第三章 交錯
Ⅲ 前篇
市壁の近くからはまるで見えないが、少し街の坂を上ると、海が視界に広がる。
高台の屋敷に向かったテセウスは虚しく来た道を引き返そうとしていた。ラズロからもらった地図を辿り、屋敷の前にまで来たものの、屋敷の警備は拍子抜けするほど緩かった。窓という窓は開き、朝の庭の手入れまでいつも通りに行われている。使用人が街路を棕櫚の葉で撫でるように掃くその間も屋敷の門は開けっぱなしで、どう見ても要人はいなかった。
念のため、裏道を掃いている者にこっそり訊いた。
「禁衛軍隊長と客人はこちらにお泊りか」
「アイネイアス隊長ならば、ご不在だ」
皇女もルツも此処にはいない。
幌馬車から外した馬に乗ってテセウスはそこまで来ていた。その馬を降りたテセウスは屋敷に背を向け、馬の轡をとって石畳を歩き出した。この地方の特色である白味の強い石が街路に整然と敷き詰められている。昨日ラズロが、「こちらのフィベは、無理やりの結婚から逃げてきた方なのだ」といってユーリを小屋に連れて来た時に、面倒事を断っておくべきだった。ユーリが皇女ユーディットであるならば、なおさらだった。
テセウスを今、苦しめているのは、テセウスにこの仕事を頼んだ貴人がテセウスの父を知っているということだった。
亡父の名に泥を塗りたくない。
命を賭して父は皇女を外国に逃すという大役を果たした。父の名に恥じぬように俺もルツに対してそうしたい。皇女のことも心配ではあるが、何といっても皇女なのだから、そちらは禁衛軍とラズロが血眼になって探すだろう。ルツの方が心配だ。
テセウスは脚を停めた。何かが引っかかった。
アイネイアス。
使用人は確かにそう云った。アイネイアスと。
あの若さで禁衛軍隊長ならば、かなりの家柄の者のはずだ。
テセウスは引き返して、今度は、屋敷の衛兵に直接訊ねた。
「禁衛軍隊長アイネイアスさまはこちらにおいでか」
「いや」
うろんげに衛兵はテセウスの全身を眺めた。
「何の用だ」
「禁衛軍が街に来ていると知った。わたしの父は従軍中、当時第三軍の将軍であられたアイネイアスさまのお父上の旗下にいたのだ」
「それで」
「この街におられるのであれば、ご子息に挨拶をと想ったのだ」
「お前の所属は」
「いや、わたしは軍属ではない。名乗ったところで意味がない。不在であればもういい」
テセウスは怪しまれない程度に急いでその場を離れた。
屋敷の角を曲がったテセウスは、息を吐き、馬の轡を強く握りしめた。間違いない。禁衛軍のアイネイアスは、父の上官の息子だ。尊厳侯の兵士がある日突然、家に押し入り、連れて行ってしまった父。
「父上」
「家に帰っていなさい、テセウス」
追いかけるテセウスに父は云った。母さんのことを頼むぞ。
心配して家を訪れた父の部下たちはこんな話をした。
「内密の任務がきっと捕縛の理由でしょう。露見すれば反逆罪となりかねない危険な仕事でした。将は信頼していた彼をひそかに呼んで、秘密裡のうちにそれを頼んだのです」
「反逆罪ですって。誰に対する反逆です」
母は顔を上げて叫んだ。
「あの人を連れて行ったのは尊厳侯の兵士でした。皇帝気取りの成り上がりに対する反逆罪だというのですか」
「しっ。滅多なことを。第三軍の将も帰国早々に不自然な死に方で亡くなられています。将軍は尊厳侯との折り合いが悪く、対立しておられました」
「第三軍の将も皇帝も、尊厳侯が殺したのよ」
母は叫んだ。
「軍団長が皇都防衛を掲げていち早く立ち上がったのも、皇帝を殺し、軍を掌握し、皇帝に成り代わる段取りがついていたからです。誰もが知っていることだわ」
「およしなさい。ご子息のことを考えなさい。テセウスがどうなってもいいのですか。牢に入れられたとはいえ放免されるかもしれません。いつか真実が明らかになる日までは、静かにお暮らしなさい」
父は帰っては来なかった。収監された監獄で殺された。
テセウスと母は住んでいた家を離れ、都落ちしていった。憔悴した母を連れて馬車に乗っていた少年の日を、地平にまで長く伸びた街道のよそよそしさと共にテセウスは今もはっきりと想い出せる。
やがて大人になったテセウスは、父が第三軍の将から何を命じられたのかを知った。
皇帝の暗殺後、情勢がまるで不明で皇帝の家族も命が危なかった。皇族たちは皇都を脱出して落ち延びていったが、そのうちの一人である末の皇女をひそかに外国に連れて行ったのがテセウスの父だった。
末の皇女は逃亡中、尊厳侯を皇帝代理と認めぬ勢力に保護されており、軍属の父は皇女を取り戻す討伐隊の一員だった。
