ここまで溺れて縋ったタツキさんを私が見限ったのは、ホテルを出た瞬間のことだった。

 もう何度彼と利用したか分からない、駅からすぐのラブホテル。その出口を出た一秒後。

 「清水さん、」

 とタツキさんが言った。

 言った、ではその時の彼の声のトーンや言葉の調子を、うまく表現できてはいないと思う。多分タツキさんは、自分が声を漏らしたことに気が付いてさえいなかった。重力に引っ張られるみたいに、言葉だけがすとんと喉から転がり落ちてきた感じ。

 私はその無防備さに驚いて、半歩前を歩いていたタツキさんの腕を引いた。そしてタツキさんはおそらく、私に腕を引かれたことにも気が付いていなかった。

 タツキさんの視線の先にはホテルの前の交差点があり、車影も人影も見えないその交差点の向こう側から、律儀に青信号を待ってからこちら側に渡ってくるスーツ姿の男の人がいた。

 私はまさかタツキさんがその人を見つけてこんなに無防備に感情を揺らしているとは思えず、きょろきょろと辺りを見回した。なにしろ彼はいつだってきっちり均した地面みたいに平らかな言動を崩さない、泣き喚きたくなるほど気障で平然とした人なのだ。

 しかし早朝のホテル前には、スーツ姿の男性以外に人気はなかった。

 ごく普通の男の人だった。中肉中背、地味なスーツと髪型、顔だちは整っている方なのかもしれないが、それもよく見れば整ってるかもね、といったレベルだった。なんというか、とにかく地味なのだ。顔だちの半端な整い方が、そのひとの印象をなおさら薄くしているようにも見えた。

 「清水さん。」

 と、もう一度タツキさんがその男の人を呼んだ。すると道を渡りきった男の人はちょっとだけ微笑んで、タツキさんにちらりと会釈をした。女とホテルの前にいるタツキさんに遠慮をしたとしか思えない、控えめな態度だった。

 タツキさんはその途端、完全に私の存在を忘れた。

 清水さんとの数歩の距離を駆け足で詰め、なにやら忙しなく話しかけ始める。

 話しかけられた清水さんは、明らかに私を気にして居心地が悪そうにしていたが、タツキさんはその様子をまるで察していない。

 それを見たと同時に、私の中でタツキさんに対する恋情だか愛情だか執着だかが、すうっと一瞬で引いて行った。元々なかったみたいにきれいに、波が引くみたいに滑らかかつ速やかに。

 なんだ、このひと普通のひとじゃん。

 そんなことを思った。あっさりこちら側に来てしまったタツキさんに秒で幻滅した。こんな普通の男にしがみついて縋っていたのかと思うと、ついさっきまでの自分がとんでもない間抜けに思えた。

 私はきっと、理解ができないうつくしい男に抱かれている自分に酔っていただけだったのだと思う。


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