Ⅳ 後篇


 地下室に響いたのは総督の声だった。

「お待ちを」

 転がるようにして階段を降りてきた総督は太った身体を皇女と尊厳侯の間に投げ出した。

 身を丸めて総督はルツの足許にひれ伏した。

「皇女さま。皇女さまが手を汚してはなりません。この男を殺るなら皇女さまの代わりにこの総督が殺します。ルッツリアさまは、どうぞこの場から亡命を」

「総督」

 ルツは長い裾をさばいた。

「人の後ろに隠れて人を殺めるような卑怯者にはなりたくないの」

 転落した尊厳侯は頭を強く打っていた。彼はぼんやりと総督とルツの会話を聴いていた。何故かはるか昔に高所から突き落とした第三軍の将軍の姿を想い出した。眼を開けたまま血を流して死んでいる。こちらを睨みつけているその顔はアイネイアスに似ていた。あの時のあれはもっと高い処からだったが。

 悪夢の中で悪魔に応えるように、尊厳侯はもがいた。

「……もう遅い。お前たちの企みなど、分かっておった」

 床の上で男は蟲のように蠢いた。

「そんなこともあろうかと海岸を厳重に見張らせているのだ。小娘め。ユーディットを捕えたらお前など用済みだ。反逆者として海泥に埋めてやる」

「では、急がないと」

 あっと云う間もなかった。総督の太った身体をひらりとかわしたルツの細剣は、一筋の残像を引いて尊厳侯の息の根を止めていた。

「こ、皇女さま」

「尊厳侯は階段から落ちたのよ」

 剣先についた血を尊厳侯の衣の端に擦り付けると、男の死を確認してルツは立ち上がった。

 そこへルツを探していたラズロが酒蔵庫を覗いた。従者たちが震える手でラズロに向かって下を指し示す。地下の床を覗いたラズロは流石に魂消た。

「まさか」

「ラ、ラズロ」

「総督。血を流してそこに伏されているのは尊厳侯ですか」

 腰を抜かさんばかりの二人の男をよそに、ルッツリアは落ち着いて階段を上がって来た。ラズロと上で顔を合わせたルツは、固まっているラズロに云った。

「異国船とは、陸側の燈台から連絡を取っているわね」

 ラズロはようよう頷いた。まだ立ち直っていない。

「『待機せよ』と伝えて」

 剣を鞘に納めると、皇女ルッツリアは大声で命じた。

「馬を用意して」



 岩場に潜んでいるアイネイアスたちの許に、浜辺に降りてきたテセウスとダリが合流した。テセウスは特別隔離区画から荷物を回収していた。馬車と馬はその場で売った。

「舟着き場はもう少し先です。移動しましょう」

 彼らは城郭都市の真下の崖を回った。頭数を数えていたダリがテセウスに訊いた。

「テセウスさんは舟を漕げますか」

「漕げる」

 市民兵も渡河の訓練は積んでいる。夜眼が利くダリは彼方を見詰めながら全員に伝えた。

「異国船から舟が降ろされました。一艘だけだ。あれに全員は乗れません。往復するのは時間がかかります。あの小舟を使いましょう」

 地元の漁師の小舟が少し離れた浜辺に引き上げられている。二手に分かれ、侍女と従者のうち半数は、ダリとテセウスが漕ぐ漁師の小舟に乗ることになった。

 海岸に途切れなくお祭り騒ぎが響いている。城郭都市を崖下から見上げて、アイネイアスは焦れた。

「ルツはまだか」

「迎賓館からサムソンが連れて来ることになっています」ダリは応えた。

「舟が着きます。先にユーディットさまを異国船へ。アイネイアス隊長も舟に乗って下さい」

 ダリが云うには、島影に追手が隠れ、舟で邪魔立てしてくる可能性も考えなければならないとのことだった。その時には軍人の剣が役に立つ。

「俺とテセウスさんは浜に残り、ルッツリア皇女を待ちます」



 街では花火が上がっていた。崖上にある城郭都市から洩れてくる灯りのお陰で、真っ暗ということはない。

 異国船から降ろされた小舟は熟練の漕ぎ手たちによって、見る見るうちに浜に近づいてきた。着岸可能な天然の船着き場は岩を利用して係留まで出来た。

「こうやって密貿易を繰り返していたのだな」

 手慣れた様子で岩場まで近寄ってくる舟を眺め苦々しくアイネイアスは呟いたが、今はその是非を問う時ではない。

「アイネイアス」

 夜風に皇女の髪が揺れていた。皇女はアイネイアスの両手をとった。

