約束通りに清水さんを見た私と高宏は、30分もしないで喫茶店を出た。店がそこそこ混んでいたので、タツキとは話もできなかった。明らかにタツキ目当てだろうという若い女の集団が3つと、これもまた明らかにタツキ目当てだろうという若い男数人が席を埋めていたのだ。

 「雨。」

 喫茶店のドアをくぐってすぐに立ち止まった高宏が空を見上げる。

 細い雨だった。夏の夕焼けに染まった、細いオレンジ色の雨。

 「平気だよ。行こう。」

 ここから駅までは走れば5分。肌に乗った瞬間にもう乾き始めるような細い雨だ、濡れる心配は別にない。勢いをつけて喫茶店の庇から駆け出そうとした私の頭上に、背後からふわりと黒い傘がさしかけられた。

 タツキかな、と思って振り向くと、そこには冴えない地方公務員がやはり俯きがちに立っていた。

 「……あの、」

 頭の上の傘と斜め後ろの清水さんを見比べながら、私が曖昧に言葉を濁すと、清水さんは俯いたまま困ったように少し笑った。

 「二本あるんです。……それに、服が。」

 その日私は、真新しい白いワンピースを着ていた。見るからに家では洗えない繊細なレース。

 「……ありがとうございます。」

 私は手を伸ばして傘を受け取った。受け取らない方がこの人をさらに困らせてしまうのではないか、と思わせるような密やかさが、清水さんの全身から醸し出されていた。

 「このお店でよく見かけるんですけど……傘、明日にでもお店に預ければいいですか?」

 「いつでもいいんです。普段使わない傘ですから。」

 清水さんはそれだけ言うと、私と高宏に一度ずつ深々と頭を下げ、そそくさと店内に戻って行った。

 私と高宏は、オレンジの雨の中、一本の黒い折り畳み傘の下で肩を寄せ合って帰った。

 翌日、店のオープン前にタツキに傘を預けに行った私は、清水さんが傘を一本しか持っていなかったことを知った。

 あの晩の雨は私たちが家に帰りついた頃には激しさを増し、暴風雨と言ってもいいくらいまで降りしきったのだけれど、清水さんはその雨の中を傘も差さずに帰ろうとしたらしい。

 「お店の傘、押付けるみたいに貸したんだよ。」

 カウンターの中でコーヒー豆を挽きながら、タツキはそう言ってなんだか得意げに笑った。私もそれだけは認めないわけにはいかなかった。つまり、タツキは案外見る目があると。

 「奥さんは、そういうとこに惚れたのかね。」

 私の負け惜しみに、タツキは虚を突かれたように一瞬動きを止めた。短くて長い数秒間の沈黙。

 「……そうだね、きっと。」

 タツキは泣きそうな声で言って、なぜだか知らないが右手を伸ばして私の髪を撫でた。





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