第13話 白雉の祀

 大化二年二月十五日、早春の空は青く澄み渡っていた。難波の海は空の青さを映してますます青く、淡路島の向こうに見える水平線まで広がっていた。


 王族が使う輿に乗せられた白雉の籠は、三韓の館に近い難波大郡宮から子代離宮に運ばれてきた。舎人や衛士がまるで正月の賀正礼のような有様で整列している中を白雉の乗った輿はゆるゆると進み、後ろに左右大臣と官人を従えて、いつもは葛城王が執務している主殿の前まで進んで行く。

 主殿の回廊へと上がる階段の前で白雉の輿は一度止まって担ぎ手が入れ替わり、輿の前を左右大臣が、後ろを他の重臣が担いで改めて階段を昇り始めた。


 やがて王座に座る孝徳天皇の前まで運ばれた白雉の輿は石床の上に静かに下ろされた。


 孝徳天皇の前で大臣が揃って頭を下げるその後ろには、倭国に亡命している百済の王族や高句麗人の侍医、そして新羅人の侍学士らが同じように拱手で礼を表していた。侍医や侍学士は孝徳天皇に仕えて王宮に出入りしている者達である。

 飛鳥の宮を出てから、孝徳天皇は自分の身の回りに渡来人を多く引入れていた。


 孝徳天皇の王座から一歩引いた右側に葛城王は立っていた。この位置は皇太子という葛城王の立場を示す位置でもある。

 孝徳天皇自身は飾りのついた大きな冠に大陸の皇帝が身に付けるような帯や大袖の衣を纏っていたが、葛城王は空を写したような鮮やかな瑠璃色の衣に儀礼用の冠、飾りは白璧で作られた玉珮だけだった。


 この白雉のまつりとも云うべき催しは、孝徳天皇が葛城王より自分の方が優位であることを周囲に知らしめるための儀式だった。明言はされていなくてもその雰囲気を感じ取っていた葛城王は、儀式が始まる前からうんざりしていた。


 ――それだけじゃない。


 まるで正月に行われた賀正礼を模したような儀式だが、決定的に欠けているものがあった。それは賀正礼を取り仕切っていた中臣の一族がいないことだった。


 古来から王族の儀礼祭祀を担うのは中臣の役目である。内臣となった鎌子に代わって、今は鎌子の従兄弟である中臣国足が神祇官の任に就いていた。だがその国足の姿はどこにも見えなかった。発言力がある鎌子が紀国に出かけている隙を見計らい、白雉を口実にして急遽執り行われた今日の儀式は中臣を排除する意図が明らかだった。


 葛城王は孝徳天皇の思惑を苦々しく思いながら輿の脇に叩頭する重臣たちを見た。白雉の駕籠よりも低く頭を下げてかしこまる彼らの姿はどこか滑稽ですらあった。


 ――こんなことをさせられるくらいなら、鎌子はいなくて良かったのか。


 希少かつ吉祥とはいえ鳥一羽、それを徒に自らの権力を誇示するためだけの見世物にする孝徳天皇に葛城王は反発の気持ちが強まるのを抑えられなかった。


「葛城王、ともに白雉を見ようではないか」

 王座に座る孝徳天皇がそう葛城王に声を掛けてきた。心安い言葉に聞こえても、それは葛城王への命令だった。葛城王は自分の感情を呑み込んで、席を立つ孝徳天皇の後に従った。


 孝徳天皇と葛城王が輿に近づいて籠の中を覗くと、白雉はじっと座り込んでまるで動こうとしなかった。

 左大臣の巨勢徳陀古が、

「大王、白雉を籠から出しましょうか」

 と聞いたが、

「いや、出さなくて良い。白雉は籠の中に留まっておればいいのだ」

 孝徳天皇はそう満足げに言って微笑を浮かべた。


 その孝徳天皇の横顔を見て、葛城王は反射的に白雉の輿から体を引いた。籠に閉じ込められた白雉がまるで自分のように思えて、その場にいることが耐えきれなかった。辛うじて拱手して場を取り繕うと、葛城王は王座の横、先ほどまで自分が立っていた場所へと戻った。


