第四章 朝の波音(最終章)

Ⅳ 前篇


 悪行をはたらく人間にありがちなように尊厳侯は体面を気にする性質だったので、表向きの礼節はまもる男だった。とくに、総督府から兵舎に戻って来るのと前後して、禁衛軍隊長アイネイアスが滑り込むようにして兵舎にやって来て背中に張り付いて回っているとあっては、本性剥き出しの真似など出来なかった。

 尊厳侯にとって名門貴族出身の堅物な若手将校アイネイアスは小面にくい存在だったが、彼の父を殺していることが尊厳侯をして、アイネイアスに配慮と遠慮のある態度をとらせていた。というのも、アイネイアスが尊厳侯に従っている限りは、とりもなおさず、尊厳侯にかけられた数々の暗殺の疑いが風評に過ぎないという証明になったからだ。

 独裁者ほど、その自画像は神の如き完璧なものだと想い込んでいるものだ。アイネイアスを前にした今の場合、想い描くその自画像は理解ある上官だった。

 尊厳侯は笑顔を作り、アイネイアスに向き合った。

「アイネイアス、ご苦労だった」

「大変に愕きました。尊厳侯」

「そうだろう。わしも愕いた。こちらの、この乙女が、皇帝のお血筋をひく隠された皇女さまだったとは」

 尊厳侯はルツをその場の者たちに披露した。

「耳にしたことがないわけではなかったが、ただの作り話だと捨て置いていたのだ。ところが調べさせてみると真実だった。もはや疑うべくもない」

 気持ち悪い。

 想わず小声でルツがそんな感想を洩らしたほどの満面の笑みで、尊厳侯はルツを下にも置かないもてなしぶりだった。

「尊厳侯。皇女さまのお召し替えの用意ができました」

「うむ」

「着替えるの?」

「さすがにそのままというわけには、ルッツリア皇女」

 ルツが隣室に消えると、尊厳侯はすっと笑顔を引っ込めた。 

「第三皇子に似ておられる」

「そうですね」

 アイネイアスも認めざるを得なかった。容姿ではない。ラズロも指摘していたが、帝王の器の片鱗をみせていた第三皇子にルツは似ているのだ。少女には何か強い吸引力がある。

「おお、すっきりされましたな皇女さま」

 薄汚れた旅装姿から、顔を洗い髪を梳かして、民家から調達した女衣を身につけたルツは、花売り娘のようではあったが、さすがに女の子になっていた。

「尊厳侯。総督府からの使いです」

「明晩の宴のことだろう。皇女さまもご一緒すると総督に伝えよ。ルッツリア皇女さまだぞ、間違えるな」

 尊厳侯が背中を向けているその間に、勝手な行動を取ったルツをアイネイアスは怖ろしい顔を作って睨みつけた。ルツは肩をすくめた。



 総督府に隣接した迎賓館に招かれて饗宴を受けることになったルツは、明晩の為に再び小部屋に連れて行かれた。

 アイネイアスの観ている前で慌ただしく街の仕立て屋が兵舎に出入りし、職人が大急ぎでルツの為の衣裳を整えた。

 やがて、街中に鐘が鳴り始めた。皇女の到来を告げて回っているのは尊厳侯だけではなかった。

 総督府ではラズロが、「この街に皇女さまがお見えになっておられます」と大号令をかけていた。

「永らくその存在を隠されておられましたが、正真正銘の皇女さまです」

「信じられん」

「確かなのかラズロ殿」

「まことです」

 饗宴の準備にラズロは奔走した。出来るだけ派手にするのだ。大勢の客人と楽芸人を呼んで、食糧庫を空にして料理を惜しみなく振舞い、居並ぶ者どもに前後不覚になるまで酒を浴びせて沈めなければ。この街を享楽の都へと変えてしまうのだ。

