紫の雨 石川高宏

僕は時々、はるちゃんに黙ってこっそりタツキさんのお店に行く。僕がそのときだけは、はるちゃんに会いたくないことをタツキさんはきちんと察してくれているようで、いつも入口から死角になっている隅のテーブル席に通してくれるし、はるちゃんと鉢合わせをしそうになると、こっそり裏口から逃がしてくれもする。

僕ははるちゃんがタツキさんとそういう関係だったことを知っている。誰に聞いたわけでもないけれど、分かるものは分かる。タツキさんとそういう関係だったことも、もっと言えばびっくりするくらいたくさんの男の人とそういう関係だったことも。多分、僕と付き合い始める前の話。後の話だったらはるちゃんは僕に洗いざらい打ち明けてくれるはずだ。僕が好きなはるちゃんは、どこまでも率直な人だから。

 そういうことを全部僕は気にしていないつもりだ。だって今のはるちゃんは僕の彼女のはるちゃんで、僕以外の人とそういうことをしていないはずだから。

 それなのになぜだかはるちゃんが夜勤の日を見計らって、僕はタツキさんに会いに来てしまう。

 タツキさんはどの晩も忙しそうに立ち働いているし、タツキさん目当てのお客さんがとても多いこともあって、別に特別な話したりするわけじゃない。それにこのお店で人気のブレンドコーヒーだって僕は飲めない。苦いのが駄目だから、いつも長細いグラスに入ったアイスココアばかり飲んでいる。

 それでもどうしても、僕はこのお店に来てしまう。

 「美晴さんは、夜勤ですか?」

 僕のテーブルにアイスココアのグラスを置きながら、タツキさんが低い声で話しかけてくれる。

 「はい。」

 僕はそれだけ答えるので精いっぱいだ。タツキさんは、グラスを置く仕草さえ今日も際立ってかっこいい。こんな人とはるちゃんがなんというか色々なことをしていたのだと思うと、どうして今はるちゃんが僕と付き合っているのかが分からなくなってくる。

 「高宏さんは、夜勤はないんですか?」

 「あ、えっと、僕はデイサービスの専門なので、」

 ぶつぶつと途切れがちになるダサい僕の言葉を、タツキさんはこの世で一番重要な告示かなにかみたいに頷きながら聞いてくれる。 あっちの席からもこっちの席からも、男の人からも女の人からも、いくつもの視線が矢になって僕の席の周りに降り注ぐ。

 その鋭さと大量さに僕が怖気づいているのを感じたのか、タツキさんはきれいな白い顔をちょっと残念そうに微笑ませた。

 「すみません。ほんとはもっと高宏さんとお話したいんですけど。」

 ココアのグラスの下に敷かれたコースターの位置を直すふりをして少し身をかがめたタツキさんが、僕の耳元でそんなことを言う。

 はるちゃんにもこういうこと言ってたのかな、なんて思う。別に嫉妬ではなくて、素直に。嫉妬なんかするには、この人と僕ではレベルが違いすぎる。

 テーブルとテーブルの隙間をしなやかにすり抜けて行く広い背中を眺めていると、ほんの少しだけはるちゃんが羨ましくなった。


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