 ――鎌子がここにいたら、吾は引き戻されていただろう。


 一瞬、頭の内をよぎったそんな思いが葛城王の波立った心を幾分か慰めた。視界の端には眉を顰める孝徳天皇の姿があったが、足は止めなかった。


 庭に集う者達は孝徳天皇に背を向けて白雉の輿から離れる葛城王の挙動を見ていた。誰が本当の王か、誰がこの国の政を動かしているのか、彼らは分かっていた。

 そしてその気配を孝徳天皇も十分に感じ取っていた。


 一人、周りの気配に鈍感だったのは中臣に代わって寿詞を奏上した左大臣の巨勢だった。祖霊祖神への崇敬が必ず入る中臣の寿詞とは異なり、巨勢の読み上げた寿詞は孝徳天皇を言祝ぐ詞のみで短いものだった。孝徳天皇は満足そうにそれを聞いた。


 孝徳天皇は白雉の祀が終わると、この日より年号を白雉と改めることを決定した。


 天皇が催す公的な行事には皇太子である葛城王以外の王族も必ず出席することになっていたが、間人皇后と宝皇女はこの祀のあいだ、一度も顔を見せなかった。


 白雉元年二月の末日、鎌子は紀伊国から難波に戻った。

 難波湊に着いたその足で子代離宮に向かうと、出迎えた葛城王が鎌子を庭に連れ出した。


 あの祀の後、孝徳天皇は難波大郡宮にかえり、白雉は子代離宮に残されていた。

 籠から出された白雉は、以前から子代離宮で飼われていた鶏と一緒に世話をされていた。子代離宮の庭では他にも新羅から献上された孔雀や鸚鵡が飼育されている。それらの鳥は夜になるとそれぞれの小屋に入れられるが、昼間はその華やかな羽毛で子代離宮の庭を彩っていた。


 葛城王が庭に下りると飼育を担っている舎人がやってきて地に伏し、餌が盛られた土師器の小皿を差し出した。葛城王は当然の様子でそれを受け取ると、自らの手で餌を地面に撒いた。

 音か匂いか、餌に気づいた白雉が直ぐに葛城王の足元にやってきて、遅れてやってきた鶏を蹴散らす勢いで餌をついばみ始めた。

「この白雉は葛城王にずいぶん馴れてますね」

 葛城王と白雉を見ながら、過去に葛城王が雉子と名乗った日のことを鎌子は思い出した。当時の面影は今も葛城王の横顔に残っている。

「政務の合間に吾がずっと餌をやっていたからな。この頃は吾の手からも気にせずに食う」

 葛城王はそう言って、餌をまたひとつかみ、地面に撒いた。

 よく見ると白雉の足には鷹狩に使う鷹と同じ装具が付けられている。装具には紐が付けられていて白雉が逃げられないようになっていた。ひとしきり餌を食べ終えると白雉はその場で毛繕いを始めた。


「紀国はどうだった」

 白雉が見える手近な庭石に腰かけて、葛城王が鎌子に報告を求めた。紀国で鎌子が交渉した内容は木簡に記して逐次葛城王に報告していたが記録できないこともあった。

「紀直氏は王族に連なる神を祀ることを了承しました。ただやはり国造を国司とするわけにはいきません。いずれ新たな制度に併せて役職は郡司であることも受け入れてもらいます」

「そうなると紀は神郡かんごおりか」


 大化の改新によって、多くの国造くにつくりが治めていた領地はこおりとなり、国造は郡司ぐんじとなった。郡はいくつか集められて一つのクニとなり、王権の官吏である国司がそれらを支配する仕組みである。

 紀国のように国造が土地の祭祀と強く結びついていた場合、その領地は国造の統治が継続され、国司の支配も限定的な神郡かんごおりと呼ばれていた。

 紀国の他に先立って伊勢国が既に二つの神郡に分かれていたほか、上総国、下総国、常陸国のクニでは国造による祭祀の中心となっていた土地が神郡となっていた。


「神郡の郡司となった国造は王族の祖神に連なる名を持つ神を奉祀することになります。未だ国司になることができる人材が足りない状況なので、神郡の設置も止むを得ない手段です」