 さらにラズロは城郭都市の街中にお触れを放った。人々は家から外に飛び出した。

「ルッツリアさまだと。誰だそれは」

「詐称だろう。皇族を名乗る詐欺だよ。そんな皇女は知らない」

 最初はまったく信じなかった人々も、総督府の正式なお触れが街の各所で始まると、信じないわけにはいかなくなった。

「どうやら本物だそうだ」

「母親が正式な妃ではない為に、今まで皇都にこっそり匿われておられたそうだ」

 人々は想い当たった。

 それで、尊厳侯が来ているのだ。昨日から禁衛軍が検問をしていた理由はこれだ。

 城郭都市は街全体が熱狂的な皇帝派である。辻褄合わせが終わると、城郭都市の人々は一様におののいた。


 では本当に皇女さまが……。


 鳴り渡る鐘の下、熱波のような昂奮が次第に人々を包み始めた。それは葡萄酒を白布の上に零すようにして、瞬く間に城郭都市全体に広がった。

 亡き皇帝のご息女がお越しになったというぞ。

 隠し子をひとめ観たいと希う人々が次第に兵舎の周りに押し寄せた。皇女到来の報は、城郭都市全体を覆ううねりとなって、今にも爆発しそうなまでに高まっていった。

 殺到する群衆を捌き切れなくなった尊厳侯は、兵舎の二階の窓にルッツリアを立たせて何度か手を振らせた。

「あの方だ」

「皇女さまだ」

 感動した人々は、屋根に上ってルッツリアを待ち構え、ルツの姿を拝むようにして眺めた。彼らからすれば、この強大な帝国は彼らの祖先がお助けした王が築いたのだという自負がある。皇女は彼らの女王だった。

「皇女さま。皇女ルッツリアさま」

 そうだ、その調子だ。

 宴の準備に追われながら、ラズロは高台から、皇女の登場に歓呼して嵐のように揺れ動く下界の街を見下ろした。

 世界の終わりの日のように騒げ。何が起きても誰にも気づかれぬように。

「花火を用意しろ。明日の夜は一晩中、打ち上げるのだ」

 街中にも祝酒を振舞おう。それから迎賓館の庭のうち、最も外側の庭園も市民に解放してしまえ。



 翌日、残照に染まる兵舎にアイネイアスは居残っていた。

「何故だアイネイアス。禁衛軍も宴に招待されているぞ。共に来い」

 尊厳侯は訝ったが、アイネイアスは、湖水地方から強行軍で此処まで来たこと、兵士に休息が必要なことを伝えて、兵舎に禁衛軍を残してくれるようにと頼んだ。

 見栄えのする将校を伴いたかった尊厳侯は機嫌を少し損ねたが、アイネイアスが強情な顔をしているので諦めて、「では後で兵舎にも酒を届けさせよう」と云い残し、ルツを連れて兵舎を出て行った。尊厳侯の兵も一握り残っていたが、彼らはすぐにアイネイアスの部下によって「こちらで話さないか」と談話室に連れて行かれた。

