ自分の家系も気に入っていた。

「禁衛軍が何ほどのものか。皇女がもし尊厳侯から離れて遠くに逃げたいというのであれば、それをお手伝いするのがこの街に生まれた俺のやることだ」

 腹を決めたラズロは冒険に乗り出すような高揚感に満たされて目覚め、未明から官吏としての仕事を片付けた後、弾むような足取りでふたたび特別隔離区画に戻って来たところで、テセウスに首を絞められた。

  市壁に囲まれた城郭都市は夜明け前から海霧に包まれていた。霧の中、テセウスとラズロはもみ合った。

「何をする」

「それはこちらの台詞だ」

 テセウスはラズロの腕を締め上げながら眼をぎらつかせた。

「ルツと皇女が消えたぞ」

「消えた」

 ラズロは悲鳴を上げた。

「何処に」

「それは俺が訊きたいことだ。小屋にも天幕にも、二人の姿がない」

 地面に投げ捨てられたラズロは、腰をさすりながら立ち上がり、鬼のような形相のテセウスから距離を取った。

「何も知らない。昨夜はあれから邸宅に戻って仕事をしていた。本当に二人ともいないのか。ルツも、ユーディットさまも」

「もういい。馬を借りるぞ」

 返事も待たずにテセウスはラズロが乗ってきた馬に飛びつくようにして跨った。

「何処に行く」

「禁衛軍の様子を観に行く。皇女が見つかったのであれば彼らは引き上げる準備をしているはずだ。ルツもそこに居るかもしれない」

「待てテセウス。それはわたしに任せろ」

 ラズロは馬の前に飛び出して両手を広げた。

「市門はまだ開門していない。二人ともまだこの街にいるはずだ。この街のことならば隅々までわたしが知っている」

「ただ待っていろというのか」

「では、こうしよう」

 ラズロは常に携帯している市街地図を取り出して広げ、一点に印をつけた。

「もし禁衛軍が皇女を捕らえたのであれば、高台のこの屋敷にユーディットさまを保護しているはずだ。外から屋敷の様子を窺ってくれ」

「なるほど。もし皇女がいれば、警備の兵がいるはずだな」

「遠くから眺めるだけだぞ。そして確認したら隔離区画に戻ってくる。小屋で落ち合おう。いいな」

 馬を取り返すと、テセウスと別れ、ラズロは馬を歩ませた。霧があるので走らせることはしない。

 確か、皇女は、供人は先に街に入って隠れ家を用意していると云っていた。迎えに来た彼らと共に隔離区画を出て行ったのだろうか。それならばいいが。

 ラズロにとってはルツよりも皇女の方が心配の多くを占めている。この際、アイネイアスが皇女を捕えたのならまだましで、最悪なのがユーディットが皇女だと知らぬ者の手による誘拐だ。若く美しい女が独りでいれば、悪漢の眼からは誘拐して下さいと云っているようなものだ。こうしている間にも皇女は何処かに閉じ込められているかも知れないのだ。

 ラズロは二人組の若い男を想い出した。離れた処から皇女のいる天幕を見ていたあの二人。

 街路は霧のせいでまだ薄暗い。雲が太陽にかかっている。

「ややっ」

 角を曲がったところでラズロの馬はアイネイアスの馬とぶつかりそうになった。双方の馬がいななき、前脚が宙を蹴る。

 慌てて手綱を引いて衝突を避け、ラズロは馬の首を回した。朝っぱらから、どうしてこんな処にアイネイアスがいるのだ。

「お怪我はありませんかアイネイアス隊長。おはようございます。どちらへ」

「この先の特別隔離区画だ」

「まだ朝が早いですよ。寝静まっています」

「皇女を見かけたという情報があったのだ。急ぐ」

「お待ちを」

 ラズロは咄嗟に判断した。軍の協力が要る。

「皇女ユーディットさまならば、隔離区画にはもうおられません」

「なに」

 アイネイアスは振り返った。

「わたしも皇女さまを探しているところです。皇女は昨夜、隔離区画からお姿を消してしまわれたのだそうです。今それを知りました。アイネイアス隊長、本日の市門の検問は厳重にされて下さい。並行して、街中でも皇女さまを捜索しなければなりません」

「お前は何を云っているのだ。皇女がこの街にいることを最初から知っていたというのか」

「いえいえ」

 ラズロは大仰に首を振った。

「わたしも昨日、偶然にそれを知ったのです」

「昨日のうちに何故すぐに知らせない」

「皇女さまのお頼みでした」

 僅かばかりの歪んだ優越感を覚えながら、ラズロは端正なアイネイアスの顔に向かって云ってやった。

「逢いたくない。皇女さまは、そう仰せだったのです。ユーディットさまは、アイネイアス隊長には逢いたくないと、わたしにそう仰ったのです」

「ユーディットがそう云ったのか」

「元ご婚約者でも、呼び捨ては如何なものでしょう」

「今はどうでもいいことだ。ユーディットがそう云ったのか」

「はい」

 もしラズロが、それを聴いたアイネイアスの矜持が傷つき、怒りや動揺を露わにすることを期待していたのだとしたら、それは大いに外れた。貴族将校アイネイアスは横を向き「そうか」と呟いただけだった。かえってそこに想いがけなくこの男の若さの片鱗を覗いた気がして、ラズロの方が気まずくなってしまった。

「隊長。アイネイアス隊長は皇女さまとの間に何かあったのですか」

 アイネイアスは馬の向きを変えた。

「検問にあたる兵を増やす」

「その旨、総督に伝えます」

「皇女探しの方は貴殿に任せる」

「はあ。えっ」

 びっくりしてラズロは声を出した。

「それでよいのですか。皇女はお姿を消されたのですよ。何処に行ってしまわれたか分からないのですよ」

「わたしには逢いたくないそうだからな」

 云い捨てるとアイネイアスの馬影は朝霧の中に消えてしまった。



》後篇

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