「アイネイアス。異国に亡命した兄は専制国が弱体化するのを待っています。尊厳侯に何かあれば、すぐに兵を挙げて帝国領に戻って来るでしょう」

「その時には帝国中の軍が正嫡に応じて立ち上がる」

 異国船が裏切らないという保障はどこにもない。今から乗り込む小舟が向きを変えて尊厳侯に彼らを引き渡さないとも限らない。

「侍女たちは、貴方がわざと枯れた花をわたくしに渡したのだと云うのです」

「他意はなかった」

 硝子のような眼に星灯りを映してアイネイアスは皇女に応えた。

「美しい花だと想ったから届ようと想った」

 花はどこか似ていた。雪の中にいた皇女の姿に。

「アイネイアス。異国船が裏切り、もし船の上で捕まるようなことがあれば、貴方のその剣でわたくしを殺して下さいね」

 手を繋いだまま皇女はアイネイアスの助けを借りて先に小舟に乗り込んだ。その時だ。松明を掲げた軍馬が列になり、砂を蹴散らしながら浜辺に降りてきた。

「尊厳侯のお達しだ。その舟を海に出すな」

「舟から降りろ」

 兵は岩場の手前で馬から降りると、剣を抜き放ち、問答無用で彼らに襲い掛かって来た。

 アイネイアスは係留を解いた。舟が波に乗り出した。アイネイアスとユーディットの手は離れた。

 漕ぎ手の櫂が素早く動き、皇女と従者を乗せた舟は沖へと漕ぎ出した。陸に残ったアイネイアスは剣を鞘から抜くと舟を追う者を斬り伏せた。夜に剣と剣が打ち合い、火花が散る。アイネイアスの前に進み出て来た男はよく知った顔だった。

「他の者は手を出すな。隊長。お覚悟を」

「ギーレ」

「尊厳侯に命じられて隊長を監視しておりました」

 誰もまだ尊厳侯が死んだことを知らない。

「生け捕りを命じられておりますが、隊長に不名誉は似合いません。ご遺体は海に沈めて見つからないようにします」

「裏切ったのか、ギーレ」

「わたしも残念です隊長」

「もう一艘、舟が向こうにあります」ギーレの部下がそれに気づいて声を上げた。

 アイネイアスの剣を払って、ギーレが命じた。

「おそらく、あちらの舟にルッツリア皇女がいるのだ。あの舟を止めろ」

 浜に降りてくる騎馬群を見たテセウスたちも、急いで舟を出そうとしていた。松明を手にした兵士が砂に足を取られながら束になって襲い掛かって来る。

 ルッツリアを待っていたが、こうなっては致し方ない。多勢に無勢な上に、こちらの半分は侍女たちなのだ。

 テセウスは怒鳴った。

「皇女の舟は脱出した。こちらも舟を出すぞ」

 テセウスは従者と共に砂浜から波打ち際に舟を押し出した。

「誰かが残って闘っています」

「なに」

 テセウスが振り返ると、陸に残って尊厳侯の兵と闘っている影がある。あれはアイネイアスだ。

「尊厳侯の命令だ、投降しろ」

 近づいて来た兵の頭をテセウスは櫂を振り回して殴りつけた。背中を使って波に舟を押し込む。浮力のついた舟が浮いた。裾を濡らして波打ち際に入った侍女たちを先に舟に乗ったダリと従者が急いで引っ張り上げる。

「他に舟を漕げる者はいるか」テセウスは叫んだ。

 手を挙げた従者に、テセウスは櫂を渡した。

「真っ直ぐ異国船に行け」

 剣を抜き放つとテセウスは追手の兵士の胴を斬り、次の兵の胸を刺した。二艘目の舟も海に漕ぎ出した。

 テセウスの耳元を何かが過ぎた。矢羽根の音だった。頭上の空から火が降りて来る。テセウスの視界が炎の色でいきなり明るくなった。


 

 アイネイアスも上方を見た。遠い昔の森の中の戦場の再現かと想うほどだった。太陽の破片が雨となって海岸に落ちて来るのだ。

 海岸に降ってきたのは火矢だった。燃える矢に射抜かれた尊厳侯の兵がたちまち倒れていく。

「よく狙え」

 市壁の胸壁と望楼に市民兵がずらりと並び、尊厳侯の兵を狙って火矢を構えていた。そこに、馬のいななきが被さった。

「兵を退きなさい」

 一頭の馬が浜辺の囲みを破って飛び込んで来た。馬の乗り手は男装したルッツリアだった。

「尊厳侯は死んだわ。兵舎で沙汰を待ちなさい」

 よくとおる声でルツは兵士に告げた。砂の上のあちこちで火矢が火箸のように燃えている。その朱光を受けてルツの髪は耀き、その眸は熱を帯びた。翼を広げた天馬のように、ルツの馬は闘いの合間を駈け巡った。その声は夜に響いた。

