第7話 飛鳥への帰還

 白村江から筑紫湊に帰還した船は出航した船の数の半分以下だった。しかもその大半が損傷し、黒々とした焦げ跡が生々しく船体にこびりついている。ほぼ無傷なのは救援に向かった阿曇比羅夫が率いる船団だけで、その船の上には怪我を負った者と身元の分かる遺体が区別なく横たわっている。


 鎌子は死者の霊を祀る祭祀のため神官の黒い装束を纏い、筑紫湊で阿曇比羅夫を迎えた。

「阿曇比羅夫殿、ご苦労様でした」

 阿曇比羅夫は厳しい顔を鎌子に向けた。

「こんなにひどい戦はあんまりだ。兵は戦わずして無駄死にし、筑紫君は唐に捕らわれた。これだけの被害を出しながら百済を助けたわけでもなく、いったい何のための戦だったのか」

 阿曇比羅夫の怒りはもっともだった。鎌子は黙ったまま拱手し、阿曇比羅夫の怒りを聞いてから顔を上げた。

「筑紫君の身柄を返してもらえるよう、これから私が唐と交渉します。葛城王はせめて阿曇比羅夫殿が無事で戻られたことが喜ばしいと仰せです。後ほど那珂津宮に私と参りましょう」

 溜めていた怒りを鎌子に吐き出した阿曇比羅夫は、大きく深呼吸してから頭を巡らせ筑紫の海を振り返った。

「筑紫の者達に十分な褒賞を、望む」


 阿曇比羅夫が連れ帰った兵の中には、朴市秦田久津が戦死した周留城で戦っていた者もいた。そのうちの一人がこう証言した。

「最後の攻撃の前に、新羅王から降伏の勧告がありました」


――新羅と倭は昔から友好国である。なぜ今百済と手を結び新羅を苦しめるのか。倭国の兵の命は取らないから、帰ってこのことを倭の王に伝えよ


 新羅王の言葉を信じて周留城を出たものは、新羅の船で海戦後の白村江まで送り届けられたのだという。


「鎌子は新羅とよく繋いでくれた」

 その報告を聞いた葛城王は鎌子をねぎらった。鎌子が密に通信していた新羅の重臣、金庾信がはたらきかけてくれたのだろう。新羅と倭が友好国である、という言葉は今後の両国の関係を悪化させるつもりが無いことを新羅王が公にしたともとれる。

「新羅は倭を攻撃するつもりはないでしょう。ですので葛城王」

 顔を上げた鎌子と葛城王の視線が合う。鎌子が全てを言い終える前に葛城王は軽く目を伏せ、その言葉の先を口にした。

「飛鳥に、戻ろう」

 鎌子は拱手し葛城王に同意を示した。


 白村江の海戦の後、唐と新羅は根強く抵抗を続ける百済最後の城である任存城攻略のため、全軍を倭国とは反対の北方へと向けた。


 葛城王と鎌子がおよそ三年ぶりに戻ってきた飛鳥は、稲穂が実り始める季節を迎えていた。涼やかな風には海の気配がなく、微かに漂う山の木々の匂いは、しばらくこの地を離れていた者達にとって涙が滲むほどに懐かしいものだった。


「お帰りなさいませ」

 飛鳥後岡本宮の留守を預かっていた蘇我連子が葛城王の一行を出迎えた。斉明天皇の王宮だった飛鳥後岡本宮は主の死を知らぬかのように元のままだった。大海人皇子は妃である鵜野皇女とその息子とともに後宮に入り、葛城王は王宮の外にある自邸へと戻った。


 鎌子は王宮に残り、蘇我連子と状況の確認を行った。

「連子殿、しばらくは難波宮に人の出入りがあると思うので官人を多くおいて欲しいのですが」

「分かりました。大学寮での官人の育成は順調ですので配置に問題はありません」

 王族が飛鳥から離れていた年月、蘇我連子は淡々と実務をこなしていた。鎌子が見込んだ連子の適正は確かだった。だが気になることがあった。

「連子殿、からだのお加減が良くないのですか。顔色が優れないようですが」

 蘇我連子は以前から中肉よりも痩せ気味ではあった。だが鎌子が目にする眼窩の窪みや手の甲に張り付くような皮膚、丸められた背は、どれも連子の健康が害されている証だった。

「戦場にあるよりは気楽かと思っていましたが、少々働き過ぎました」

 連子の生真面目な口調は変わっていないだけ鎌子は痛々しさを覚えた。だが連子は鎌子の心配をよそにその身を乗り出した。

「それよりも間人皇女様のご容態がはかばかしくありません」


 二年前、斉明天皇崩御の報せを飛鳥の王宮で聞いた間人皇女は、その場に倒れ、それからずっと床の上で伏している状態が続いていた。冬にひどい風邪を引いて熱を出してからはさらに容態が悪化し、今は人が話しかける声にも反応しなくなっているのだという。


 久しぶりに政務のための袍を身に着けた葛城王と大海人皇子が二人揃って間人皇女の寝所を見舞っても、寝たきりの間人皇女の様子に変るところはなかった。斉明天皇が亡くなる直前に口にした間人皇女についての言葉は、その場にいた者達の記憶に残っている。

「間人は少しでも話せないだろうか」

「兄上、これでは無理です」

 葛城王と大海人皇子が囁きかわす言葉を部屋の入り口に控えた鎌子はそれとなく聞いていた。鎌子の父である中臣御食子も生前は同じようなことをしていたのだろう。前の王宮である飛鳥板葺宮の記憶を手繰ろうとして突如、廻廊の先から走ってくる足音が聞こえてきた。


 鎌子は弾かれたように立ち上がると部屋の戸の前に立ち、背後の葛城王たちを守るため太刀に手をかけた。

「お父様、お姉さまが、お姉さまが……!」

 廻廊を走ってきたのは鵜野皇女だった。鵜野皇女は鎌子の横をすり抜けて間人皇女の寝所に駆け込み、 夫である大海人皇子ではなく、父である葛城王の袖に縋りついた。

「どうした鵜野。大田に何があった」

「お姉さまが、今朝起きて来なくて、それで、それで……女官が」

 そこまでを途切れ途切れに訴えた鵜野皇女は、それ以上を語れず泣き伏した。


 鵜野皇女のあとを追ってきた女官が、これも泣きながら大田皇女が先ほど亡くなったことを葛城王に知らせた。


 百済救援のために筑紫に向かう途中、大田皇女は大海人皇子の子を産んでいた。

 しばらくは安静にする期間が必要だったが斉明天皇が突然亡くなり、間人皇女も王族の務めを果たすことができない状態になった。大田皇女は産後のからだを労わる暇もないまま飛鳥宮を守る王族としての責を担うことになった。

 三年にわたり極限まで張りつめていた緊張の糸が父である葛城王の帰還によって緩み、太田皇女は自分の命さえ空に放ってしまった。


「昨日の夜は、お姉さまといっしょに、お話もしたのです。なのに、なのに……っ」


 命の気配すら感じさせずに眠り続ける間人皇女の傍らで、葛城王は泣きじゃくる鵜野皇女の背を強く抱きしめた。

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