Ⅱ 中篇(上)


 上級官吏ラズロに手落ちがあったとすれば、テセウスとルツの馬車をアイネイアスの命令で彼の部下が尾行していたことを知らなかったことだ。

 隔離区画から戻ったアイネイアスの副官ギーレは、大急ぎでアイネイアスに見てきたことを報告した。日が暮れて、定時で市門を閉ざしたアイネイアスはその話を引き上げた詰所で聴いた。

「本当か」

「間違いありません。わたしも湖水地方にはお供をしております。皇女ユーディットさまに相違ございません」

「特別隔離区画にいたと」

「はい。天幕の中で夜露をしのばれておられるようです」

 思案気に卓上を指先で叩くと、アイネイアスはギーレに問いかけた。

「何故そんな処にいる。皇女はご病気なのか」

「いえ、皇女はフィベに扮して井戸端におられました。老人や病人の看護をする、あのフィベです。フィベは巡礼者と共に街から街へ移動します。大方、故郷巡礼者に紛れて城郭都市まで来たのではないかと」

「それがまことならば、そんな場所に皇女をおいてはおけない」

「早速お迎えに」

「そうしろ」

 まだ信じられない想いのまま、アイネイオスは副官ギーレに命じた。

「こちらではなく、官吏のラズロが街中に用意した屋敷がある。皇女を保護し、そちらにお連れするのだ」

「すぐに」

「ギーレ」

「は」

「もし皇女が厭がっても、何としても連れて来い。しかし目立つことはならぬ。夜中まで待ち、誰にも見つからぬようにするのだ。この街の総督にも気づかれるな。わたしは先に屋敷に行って皇女を待っている」

 命令を受けた副官ギーレはすぐに出て行った。今の話にあまりにも愕いたので、アイネイアスは本来の目的であるテセウスとルツについての報告を訊くのを忘れていた。ラズロがそうであったように、アイネイアスも彼らの馬車については何か引っかかるものを覚えていたのだ。そういう勘はあたることが多い。


 ルッツリアという名のせいかも知れない。


 アイネイアスは今朝、城壁の前で逢った乙女のことを想い浮かべた。その名をきくとアイネイアスの記憶の中に異国の海風が吹く。

 柑橘類の樹々が古代の遺跡に濃い木陰をつくる海岸。幹部候補生として赴いた彼の最初の任地だった。

 ──帝国の娘が、ルッツリアと名づけられることはない。

「まあいい」

 不審な二人連れの馬車よりも、今は皇女の方が優先だ。皇女との想い出には雪が降っている。

 風向きが変わると焼け焦げた匂いが野営地にまで届く森の中の戦場。雪を透かして太陽が森に沈んでゆく。少女の髪や肩に、ふたたび雪が積もっている。あたりには誰もいない。皇女の側近たちは逃亡計画を練るために父の天幕に案内された。

「皇女のお相手をしておけ、アイネイアス」

 樹々の長い影が少女を暗い檻の中に入れる。皇女を押し付けられたアイネイアスは少女の扱いを持て余して近くに突っ立っていた。

 想い付きで、幹部候補生に与えられる名誉の剣を取り出してみたが、少女の眼を引き寄せるほどの効果はなかった。

 黙ったままの二人の間に雪が舞い降りていた。



 城郭都市に夜が降りた。海の上に真白い月が昇っている。夕餉の仕度の細い煙が立ち込める下町から高台へと向かうにつれて、徐々にざわめきは遠くなり、閑静な高級住宅地へと変わった。

 馬をうたせて坂を登り、アイネイアスは宿泊先に用意された屋敷に入った。

 中庭の噴水が夜に涼しい音を立てている。

 数日前、皇女が湖水地方の離宮からいなくなった際には、すぐに見つかるだろうと想っていた。そして一抹の期待もした。尊厳侯の嫁になるのが厭で逃げたのだろうと。

 皇都で十年ぶりにその名を聴いた時、アイネイアスは誰のことかすぐには想い出せなかった。アイネイアスの上官は屋敷に呼び出したアイネイアスをもてなしながら、用件を伝えた。

「忘れたのか。亡命中の末の皇女さまだ。此度、しいされた皇帝を弔うための墓碑が完成した。それで、尊厳侯が皇女さまをお招きし、皇都においでいただくことになったのだ」

「来ないのではありませんか」

 アイネイアスは決めつけた。

「帝国に戻れば命が危ない」

「いや。ご招待の表向きは父皇帝の墓参りという理由だが、実は、お招きする理由はそれだけはない」

「暗殺ですか」

「アイネイアス、貴様はどうしてもそこから頭が離れないのだな。違う。尊厳侯は、帝国皇帝の血筋を利用したいと考えているのだ」

「皇女を妻にして皇帝に名乗りを上げる」

「そういうことだ。しかし、そのままでは亡命先の国も絶対に皇女を国外には出さない。そこでだ、偽装結婚をすることになったのだ」

「誰と誰がです」

「お前と皇女が結婚するのだ」

「意味が分かりません」

「ユーディットさまと結婚するのだ、アイネイアス。互いに独身でちょうどいい。つまりこういうことだ。皇女と帝国名門貴族のお前がまず結婚する。その後に離婚する。そして今度は尊厳侯と皇女が結婚する。いわば二段構えの婚姻だ。そうすれば外国の眼を欺いて、尊厳侯は数年後には皇帝を名乗れるというわけだ」

「お断わりします」

 言下にアイネイアスは拒否した。結婚するならば、最初から尊厳侯とすればいいではないか。専制侯は皇女よりも大幅に歳上で妻もいるが、離婚すればいいだけのことだ。この時代、離婚は簡単なことだった。

