Ⅳ 中篇
敷設に使用された石の材質のお陰で帝国の街道は夜間でもほのかに光って見える。城郭都市でも同様に、街中の敷石は月明りにうっすらと白く浮き上がって見えた。
旧市街と呼ばれている下町の一角で馬を降りた者たちは皇女のお陰でお祭り騒ぎになっている街路を通り抜け、誰にも注意を払われぬまま裏道に入り、古い時代の門構えをした家の戸を決められた合図で叩いた。
彼らは家の奥の隠し扉へと案内された。
「この下に王宮があるのです」
案内人のダリが、地下室の扉の前でアイネイアスに松明を渡した。
「声を出しても海の音に紛れて外には聴こえません。この家の両隣りも旧市民であり仲間です。俺は戻って、テセウスさんを連れて浜辺に出ておきます」
アイネイアスを残して、ダリは行ってしまった。
まず眼についたのは丁寧に彫り込まれた柱模様だった。王宮は岩を掘って造られており、霊廟のようだった。地下であるがゆえに潮風にも晒されることなく、壁画の彩色もモザイク画も鮮やかなままだった。遺跡の玄室の中に入って行くような気がアイネイアスにはした。この家に暮らす一族が風を通して手入れをしてきたお蔭で、全てが真新しくみえた。
三つある室の、いちばん奥の室の扉を叩き、彼はその中に踏み込んだ。
アイネイアスは皇女の名を呼んだ。
ユーディットは現れたアイネイアスを見た途端、壁際に下がってしまった。
「アイネイアス。何故ここに」
短気なアイネイアスは俊敏な豹のようにユーディットの許にひと跳びに近づいた。家名と軍務と信念と女への愛を秤にかけ、それを運命のせいにするならば、出逢わなければ良かったということになるのだろう。
「皇都に連れ戻す為に来たのではない。異国に逃がしてやる」
「えっ」
「時間がない、今晩だ。海岸に舟が来る。侍女と従者は何人いるのだ。荷物をまとめてお前たちも附いて来い」
皇女の手を掴み、アイネイアスは一行の先に立って歩きだした。岩崖の中に造られた王宮には、さらに下に向かう階段があり、螺旋の内階段は崖下に向かって降りていた。
「アイネイアス」
「何処にでも行け。俺の顔も見たくないそうだからな」
「云ってないわ、そんなこと」
アイネイアスに手を引かれていた皇女は眼を見開いた。
「わたくし、そんなことは云っていません」
「官吏のラズロからそう聴いた」
「逢いたくないと云っただけです。逢いたくないのと、顔も見たくないのとは違います」
「どこが違う。同じだ」
「違います。もう一度、貴方に逢うことが躊躇われただけです。婚約は、わたくしの為に命を落とすことになった将軍の息子とのお話だから受けるべきだと想ったのです。でもそうではないと知って騙されたと想いました」
「当然だな」
アイネイアスもそれを認めた。酷い話には違いない。
「顔も見たくないのも無理はない」
「違います」
手を引かれている皇女はアイネイアスの背中に向かってようよう云った。
「その、最後の日に貴方があんなことをなさるから」
「何かしたか」
「その、あんな」
言葉をつかえさせて、皇女は口ごもった。
「あんな、ことを」
「ユーディット」
アイネイアスはユーディットを振り返った。松明に照らされたユーディットの姿は揺れる火影に包まれて神々しいほどだった。
「尊厳侯などに渡すものか。逃げろユーディット」
「共に来て下さいアイネイアス。残れば貴方が罪を負うことになります。そんなことになるのならば、わたくしは決して異国には行きません」
「お言葉はありがたいが、もう下に着いた」
そこは洞窟になっていた。潮汐の影響で海水が入って来ていたが、岩を飛び石のように辿って外に出ることが出来た。
まず眼に入ったのは藍色の夜空と一面の星空だ。
打ち寄せる波の音が洞窟にあたって反響する。前面に大きな岩が立っており、岩の隙間から外に出ることが出来た。
星がひしめていた。浜辺の砂粒が空に昇ったかのようだった。
水平線に船影がみえた。船は船縁から角燈の明滅を使って陸に合図を送っていた。手筈どおりならば皇族を亡命させる旨を陸から異国船に返信しているはずだ。
星空と海の分かれる境にアイネイアスは眼を凝らした。アイネイアスの手はユーディットの手を強く握ったままだった。
貯蔵庫は迎賓館の地下にあった。地下の食糧庫のさらにその下に酒類のための広い空間がある。
酒や油や調味料は、底になるにつれて細くなる紡錘形の素焼きの壺に密封され、保管する時も壺が倒れないように組んだ木枠に固定された。壺がずらりと並んだその様子は、場所が地下ということもあって、棺のように見えた。
