第7話 枚岡の社

 火がつけられたのは馬のためのまぐさを入れておく倉庫だった。邸の中でも人気が少ないところではあるが、近くの馬小屋の馬が騒いで母屋の使用人がそれに気づいたのと、すぐに警備の兵が駆け付けたために母屋を含む他の建て物への延焼は防がれた。

 だが枯れた草に着いた火の勢いは強い。無闇に水を掛けるよりも、ある程度燃やして火の元となるものが燃え尽きてしまってからの消火を待つことになった。その間に怯える馬を移動させ、念のために大事な品物はいつでも運び出せるようにまとめて置かれた。


 葛城王と鎌子は邸を火から守るために手際よく動く人々を邸の敷地に立って眺めていた。

「この程度の火ならばかえって冬の冷えた夜が温まるというものだ。鎌子、修復にはどのくらいかかる」

「この邸を建てた時の材がまだ残っていますから、直すだけなら十日もあれば。母屋には影響はありませんので、工事の音が気にならなければこのままお使いいただけます」

「水辺が近いというのも良かった。邸をここにしろ、といった鎌子の判断は間違っていなかったな」

 二人がそんな話をしているところに佐伯子麻呂がやってきた。後ろには子麻呂とともに葛城王を護衛する任に就く稚犬養網田の姿がある。網田は犬を繋いだ紐を牽いていた。

「こいつが吠えて知らせてくれたんですよ」

 子麻呂がそう言って犬の紐を引き、葛城王と鎌子の前へと寄こした。


 その犬は肩までの高さが大人の膝ほどもある白っぽい犬だった。耳は垂れて目は黒く愛嬌がある。

「いつも見廻りには犬を付けているんですが、今日は夕方ごろから犬が落ち着かなくて何かあるんじゃないかと思っていたらこれです」

「吠えて知らせた、ということは火付けの犯人を見たのか」

 鎌子が聞くと子麻呂が、

「我々には見えません。どこかの草むらに潜んでいたんでしょう。本当なら邸の中に入り込んであちこちに火をつけて回るつもりだったんでしょうが犬がいたから近づくことができず、苦し紛れに火を点けた矢を放って逃げ出したようです」

 葛城王は子麻呂の話を聞きながら犬の頭に手を触れた。

「よく知らせてくれた」

 犬は葛城王に頭を撫でられて尻尾を揺らしている。犬の白っぽい毛色には所々に茶色の毛が混ざっていた。

「こいつは大人しいやつで耳と鼻が効きます。人懐っこいんで番犬には向かないんですが夜の警備をする者達に可愛がられています。鎌子殿、今夜みたいなこともありますし、もう少し警備に犬を増やしてはどうでしょう」

 子麻呂だけでなく身を屈めて犬の背を撫でる葛城王も、葛城王につられて犬も、鎌子の方を見た。

「……犬を増やしましょうか、葛城王」

 鎌子がそう言うと葛城王は笑みを浮かべた。

「狩りにも連れていける犬がいい。子麻呂、犬はすぐに手に入るのか」

「ここにいる網田の家が犬を飼って訓練しています。明日にでも良い犬を数頭、連れて来れますよ」


 佐伯子麻呂と網田が犬を連れてその場を立ち去ると、すでに火の勢いは衰えた蒭小屋には次から次へと運ばれてきた水が掛けられ始めていた。

「鎌子、誰が吾の邸に火を点けたと思う」

「正直なところ思い当たる相手はいくつも挙げることができます。ただ、大王が有間からお帰りになるという知らせがあってすぐ、ということを鑑みれば」

 鎌子はそこで言葉を切ったが、葛城王は

「……大王は西国に取り込まれたとみて良さそうだな。いっそう吾のことが邪魔になったか。対応を考えておかなければならないだろう」

 鎌子は拱手で葛城王に同意した。

 邸の火は完全に消し止められたが、片づけは必要だった。

「葛城王、今夜はひとまず私の邸においでください。遠智妃と太田皇女、鵜野皇女は修復が終わるまで遠智妃のご実家である蘇我石川麻呂殿の邸にお移りいただくのが良いかと思います」


