第12話 名草の神名
元日の賀正礼を始めとする新年の一連の祭祀を終えると、鎌子は紀伊国へと出立した。
紀伊国へは飛鳥からなら山越えの道だが、難波からは船で行くことができる。鎌子が葛城王から借りた兵士十名と中臣の従者数名からなる一行は、夜明け前に二隻の中型の船に乗り込んだ。
空が白み始め、風が安定する頃合いを見て船は動き出したのだが、
「あれはなんだ」
難波湊を南下する鎌子たちの船に向かって、陸から灯りが振られているのが見えた。船頭が
鎌子の紀伊行きを知らせたわけではないのに、新羅の金多遂が早朝わざわざ見送りをしてくれているようだ。鎌子は巾を先に付けた棒を従者に振らせて金多遂に応えた。
礼には礼を返したものの、三韓の館から王都の湊の出入りをさりげなく監視しているのが明らかだった。
――やはり王宮は難波ではない方が良い。
鎌子はあらためて難波宮の立地と、倭国の内情が他国にいともたやすく漏れることへの危惧を覚えた。
船は淡路島を右手に見ながら穏やかな冬の海を滑るように進み、半日ほどで紀伊湊の入り口である加太に着いた。この地には古い王宮の跡があったのだが、今は先日発せられた伝馬の制によって
鎌子は紀伊国の滞在中、ここを使う許可を葛城王から得ていた。
「兵士はここに留まるように。
鎌子は用意されていた馬に乗り、自分の従者だけを伴って紀直氏の館へ向かった。
国造とは地方のクニを治める官職で、倭の王族はその土地の有力豪族を国造に任命して土地の支配を任せる一方、王権と国造との関係を強く結びつけることで地方での権威を維持していた。国造となった豪族が上番の制によって一族の者を朝廷に差し出すのがその一例である。
ただこの頃は国造の支配が強くなりすぎたり、中央の有力豪族と結びついたりして、朝廷の権力が地方に行き届かなくなることが増えていた。
この国造を排して朝廷の直属の官吏である国司を設置するのが葛城王と鎌子が取り組んでいる改新の大きな事業の一つだった。だがその土地に昔から確立している地位と権威を各地の国造は容易には手放そうとはしなかった。
ここ紀伊国の国造である紀直氏も国司の着任を拒否している。そのため紀伊国は王族が直接支配する畿内に隣接した国でありながら未だ国司不在の状態が続いていた。
鎌子が向かった紀直氏の邸は加太から紀ノ川を渡った先の名草という場所にあった。柵が周囲に巡らされ大きな建屋が並ぶ立派な邸である。鎌子が着くと紀直氏の長である紀直
忍穂は初見の挨拶から険しい表情を変えないまま、鎌子と二人で向き合うと最初から強い口調で告げた。
「中臣鎌子殿、以前より申し上げているように紀伊国は国司を拒否する」
忍穂の対応を予想していた鎌子はその態度を諫めること無く、かえって忍穂に対して軽く頭を下げた。
「この度はその辺りを含めてお話しに来ました。が、忍穂殿、ご懸念の国司の件の前に儀礼祭祀に関する話をさせていただいてもよいでしょうか。紀直氏が奉祀する神のことです」
紀直氏は代々、紀伊国の神祇を担う神官でもあった。倭の神祇官である中臣を出自とする鎌子とは立場が通じ合う。それを思い出したのか忍穂の口調は少々落ち着いた。
「我ら紀の一族がお祀り申し上げているのは農に恵みをもたらす神であり、航海の無事を見守る海神でもある」
「その神に御名はありますか」
「神に名などない。我らの神は東から西へと紀の海を渡る日輪に宿っている。男神女神が互いに寄り添い、あるいは一つとなって民を守り導いておられるのだ。民の間ではこの地の名である
忍穂は神について語ると、二、三度その場で叩頭し神に対する敬意を表した。鎌子は忍穂が頭を上げるのを待ってから話を続けた。
「我らは
鎌子はそこで言葉を切り、忍穂を見た。忍穂は眉を寄せて軽く鎌子を睨んだ。
「紀が日輪の神を奉祀するのを止めろとでもいうのか」
「国司との、引き換えです」
忍穂は鎌子が何を言っているのか理解できずに無言となった。その忍穂を前にして、鎌子は淡々と説明を続けた。
「王族が奉祀するのは天照大神だけではありません。
「神を創る、とはいったい……」
「紀伊の神は東から西へと海を渡る日輪だとお聞きしました。天道を行く神、
「勝手に押し付けられる神など要らぬ」
忍穂は吐き捨てるような強い口調で鎌子の言葉を否定した。
「名草彦命の別名とお考え下さい」
忍穂の怒りに臆せず冷静に、しかし強硬に話を進める鎌子の様子を忍穂は注意深く窺った。それは神官としてよりも政を司る支配者としての忍穂の器がけして小さくはないことを表していた。
「……それがなぜ国司の話と繋がるのか」
鎌子は表情を緩ませて微笑さえ口の端に浮かべながら、
「紀直氏がその神を奉祀し続けるのなら、国司の派遣が無くても王族との繋がりは神代に遡る強いものとなります。これまで通り国造を名乗られたままこの土地を治めていただいても結構」
「名草彦命の名を天道根命にすればそれが許されるのか……」
「もともと奉祀する神に名は無い、とのお話でした。それでも民が名草彦命と名付けているのなら、やはり神には名前が必要なのではございませんか」
忍穂の顔には逡巡が明らかだった。
「……我らが得る利益は」
「王族との全面的な戦を起こすか、神の名を変えるか、どちらに紀直氏の利益があるでしょうか」
忍穂には加太にいる葛城王の兵の情報が入ってきているはずだった。
「……他の国造にも同じような取引を持ち掛けているのか」
「今のところは東国に限られますが、伊勢国の二つの郡と上総国阿波郡、下総国香取郡、常陸国鹿島郡が神の名と国司の引き換えに応じました」
「……なるほど」
「しばらくこちらに滞在させていただきます。どうぞ充分にお身内で議論してください」
思索を巡らせる忍穂に鎌子は再拝した後、そう言い残して忍穂の邸を出た。
鎌子が紀伊国で紀直忍穂との交渉を行っている間、難波では孝徳天皇に
「白雉はとても縁起の良い生き物です」
最初に孝徳天皇に意見を求められたのは倭国に亡命してた百済の王子、
豊璋に次いで孝徳天皇が意見を求めた僧侶たちも皆、白雉の吉祥を褒め称えたが、最も影響があったのはこのところ孝徳天皇の信任が篤い僧旻の言葉だった。
「これは吉祥です。大王の政が誤っておらず、大王の人格が優れているときに白雉は現れると大陸の故事に有ります。民に大赦を施してこの慶事を祝いましょう」
これまでであれば朝廷の神祇官である中臣にも意見が求められたはずだが、孝徳天皇はそれをしなかった。
孝徳天皇は白雉を公開することを決め、二月十五日、子代離宮に大臣や主要な豪族の長、官人を集めた。
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