第二章 軍人と皇女

Ⅱ 前篇

 

 海を臨む城郭都市に、夕暮れが訪れようとしていた。空の色が深くなり、沈む太陽が街を取り囲む壁に長い影をひく。

「ばれないとでも想っておられましたか」

 上級官吏ラズロはつい、妹を叱るような口調になっていた。天幕の中で皇女ユーディットはしどろもどろに抗弁した。

「とてもうまく変装したと想っていたのですが」

「身のこなし言葉遣い。見る者が見れば、ばればれです」

 皇女は困った顔をして黙ってしまった。

 『フィベ』になる者は身寄りのない女が多い。事情あって邑を離れ、巡礼者と合流して移動する。フィベに身をやつしたお蔭で皇女は怪しまれずに城郭都市に入ることが出来たのだ。

「いつ到着されたのです」

「昨夕です」

「今朝から検問が強化されています。しかしまさか、皇女さまがフィベに変装しているとは誰も想わないだろう。湖水地方からよくもこんな遠くまで来られたものだ」

「フィベになることで、故郷巡礼者の皆さんとご一緒できました」

 故郷巡礼者とは、旅団を組み、出先や旅先で亡くなった者たちの魂を故郷に持ち帰る旅人のことだ。巡回している彼らの馬車に乗せてもらって城郭都市まで来たのだとユーディットは打ち明けた。

「お供の皆さんは」

「先に街の中に入っています」

「皇女さまをお独りにして?」

「フィベに供人がいるのは奇妙ですから。隠れ家が用意できるまでの間です」

「それにしても何故、城郭都市へ」

「この街は、異母兄である第三皇子を異国に逃がしてくれたからです。それに、古い時代にはわたくしの祖先の王が世話になっています」

 砦しかなかった時代の話だ。そんな伝承が確かにある。

「それで。その伝説の砦でもご見学に来られたのですか」

 帝国が帝国となる以前の昔のことで、王の武勇伝もどこまでが本当のことかは眉唾ものだが、海を渡って異国に逃げた王は戻ってくる時に、異国の軍勢を率いていた。王と共に上陸した異国人がこの城郭都市の『最初の人々』ということになっている。さらには十年前、皇帝暗殺後の混乱の中で、追手を振り切ってこの街に辿り着いた第三皇子は此処から異国に亡命した。街の歴史は皇家と密接な関わりがあるのだ。

「子どもの頃に父皇帝から聴いたことがあるのです。古代の王は、都に戻っても逃亡した折の苦労を忘れず、この街に避難所としての秘密の王宮を造ったとか」

「ともあれ、行方不明だった皇女さまが見つかって安心いたしました」

 秘密の王宮には関心を示さず、ラズロは云った。

「聴きたいことは二つです。離宮から逃げ出された理由。そして今後、皇女さまがどうされたいのか」

「あの、ラズロ」

「何でしょう、ユーディットさま」

「誰にも秘密にしておいて頂けないかしら」

「無理です」

「そうよね」

 簡易寝台に腰を下ろしてユーディットは俯いた。ラズロは天幕の帳をめくって外を覗いた。空の色が夜になりかけている。

 帳を片腕で持ち上げていたラズロは、ふと、皇女の天幕を遠くからうかがっている者たちの姿に気が付いた。 

 若い男が二人。

「……とにかく、このような不潔な場所に皇女さまが居てはいけません」

 ラズロは、アイネイアスの命令を想い出した。

「高台にお屋敷をご用意しております。お話はそちらでゆっくりお伺いします。禁衛軍のアイネイアス隊長が皇女さまを探して、湖水地方からこの街にお迎えに来られていますよ」

「アイネイアス」

 途端にユーディットは狼狽えた。

「アイネイアスが来ているの?」

「何を怖れることがありましょう。禁衛軍は皇女さまの臣下です」

「皇女といってもわたくしは大勢いた中の一番下ですし、アイネイアスはわたくしを外国に逃がしてくれた恩人の将軍の息子です。それに、短い間のことでしたけれど、わたくしと彼は婚約までしていたのです」

 やっぱりか。

 ラズロは内心で舌を出した。あの男は婚約者などいないとしらばっくれていたが、やっぱりそうじゃないか。

 ラズロは将校を少し見下した。その間も、ユーディットは困惑した顔で視線を泳がせていた。ラズロはその様子を見て、「皇女はあの男に逢いたくないのだ」と判断した。

 それを裏打ちするようにユーディットは「アイネイアスには逢いたくありません」と悩まし気にこぼした。

 ラズロは物分かりのいいところをみせた。

「では今日のところは、皇女さまの存在をアイネイアス隊長には内緒にしておきましょう」

「そうして下さい」

 ユーディットは見るからにほっとした顔になった。

「良かったわ。湖水地方の離宮から黙って消えたりして、アイネイアスはきっと怒っていらっしゃるわね」

「そうでしょうね」

「あの方、いつも怒ったような顔をしているし、怒るとさらに怖そうなの」

「そりゃ怖いでしょうね。軍人ですから」

 堅物のアイネイアスの顔を想い浮かべながらラズロは云った。

「禁衛軍は貴女を探して、今朝から市門の検問にあたられています。貴女がすでに街の中に入っていることをまだ知りません」

 ラズロは訊ねた。

「今後はどうされたいとお考えですか皇女さま」

「どう、とは」

「ここは自治領です。この街に暮らす者たちは尊厳侯ではなく、今も昔も帝国皇帝とそのご家族に仕える忠義の者です。想うところを仰って下されば、可能な限り皇女さまの為に便宜をとりはからってみせます。亡命をご希望でしょうか」