「投降するのよ。尊厳侯は死んだわ」

 尊厳侯の兵は愕然となった。

「嘘だ」 

「朝になれば訃報の鐘が鳴るわ」

 尊厳侯の死を信じられぬ兵士は混乱した。さらに城郭都市から火矢が落ちてくるとあっては、これは異国の襲撃だと想い違いをした。判断力を失った彼らは口々に叫び、眼前の敵にがむしゃらに襲い掛かって来た。

「皇女さまを救え」

 城郭都市の登楼で弓隊の指揮を執っているのはラズロだった。隣りにはサムソンがいた。

「サムソン、放て」

 腕に覚えのあるサムソンの放つ剛矢に、兵は次々と倒れていった。

 アイネイアスは敵兵をルツから引き離す為に暗がりに走り、ルツに叫んだ。

「お前は引き返せ。市壁の中に戻れ」

「テセウスに加勢するわ」ルツは馬首を回した。

 テセウスのいる反対側の浜にも火矢は落ちていたが、射角が取れず、手前に刺さっている矢も多かった。

 ルツは馬鞍から腰を浮かし、兵の頭を跳び越えて波打ち際をテセウスに向かって駈けて来た。

「ルツ」

 テセウスの眼に馬上から弓を構えているルツの姿が映った。弦楽器のような音を立てて月を弾き、ルツの矢が敵を貫く。

 次の矢をつがえている間に兵士がルツの馬の手綱に跳びかかった。テセウスの剣がルツを追う兵士の背中を裂いた。

「お前の養父に今日こそは物申したいぞ」

 砂を蹴り、テセウスは敵兵を屠った。

「騎乗で弓まで使えるのなら、俺の護衛など不要ではないのか」

「そんなこと」

 降りかかる冷たいものは雨ではなく、馬の蹄が蹴る波の飛沫だ。炎を上げる砂浜に沿って夜の海を駈け回り、「復讐は天祐だった」とルツは笑い声を上げた。

「忠義者には褒美を与えなければ。テセウス、あなたのお父さんの仇は討ったわ」

 火の輪の中で馬を躍らせているルツの頭上にテセウスは黄金の冠を見た。異国の地で雄飛の時を待っている第三皇子の気性がルツに似ているのならば、そちらも相当なものだろう。

 その間、アイネイアスは岩礁から岩礁へとギーレを誘い込んでいた。夜間、さらには波で足許が濡れているため何度も滑った。それは相手も同じだった。

「お前はいつから間諜だったのだ、ギーレ」

「本意ではありません」

 岩にあたったギーレの剣が撥ねて海に落ちた。ギーレは短剣を取り出し、身体ごとアイネイアスにぶつかってきた。二人の間に血が落ちた。血はアイネイアスのものだった。

「尊厳侯の命令に逆らえば家族が殺されてしまいます」

「どのみち殺されるぞ」

 アイネイアスは咆哮を上げ、ギーレの首を抱え込み短剣の動きを封じ込んだ。決死の二つの影が揉み合った。

「あそこだ。隊長が危ない」

 花火が上がった。ラズロの指揮に応えてサムソンが放った矢がギーレの背を貫いた。二人の兵は絡まったまま、夜の海に転落していった。



 明け方に薄く霧が出た。

 ずぶ濡れのアイネイアスはギーレを引きずるように抱えて岸から上がった。

 そこが何処かアイネイアスには分からなかった。踏みしめるのは波でも砂でもなく、草と泥だということは霧の中で分かった。潮に流されたものか、城郭都市の影は、はるか後方だった。

 冷たい風の吹く静かな朝だった。闘いは終わったのだ。

 ギーレの身体が泥の窪みに崩れ落ちた。

「隊長……」

「何も云うなギーレ。お前は誰も裏切ってはいない」

 要人の死去を告げる鐘の音が遠くから聴こえ始めた。ギーレは短剣を握り締めたままこと切れた。幹部候補生だけに与えられる名誉の剣。これを授かった者は、肌身離さず生涯大切にする。

 アイネイアスは部下の瞼を閉ざした。短剣ごと死者の手を胸の上で組ませ、泥土で包むように亡骸を窪地に埋め始めた。



》終章へ

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