 鎌子の説明を聞いていた葛城王が、

「鎌子、神郡を出雲や吉備などの西国に置くことはできないか。彼らにも独自の信仰があると聞いている」

 鎌子は葛城王の提案を聞き、少し考えてから返答した。

「これまでに神郡となっている上総国香取郡、下総国阿波郡、常陸国鹿島郡を治めている長は古くから王族に従い、王族の祭祀を自ら積極的に取り込んできたという土台があります。また伊勢や紀国はどちらも日輪の祭祀を行っていたため、王族の祭祀と通じるところがありました。対して出雲や吉備の祭祀は王族とはかなり異なります」

「違い過ぎるとやはり難しいか」

「王族の祖神を奉祀することは拒まれるでしょう。ならばまた別の神を創る必要があります」

「新たな神を創れば彼らは従うのか」

「それだけでは無理ですが、それでも彼らを従わせる有効な手段の一つとなるでしょう」

 鎌子がそう答えると、葛城王は鎌子の顔を眺めた後、視線を白雉に向けた。

 白雉は尾羽を一本一本、丁寧に嘴で漉いているところだった。二人してしばらく無言のまま白雉を見ていたが、やがて葛城王が口を開いた。


「鎌子、次に大王の陰謀が仕掛けられるのは鎌子だと吾は思う」

 古人大兄皇子から始まり阿倍内麻呂、蘇我石川麻呂と葛城王の周辺では関係者が次々に死んでいる。葛城王の妃だった遠智娘も含まれるだろう。佐伯子麻呂や網田が問題視されていないのは身分がそれほど高くなく、政への発言権が無いからだ。


 葛城王の言葉通り、残っているのは鎌子だった。


「白雉の祀ではあからさまに中臣が遠ざけられていた。吾だけの思い込みだけではない」

 鎌子は拱手して葛城王に同意を示した。

「紀国にいた私のところにも中臣国足から使者が来ました。いったいこれはどういうことなのか、と。黙って大王の意志に従うようにと返事をしましたが、国足は納得していないでしょう」

 葛城王は、

「しばらく鎌子を難波から離れたところに出したままの方が良いのか、迷った。けれど吾から鎌子を離すことが大王の目論見なのだろう」

「私も紀国で考えていました。葛城王の足枷になるのなら離れていた方が良いのではないかと」

 葛城王が目元に微笑を浮かべながら鎌子を見た。

「よく戻ってきたな。そのままどこかに行こうとは思わなかったのか」

「それこそ出雲か吉備に行き、それぞれの国造と紀直氏と行ったような交渉をしてこようかと思いもしましたが」

 それでも良かったかもしれない、と、葛城王と鎌子は二人して顔を見合わせて笑った。

「……吾は鎌子を信じる」

「私も葛城王を信じています」


 羽繕いを終えた白雉は嘴を背に差し込むようにして微睡み始めていた。その仕草は普通の雉と変わるところはない。葛城王が独り言のようにつぶやいた。

「この白雉は穴戸国で捕らわれて、籠の中で微睡んでいるうちにここにやってきた。いったいどちらが夢だと思うのだろう。これまでのことか、それともこれからのことか」


 白雉二年三月十四日、この日、宝皇女は僧尼を統括する十師に列せられた僧侶を呼び集めて法会を行った。

 開催した寺院は舒明天皇が建立した百済大寺である。繍仏ぬいぼとけを始め、脇侍菩薩像、天竜八部像など三十六体の仏像を新たに百済大寺に奉納するためのこの法会は、孝徳天皇の指示なく、宝皇女が独断で催行したものだった。

 法会自体は僧侶が執り行うものだが、宝皇女は法会に先立って僧侶に食事を振る舞う設齋おがみを主催した。華やかで荘厳な仏教と王族に古くから伝わる祖先礼拝祭祀の融合でもある設齋は、これから後、宝皇女の意志を受けてかたちを大きく変容していくことになる。


 そして百済大寺で行われた盛大な設齋は宝皇女の権力が王位から退いても維持され続けていることを示していた。

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