「あの当時は、皇族がより多くいる方に大義があった」
父の上官は奪い返した皇女を皇都に連れ戻すことなくその地から亡命させた。そのことが尊厳侯の逆鱗に触れたのだ。
テセウスは短い溜息をついた。
街を取り囲む市壁に向かって坂を下っていく。下るにつれて海がせり上がり、海が都市を呑み込むように錯覚する。テセウスは自嘲した。
運命の悪戯が過ぎる。
あの時、父が外国に落ち延びさせた末の皇女とは、フィベに変装していたあのユーディットだ。そのユーディットを追いかけている禁衛軍の隊長は、間接的に父を死に追いやった第三軍の将の息子アイネイアスだ。そしてテセウス自身は、かつての父が皇女を連れて街道を下ったのと同じように、亡命を希望するルツを連れて、こんな帝国領の外れにいる。
テセウスは無神論者だったが、何かそこに運命的なものを感じずにはいられなかった。ところが運命は、さらに最後の花火を用意していた。
テセウスは顔を上げた。
城郭都市の街の方々から、海風を破る鐘の音が一斉に鳴り響き始めたのだ。戦の始まりのように盛んに鳴っていた。その鐘は敵軍の奇襲を告げるものではなかった。
皇都から私兵を引き連れて街道を下り、尊厳侯が城郭都市に現れた、その知らせだった。
城郭都市の図書館は早朝の時刻には当然ながらまだ閉まっていたが上級官吏ラズロは門番を起こして無理やりに開けさせて、所蔵庫をひっくり返していた。
「あったぞ。この辺りの年代だ」
砦から都市へと変貌していく途上の施工地図。諸国を驚かせた帝国の圧倒的な土木工学技術によってみるみる城塞都市化していった街。
巻物になっているそれを次々と床に広げて、ラズロは暗い半地下倉庫で灯りを持ち、眼を近づけた。
「王宮と云っているがそれは比喩だ。もっと小さなものだろう。隠し部屋……秘密の通路……財宝を埋めるような場所。墓地の下か? 伝説が本当ならば、いざとなれば隠れ潜んで過ごせるような場所でなくてはならない。作るとしたら何処に作る。俺なら……」
ラズロは古地図の隅々にまで眼を走らせた。
「それが存在するならば、この街には、おそらく代々その役を負っている者がいるのではないか? つまり鍵番のような。皇帝が来た時に備えて、誰にも見つからないように保存をしてきた鍵番の一族がいるのではないか」
巻物状の地図を床に転がして、ラズロは次々と地図をめくった。
「いるとしたらそれは誰だ。この城郭都市は伝統的な気風として、皇家に忠誠が厚い。先祖が王に付き随って異国からやって来た者たちだからだ。それゆえに十年前の内乱の折には皇帝代行を名乗る尊厳侯に正面きって反旗をひるがえしたほどだ。秘密を受け継いだ可能性があるのは、古くからこの街に定住している家系だ。旧市街。皇帝に忠義を誓う者たち……。畜生、あの時の反乱の折に、主だった者は全員処刑されてしまったか」
「ラズロさん」
所蔵庫の扉が叩かれ、職員が顔を出した。
「こんな暗い地下倉庫で、早朝からどうしたのですか、ラズロさん」
職員は落ち着いた仕草で階段を降りてくると、ラズロに飲み物を差し出した。
「調べものなら代わりますよ。あなたは早く総督府に行った方がいいですよ」
ようやくラズロは顔を上げた。
「あの鐘の音は何だ」
開けた扉から、鐘の音が聴こえている。それは次第に数が増え、図書館を揺るがすほどになった。街中の鐘が打ち鳴らされている。
「戦争でも始まったのか」
「尊厳侯です」
床に落ちていた巻物を取り上げて、職員はそれを棚に戻した。
「皇都から、尊厳侯が来たそうです」
「はぁ?」
想わずラズロは想いっきり声に出してしまった。そんな話は何も聴いていない。もし尊厳侯が城郭都市に来るのであれば、何か月も前から視察団が先に来て、細かな点まで饗応の打ち合わせがあるはずだ。
しかし鐘の音は鳴りやまない。
床から立ち上がったラズロは図書館の庭に走り出た。すっかり太陽が昇っている。いきなり明るい処に出たので眼が眩んだ。彫像の建ち並ぶ庭の端まで出た。そこからなら海と市門が見える。
「あれです。ほら」
職員が指さすところに、確かに、護衛を引き連れた一団が見える。今頃は総督府も大騒ぎだろう。ラズロも行った方がいいことだけは確かだ。
「君」
ラズロは古い巻物を腕に抱えると、不要な残りの束を図書館職員に押し付けた。
「片付けておいてくれ」
》中篇
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