 兵舎は静かになった。

 鍵を手にしてアイネイアスは営倉へ向かった。重たい扉を開く。

「テセウス。出ろ」

 突然現れた禁衛軍隊長の姿に、テセウスは戸惑った。テセウスからすればアイネイアスは市門でルツを馬車から降ろした男というだけにすぎない。

 テセウスは牢から出ることを拒んだ。

「俺の連れも兵舎の中にいるはずだ」

「ルツのことなら、尊厳侯と共に迎賓館の夜会に行った」

「どういうことだ」

「聴こえるか。あの歓呼はルツの為のものだ。ルツが帝国皇女だからだ」

 こいつまで頭がおかしくなったのか。そんな眼をしているテセウスを急がせて、アイネイアスはテセウスを兵舎の裏手の厩舎に連れて行った。

 用意された馬の傍には副官ギーレと、見知らぬ若者がいた。

「ダリです」若者は名乗った。

 アイネイアスは、テセウスに金袋を渡した。

「路銀だ。途中まではギーレとダリがお前を送っていく」 

 テセウスはかぶりを振った。

「俺はルツを異国に連れて行く契約をしている」

「その契約はこちらで引き継いだ。ルッツリア皇女もそのようにせよと仰せだった」

 ふざけるな。テセウスは云いかけて止めた。アイネイアスが真剣な顔をしていたからだ。その間にも歓声が聴こえていた。皇女さま万歳、我らのルッツリア皇女さま、万歳。

 厩舎に吊るされた角燈から蛾が飛び立った。

「テセウス、選べ」

 この男が父を死に追いやった将軍の息子であることも、テセウスは今は忘れ果てていた。アイネイアスはテセウスに決断を求めた。

「一つはこのまま皇都に戻り、何事もなく暮らす」

「もう一つは」

 アイネイアスの眼がぎらりと光った。

「帝国の獅子身中の虫、尊厳侯に一泡ふかせてやるのだ。ユーディットとルッツリア。二人の皇女をこの街の者たちと協力して第三皇子のいる異国に逃す」

「この街の者たちに協力しよう」

 テセウスは即答した。



 その晩の宴の華はルッツリアだった。尊厳侯がどれほど大仰な動きと派手な笑い声を上げたとしても、人々の眼はルッツリアから離れなかった。

 高台の迎賓館に到着するなり総督がその太った身体を折り曲げるようにしてルッツリアに手を差し出し、涙声で「皇女さま」と感極まったのをはじめ、居並んだ者たちは愛惜して止まぬ皇帝の娘、それも今まで密かに皇都の片隅で匿われていた隠し子の登場に強い衝撃を受け、その存在を奇跡のように愛でた。

「まあよい」

 常ならば尊厳侯は何としても耳目を自分に集めるために、わざとルツに恥をかかせてみたり、割り込んだりするのだが、それは後のお楽しみに取っておくことにした。後というのは、ルツを妻にしてからだ。

 まずは皇女ルッツリアと結婚するのが当然の流れであるように、ルツを説得しながら、外堀を埋めていくことだ。

 その間もラズロは大忙しだった。酒蔵と調理場に顔を出し、あちこちへ飛び回り、明日の朝、出来れば昼まで、このお祝い騒ぎが続いて一人でも多く酔い潰れてくれるように段取りをつけていた。

「総督」

「ラズロ、ラズロ。見たか皇女さまを。小気味良いほどではないか。どうもルッツリアさまには第三皇子の面影があるような気がするぞ」

「同感です。ところで総督。今宵、ルッツリア皇女を異国に逃がします」

「何と云った」

「皇女を三皇子の許にお送りします」

「ラズロ」

「このままでは尊厳侯は皇女を都に連れ帰り、侯が皇女の婿におさまってしまいます。そうなれば尊厳侯が皇帝です。彼の王朝が始まるということです。そうなってもよいのですか」

「駄目だ。絶対に」

「でしょう」

「だから」

「そうです」

 広間では楽人が演奏している。ラズロは用事があるようなふりをしながら総督に囁いた。

「皇女さまはその為に城郭都市を頼って来られたのです」

「おいたわしいことだ」

「亡命に猶予はなりません総督。今晩です」

「よ、よし」

 総督の判断は早かった。総督はラズロに眼で応えた。任せておけ。

 彼は愚かではなかったので、何をすればいいかよく分かっていた。

「尊厳侯。こちらでしたか」

 大きな声を出すと、総督は尊厳侯に突進して行った。

「あまりの混雑でお姿を探しました。こちらの葡萄酒を試されましたか。おお、気に入って下さったご様子。実は密輸した酒でして。おっと口が滑った。地下の蔵にはまだまだ珍しい酒がございます。ご案内いたしましょう」

「今だ、サムソン」

 アイネイアスと共に練った計画では、月が中天に昇る頃が合図だった。今のうちにルツを迎賓館から連れ出さなければならない。ラズロ、そして宴の中に召使として紛れ込んでいたサムソンは、ルツを探した。

 しかし、ルツの姿は広間の何処にも見当たらなかった。

 


》中篇

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