 鎌子は自分の邸を生駒山の斜面を敷地の背にして建てていた。鎌子の邸は葛城王の邸宅と近く、間には民家はあっても大きな建物は無い。なので互いの邸の門が見通せる。

 葛城王を乗せた輿と護衛の兵の一行は、夜道の先にはっきりと見える鎌子の邸の篝火を目印にして星空の下を移動した。


 鎌子の邸の中に入って輿から下りた葛城王は、建物の意匠に目を止めた。

「鎌子は唐か百済の建築で自分の邸を建てたと思っていたのだが、違ったのか」

 皓々と焚かれた篝火に照らされているのは杮葺きの屋根や丸太を配した母屋だった。屋根や床などの構造は飛鳥宮に似ているが、軒や梁には寺院の建物と似通うところもある。

「いろいろと試行錯誤しています」

 鎌子は手を差し伸べて葛城王を屋内へと導いた。

 葛城王は鎌子の案内で母屋の奥へと板張りの廊下を歩きながら珍し気に視線をあちらこちらへ向けた。

「あまり人がいない」

 その葛城王の言葉通り、邸の敷地や塀の外は佐伯子麻呂の配下の警備の兵の気配があるが、建物の中はひっそりと静かだった。

「中臣の者はほとんど飛鳥に残っています。ですがこの建物の外には十分に警備をおいていますのでご安心ください」

「鎌子の家族はいないのか」

「父は先月亡くなり、母も後を追うように亡くなりました。すでに埋葬も済ませています」

 鎌子の父、中臣御食子は宝皇女が難波に移るのを見送るかのようにその生涯を閉じていた。中臣の長は、内臣に就いた鎌子に代わって父の弟がその跡を継いでいた。

「鎌子には妻がいただろう。叔父上の、大王の采女だったと聞いているがそれはどうした」

 鎌子は葛城王の直截な質問に思わず苦笑した。

 葛城王が云う鎌子の妻とは、まだ軽皇子を名乗っていたときの孝徳天皇の子を身ごもり阿倍内麻呂によって山崎離宮から追われた車持くるまもちの采女のことだった。

 鎌子は阿倍の頼みでその采女、車持与志古娘くるまもちの よしこのいらつめを妻に迎えたが、与志古娘は岡崎離宮を出てからは車持一族の領地に暮らしている。生まれた子もその地で無事に育ち、今年、四歳になったというが鎌子はその子が生まれてから一度もその顔を見たことはなかった。


 事情を説明すると、葛城王は鎌子が思った以上に深刻な表情でさらに質問を重ねてきた。

「その子はこれからどうするんだ。鎌子の子として扱うのか。叔父の子であると知らせて王族で面倒を見ても良いと思うのだが」

「出自を知らせるつもりはありません。王族の一人とすればまた余計な争いを招くことになるでしょう。成長したら出家させようと思っています」

「僧侶にして政から遠ざけるのか。だが、鎌子はそれでいいのか」

 まるで我がことのように思いつめた葛城王の表情を間近に見て、鎌子は自分があまりに薄情であるのかもしれないとようやく思い至った。だがその子は自分の子でもなく、手を触れあったこともないその母という存在に、今以上の感情をどうしても持ちようがなかった。


 鎌子は葛城王の質問には答えないまま、母屋の最奥へと足を進めた。鎌子からの返答を得られないと悟った葛城王はそれ以上何も聞かずに鎌子の後についてくる。


 母屋の奥からは外に出る廊下が伸びていて、その先にもう一つ、独立した高床式の建物があった。

「葛城王、今夜はこちらの建物をお使いください。こちらの母屋と廊下、そして壁の外に夜通しの番を付けます」

 階段を登り重い木の扉を開けて入った内部は几帳によって手前と奥、二つの部屋に分かれており、火鉢に熾されている炭火が部屋の中を心地よく暖めていた。几帳の奥、縁をかがった藺草の筵に木綿の敷物、鹿の毛皮が重ねられた床の上に葛城王は座り、灯明の明かりに照らされる室内を見渡した。

「鎌子、この建物は何だ」

「こちらは祭祀を執り行うためのやしろです」

 葛城王は首を傾げた。

「内臣に任命した時、鎌子は神祇官の任を外れたはずだ。ここで何のための祭祀を行っているのか」

「正確に言うならばここで実際に祭祀を執り行ったことはありません。改新に際して神の名を統一し、天照大神を頂点とする神話の体系を作り出す必要があることは以前にお話したかと思います。それを実行するためには、畿内だけでなく倭全体で神祇の統一を進める必要があります。朝廷が認可する神祇をどのような形にするべきなのか、実際にこのような建物を造ってみて考えているところなのです」

「そういえば、それもやらなければならないことだったな」

 そう言いながら辺りに視線を巡らせた葛城王が何かに気づいて目を留めた。

「あれは」

「ああ、あれですか」

 葛城王の目を引いたものは几帳の近くの台に置かれていた鏡だった。鎌子は鏡を手に取った。

 青銅の鏡は、かつて倭の王族が権力の象徴として地方の豪族に与えていた。しかししばらく前から地方各地に鏡を作る技術が伝わり、権威の象徴の意味は消失しつつあった。


 鎌子は鏡を葛城王に手渡した。


「私は倭の大王と神を、等しいものにしようと考えています」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る