「こちらです」
地下に設えた酒蔵庫に、総督は尊厳侯を案内した。
「運搬にも保存にも適しているのは素焼きの壺ですが、木の樽で保存する北方の酒も少々置いてあります。木の香りが酒に移り他にはない味になるそうで」
提督は地下室の鍵を開けさせた。
「運ばれた酒は木枠ごと天井から下に降ろして、外気温の影響のない地下に保存しております。ここから急こう配の階段になります。足許お気をつけて」
「酒を出す時は担ぎあげて出すのだな」
尊厳侯の疑問に答えるように、ちょうど上階に向かう召使がいた。子どもの背丈ほどある素焼きの壺を背負っている。
総督は真下に声を掛けた。
「おーい、上がるのか」
「はい、総督」
「では先に通れ」
壺を背負った召使が石段を上がって来た。片側は松明を架けてある壁だが、片側は底まで開いており、暗い床面はまるで井戸の底だ。防護柵もなく、一人しか通れないような幅のない階段だった。
「さあ、降りましょう尊厳侯」
総督が促したその時、ルッツリアが後ろからひょいと顔を出した。
「みんな、此処にいたの」
「これは皇女さま」
裁縫師と化粧師の腕が良かったのか、その夜のルツは女の衣と、少女らしさを損なわない程度の薄化粧がよく似合っていた。
「この下は何」
若々しく物怖じしないルツの態度に、総督は顔をほころばせた。
「酒蔵庫です。尊厳侯にお見せしようとしていたところです」
「わたしも、いいかしら」
「宜しいですとも」
にこにこしながら総督は客人を階段に案内した。松明を手にした従者が先頭に立ち、尊厳侯が続こうとしたところ、「先に行かせて」とルツが割り込んだ。
ルツは尊厳侯の肘に手をかけた。
「尊厳侯は、後から附いて来てね」
可愛らしく頼まれた尊厳侯は、まんざらでもない気持ちでルツの後ろについた。若い娘に懐かれるのはいい気分だ。この分では結婚も遠くないかも知れない。薄笑いを浮かべて尊厳侯はルツに続いた。
「お二方とも足許にお気をつけて」
先頭のルツと尊厳侯の後ろから総督が太った身体で階段に踏みだした。
ルツの顔がこちらを振り仰いでいた。よそ見をすると階段を踏み外しますと総督は少女に注意しようとした。ルツは尊厳侯の顔を見て何か云っているようだった。直後に鈍い音が地下に響き渡った。松明の灯りが四方の壁や天井に揺れ動く。総督には何が起こったか分からなかった。
ルツとの間に奇妙な空白が生まれている。そこに居たはずの男がいない。
「尊厳侯」
総督は地下室の床を見て叫び声を上げた。尊厳侯の身体は、はるか下の石の床にあった。階段から落ちたのだ。
「そ、尊厳侯」
「足を滑らされたようね」
ゆっくりとルツは階段を降りていった。階下に辿り着く。
「頭を強く打っているわ。でもまだ息はあるみたい」
「大変だ。すぐに人を」
「それはあなたの考えなの、総督」
「ルッツリアさま」
「誰もそこから動かないで」
地下室で作業をしていた者たちも放心状態だった。総督と従者たちもそうだった。
ルツは長い裾を手繰ると、片脚に革ひもで留めてあった細剣を取り出した。地下倉庫の天井に開いている通気孔を通して、地上世界の白い月が見えていた。
「この細剣はよく斬れるの。そして傷口は目立たない」
ルツは細剣の鞘を払った。
「尊厳侯は階段から転落したのよ」
皇帝を殺したな。
振り向いて尊厳侯の顔に向かってそう云った時、尊厳侯の眼は僅かに見開いた。ルツは尊厳侯の腕に手をかけ、振り回すようにして脚を払った。小麦袋のように仇敵の身体がはるか下の床に落ちてぶつかる音を、ルツは身動きもせずに聴いていた。
蒼白になって慌てふためいている総督に、ルツは微笑みかけた。足許には脳震盪を起こして伸びている男がいる。
片手の掌に剣の先端を横において、ルツは総督に繰り返した。
「尊厳侯は足を踏み外されたの。そうよね?」
惜しいことだね、ルッツリア。
父の皇帝はお忍びで貴族の邸宅を訪れる度に、幼いルッツリアの頭を撫でて云ったものだ。
わたしは武芸が不得手で戦ごとにはまるで興味のない詰まらぬ王だが、お前は活発な第三皇子と同じく、英邁の名を遺した高祖父に似ている。ルッツリア、お前がもし男子ならば、七つの海を統べる王にも成れただろう。
父の言葉は幼いルッツリアの胸に刻まれた。そしてルッツリアはその時、父に云ったのだ。
大きくなったら、お父さまの敵はぜんぶわたしがやっつけてあげるわ。
その時が来たのだ。
》後篇と終幕へ
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