 上官は、含みのある眼つきで面白そうにアイネイアスを眺めた。

「皇女は承諾されたぞ」

「なぜ」

「おそらく、お前が、皇女を外国に逃がしてくれた将軍の息子だからだろう。大きな声では云えないが第三軍の将軍はその為に死んだようなものだからな。姫君はそのことで恩義を感じておられるのだ。義理堅い御方だ」

「ただ皇都に戻りたいだけでは」

「ともかく、お前は皇后領である湖水地方で皇女さまをお出迎えするのだ。婚約者としてな」

 頭がくらくらするような暴力的な話だったが、まさかと想っているうちに本当に正式な命令が下り、アイネイアスは禁衛軍を率いて湖水地方に出立することになった。専制国家といいながら、尊厳侯は独裁者であり、逆らうことは死だった。

 出向く前、アイネイアスは邸宅の庭から、青い花を持って行った。風習として婚約者に贈り物を用意しろと云われていたのをずっと忘れたふりをして無視していたが、出立直前に考え直したのだ。


 湖水地方は皇帝の亡き後、皇后が隠居した所領地だった。尊厳侯もここには手を出していない。

 アイネイアスは決めた。皇女を直接説得するのだ。偽装結婚のような莫迦げた芝居を辞めてもらうように包み隠さず全てを打ち明け、この婚約を破棄してもらい、皇女には湖水地方から亡命国へと引き返してもらおう。

 第三軍の将軍だった父は建設中の塔から落ちるという不審な死を遂げた。尊厳侯と何かと衝突していた父は、皇女を亡命させた罪を問われたのだ。独自に調べ、父を殺したのは尊厳侯であることの確証をアイネイアスは密かに得ていた。

 若き将校は端正な顔にぞっとするような暗さを浮かべた。

 皇女と結婚などするものか。侯の目論見など打ち砕いてやる。


 だが、そんなアイネイアスの決心は早々のうちに試されることになった。

 お懐かしいこと。

 輿から降りた皇女ユーディットは、出迎えたアイネイアスを見ると眸を潤ませた。湖面の水色が皇女の姿によく映えた。


 アイネイアス。

 憶えております。

 雪が降っていて、あなたはお父さまである将軍とご一緒でしたね。



 副官ギーレが皇女を連れてくるのを待つ間、アイネイアスは屋敷の中で書類仕事に没頭していた。真夜中を過ぎた頃、ようやくアイネイアスの室の扉が叩かれた。

「ギーレです。皇女をお連れしました」

「お通ししろ」

 アイネイアスは眼を疑った。副官のギーレは軍套で頭からすっぽりと包んだ皇女を荷のように肩に担ぎ上げて入って来たからだ。

「それは一体、なんの真似だ」

「目立たぬように皇女さまを連れ出すために止む無くこのように」

「ばか者」

 しかし隠密行動を命じたのは自分なのだ。アイネイアスはその辺に皇女を置いて去れという身振りをした。

 ギーレの気配が完全に廊下に消えたのを待ってから、アイネイアスは女の許にとんで行った。敷布の上に転がされている皇女は、口に布を詰め込まれ、軍套でぐるぐる巻きにされている。

 いそいでアイネイアスは皇女を抱え起こして軍套と口枷を取り除いた。

「ユーディット」

「人違いよ、くそったれ」

 可愛い口から暴言を飛ばし、形のいい脚を宙にばたつかせて現れたのは、待ちかねた皇女ではなかった。


 

 軍套から出てきたのは、皇女ではなくルツだった。敷織物の上に転がり出たルツの方も、アイネイアスに気が付いた。

「あ、今朝、門のところにいた将校」

 ものすごく厭な顔をしたルツとアイネイアスの眼が合った。

「ルッツリアだったな。何故お前が此処にいる」

「なぜ? 貴方の部下がわたしを此処に連れて来たんじゃない」

 少女は鼻の上に皺を寄せた。

「貴方の部下のギーレとやらが、いきなりわたしの口を塞いで抱え上げたのよ」

「こっちへ来い」

「わたしを、どうしようというの」

「どうもしない。人違いだ」

 ゆるく縛られていたルッツリアの拘束を短剣で断ち切ると、アイネイアスは近くの長椅子を指し示した。

「そこで寝ろ。朝になれば帰ればいい」

「今、帰るわ」

 ルツは窓辺に走り寄った。露台に出てみると想ったよりも室は上階で、松明に照らされた下の中庭には夜警の兵士がいる。見つからないように降りるには、壁面の出っ張りを伝いながら死角に回らないといけないようだ。

「やめろ」

 アイネイアスは露台を乗り越えようとしているルツを抱え上げて室に連れ戻した。机の向かいに座らせると、手つかずだった夜食の皿を犬に与えるようにルツに差し出した。

 しぶしぶ椅子に座ったルツは皿に盛られた冷肉と豆料理を食べ始めた。その間、アイネイアスは黙ってルツを眺めていた。

 わざと雑に振舞っているが、上流の家の娘だ。

「ごちそうさま。貴方が、ユーリに結婚を無理強いしている人かしら」

「何の話だ。ユーリとは誰だ」

「今夜わたしとユーリは寝る場所を交換していたの。夜間がいちばん危ないと想ったから、わたしが天幕に寝ていたの」

「部下が間違えたのだ」

「いつもこんなことをしているの? むっつり助平」

「アイネイアスだ」

 この少女は何者だ。アイネイアスは眉を寄せた。城壁前で今朝みかけた時もそうだった。専制国軍を相手に少女はまったく怯んでいない。見知らぬ屋敷に投げ込まれてもけろりとしており、萎縮もしていない。

 アイネイアスはルツをあらためて観察した。火を燃やしている室内の灯りに、ルツの眸や髪がきらきらと輝いた。



》中篇(下)

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