「まあ、どうしてお分かりになるの」

 分からいでか。

 浮世離れしている姫君よりもそのあたりのことは皇女の供人たちと話し合った方がいい。とにかく、今日はここまでだ。

 ラズロは皇女が何かを云う前に念をおした。

「アイネイアス隊長には黙っておきます。しかし離宮から失踪した時のように、知らぬうちに姿を消したりするのはもう駄目です」

「はい」

「そうなった時には、わたしは迷わず隊長の許に行き全てを報告します。そうなれば何処に逃げても今度こそ禁衛軍が貴女を探し出して皇都に連れ戻してしまいます」

「分かりました」

「さらに。貴女が黙って消えてしまったら、わたしは尊厳侯およびこの街の総督からも責を問われて縛り首です」

「そんなことは決してさせません」ユーディットはびっくりして云った。

「あなたの責任ではありません、ラズロ」

「アイネイアス隊長には逢いたくない。それでいいですね」

 皇女は膝の上で組んだ白い手に眼線を落とした。そして頷いた。女のその様子にラズロは注意を払った。高慢なアイネイアイスのことが皇女も苦手なのだろう。それだけでなく、そこにはもっと繊細な女の感情があるような気がした。

 繊細な感情とは、妙齢の女が抱くうつろいやすい不安感に違いない。

 尊厳侯に反抗して処刑された親族をラズロはもつ。皇女を眼前にしたラズロの脳裏に、かつてこの街を満たした勇敢な者たちの声が高らかに甦ってきた。


 この城郭都市には、尊厳侯を皇帝の代わりだと認めない者がまだいるぞ。


 ラズロは皇女に力強く云った。

「ご一緒に、どうしたらよいのか今後のことを考えましょう」

「ありがとう」

 すっかりラズロを信じきったものか、皇女ユーディットは安堵の息をついた。

 さて、とラズロは考えた。皇女を説得したのはよいが、さすがに幾らなんでもこんな不衛生な場所に皇女を無防備のままおいておくというのは憚られる。

 ラズロは井戸端で逢ったあの男を頼ることにした。尊厳侯の名を出した時、テセウスは確かに顔を歪めていた。


 

 こちらのフィベは、ユーリさんといって、フィベに変装して無理やりの結婚から逃げてきた方なのだ。

 ラズロが語るそんな女の身の上話を、ルツはすっかり信じ込んでしまった。病人隔離用の小屋は手狭で、テセウス、ルツ、皇女、ラズロの四人が入るとそれでいっぱいだった。

 ルツは、ユーリと名乗る美しいフィベの身の上に同情して、上級官吏ラズロの頼みを断らなかった。

「うまいことを考えたわね。フィベなら目立たないわ」

「目立つぞ」

 テセウスは井戸端で逢ったフィベの全身を眺めまわした。

「フィベは年のいった寡婦がなるものだ。あんたみたいに若いフィベは、たとえフィベールで顔を隠していても目立つぞ」

 ましてやそのように美人なら。口には出さなかったがその場の誰もが同じことを考えていた。

「二人に頼みたいことがある」

 ラズロが切り出した。

「君たちは到着したばかりでまだ決まった介護人がいない。こちらのユーリさんはフィベとして身を隠す必要がある。ユーリさんが、ルツの看病をするフィベということにして欲しいのだ」

「お安い御用よ」

 ルツはすぐに承知した。

「無理やりの結婚なんて冗談じゃないわ。追手が来たら兵役経験のあるテセウスがやっつけて追い払うわ」

「耳目を集めるような暴力沙汰は困る」

 慌ててラズロはルツに云い含めた。

「何かあったら時間を稼ぎ、上級官吏の許可なしには何も出来ないと云い、わたしを呼んで欲しいのだ。頼めるかな、ルツ」

「いいわ」

 ルツはユーディットの手を取った。

「何かあればわたしがフィベールをつけてユーリに変装するわ。あら、あの鐘の音は何かしら」

「あれは食事が届いたことを知らせる鐘です、ルツ」

 ユーディットが微笑んだ。

「外に買いに行かなくてもいいように、日に三度、食事が運ばれてくるのです」

 隔離区画に入る前に場所代を支払ってはいるが、あり余るほどの恩恵だ。

「城郭都市は福祉が行き届いているのね」

「こういっては何ですが、税収もよく、治安もいいです」

 役人のラズロは自慢した。密貿易のお陰で潤っているのだが、よそ者に伝えるようなことでもない。

「夕食を取りに行ってくる。ユーリの分もね」

 元気よくルツは小屋から出て行ってしまった。

「ちょっと話がある」

 帰ろうとするラズロを、テセウスが呼び止めた。小屋の裏には馬車が停めてある。その蔭に回ると、馬車の後ろでテセウスはラズロに声を荒げた。

「訳ありの女を押し付けられても面倒みきれない。フィベの安全は保障しないぞ」

 ラズロは落ち着いていた。

「ばらしてもいいのか」

「ばらすとは何をだ」

「お前たちは密航しに来たのだろう。ルツは健康そのものだ。病気は偽りだと役所に報告すれば南の異国には渡れなくなるがそれでもいいのか」

 ラズロは井戸端でテセウスが示したあの態度に賭けた。

「テセウス、一つ訊こう」

「何だ」

「兵役の間、お前は皇軍兵士として従軍したのか、それとも尊厳侯の私兵として闘ったのか」

「皇軍兵士だ」

 躊躇うことなくテセウスは胸をはった。

「帝国の為に戦ったのだ。俺の父親もそうだった。尊厳侯などの為にはたらくものか」

「それが聴きたかった。フィベが誰なのか教えてやる」

 ラズロはテセウスに耳打ちをはじめた。

 海の上に月が出ていた。先刻ラズロがみかけた二人の若者が、眼を光らせて、遠くからフィベの隠れた小屋を見詰めていた。



》中篇

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