清水さんが奥さんの待っている家に帰ってしまった後、僕は一人氷も完全に溶けたアイスココアのグラスを片手に握ってぼうっとしていた。やっぱり清水さんの匂いは女のひとみたいで、その清水さんが奥さんのいる家に帰って行ったというのはなんだか嘘みたいだった。匂いは女のひとみたいだけれど、だからといって清水さんが取り立てて女性的なわけでもないし、僕の頭の中はぼんやり膜がかかったみたいに混乱していた。

 ココアのグラスを下げに来てくれたタツキさんが、そっと僕の前に二杯めのココアを置く。

 「今日、後30分で上がりなんです。……先に出て、駅のあたりで待っていてくれませんか?」

 僕はどうしようかと一瞬躊躇した。絶対に清水さんの話になるのだと思ったし、その時に清水さんは女の人みたいな匂いがする、と説明するのはなんだか嫌だった。僕よりずっと女の人も男の人も知っているタツキさんに、そんな間抜けなことを言いたくはない。

 それでも僕は頷いたし、タツキさんも僕が頷くことは知っていたみたいな顔で微笑んだ。

 「駅の改札にいます。」

 「ありがとうございます。」

 予想に反して、それ僕とタツキさんが交わしたまともな会話の最後だった。

 30分後、仕事終わりに改札までやってきたタツキさんは僕の腕を掴んでラブホテルに引っ張り込んだ。僕は驚きすぎてどうすることもできないまま、エレベーターの中でキスをされた。そうしたらもうなんでもよくなってしまった。気持ちがよかったからとかそういう話ではない。いや、気持ちよくはあったんだけど、それ以上になんというか、タツキさんが切実に追い詰められているのが分かってしまって。

 「女の子に逃げられたんだよね、昨日。だから今日、セックスしてなくて。」

 それが辛うじてタツキさんが口にした、俺を抱いた理由らしきものだった。僕を問答無用でベッドに押し倒しながら、独り言みたいに。

 「いいよ、美晴に言って。清水さんにも。」

 そんなことを言われたって、ろくに抵抗もしないで服を脱がされている僕だって同罪だ。それに、

 「はるちゃん、言ったってあなたのこと嫌いにならないよ。」

 僕の首筋にゆるく歯を立てるタツキさんの頭をそうっと抱いてみると、彼が細かく震えていることが分かった。

 この人は多分、人を好きになるのも人に好かれるのも全然慣れていないんだろう。こうやって僕のことをさくっとホテルに連れ込むことはできても、はるちゃんからの好意や清水さんへの好意をどう対処していいのか全く分からなくって、なにもかもが怖いのだろう。

 「大丈夫。」

 なにが大丈夫なのかなんて僕にもちっとも分かってなかったけど、とにかくタツキさんの震えを止めたい一心だった。

 「僕はタツキさんのこと好きじゃないよ。」

 うん、と、タツキさんはくぐもった声で呻いた。男の人とこういうことをするのは始めてだったけれど、痛くはなかったし怖くもなかった。タツキさんが痛いことや恐いことをする人ではないと知っていた。

 生まれてはじめて入ったラブホテルの小さな窓を、薄い紫色の夕立がしとしとと叩いていた。

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