第14話 石床の潦水
鎌子が後宮から謁見の間に戻ると入鹿の死体は
鎌子は筵を半ば外し、衛士から借りた刀で入鹿の首を落とした。切り落とした首からも胴体からももはや血は流れ出ることはなかったが、鎌子が石床についた膝からは血混じりの水が浸み込み込んで神祇官の黒い上衣は暗さを増した。
「身体のみ、直ちに法興寺の葛城王の下へ持っていくように」
衛士に刀を返しながらそう命じ、鎌子は入鹿の首を掴むと馬に乗って飛鳥宮を出た。雨は馬を濡らし、鎌子の衣からは入鹿の血と雨が混じった薄赤の水が滴り落ちた。
「葛城王が叛臣蘇我入鹿を討ち取った! これより葛城王は蘇我蝦夷の潜む城柵を攻撃する。志ある者は葛城王の軍に加われ!」
鎌子は入鹿の首を高く掲げ声高に叫びながら飛鳥宮から阿倍の兵が潜む旻の寺院までを馬で駆け抜けた。
「阿倍内麻呂様、葛城王が蘇我入鹿を討ちました! これから蝦夷を討ちます! 兵を甘樫丘へと向かわせてください!」
寺院の山門前で入鹿の首を掲げる鎌子を見て、阿倍内麻呂は何も言わずに蘇我の邸がある甘樫丘へ兵を急行させた。
すでに謁見の間に集まっていたすべての臣が葛城王に従い法興寺に集結している。さらに阿倍内麻呂の兵が加われば圧倒的な戦力差の前に蘇我宗家の殲滅は確実だった。
鎌子は兵を連れて移動する阿倍内麻呂とは異なる飛鳥川沿いの道を甘樫丘へ向けて一人、馬をひたすらに駆った。雨にぬかるんだ泥が跳ね、ちぎれた草の葉が長衣の裾に貼り付く。道に覆いかぶさる木立を抜けると視界を遮る雨の向こうに火の手が上がっているのが見えた。
甘樫丘に蘇我蝦夷が築いた城柵が燃えている。それは王族になろうとした蘇我蝦夷の夢を燃やし尽くす炎だった。
鎌子は馬を止め、稜線を赤く縁取る炎を眺めた。まだ二十歳の若者でありながら葛城王の決断の速さと決めたことを実行に移す能力は紛れなく本物だった。
この国の全てを支配する王には葛城王こそが相応しい。
鎌子は自分の心の内に葛城王への期待が強く、熱をもって湧き上がるのを感じた。
葛城王のいる法興寺に向けて馬を再び走らせる前に、鎌子は腕に抱えたままだった入鹿の首を改めて正面から見た。血はすべて流れ去り、肌は造り物のように真っ白だった。
彼に殺される理由は、無かった。
生前に入鹿と交わした言葉を思い出してみる。拠り所とする知識は違っても、これからの国造りの方針には鎌子と通じるところがあった。
鎌子は馬を降りると入鹿の首をそっと地に置き、両手を合わせた。祈りは中臣の神祇作法ではなく、入鹿が信仰した仏教の作法がふさわしいと思った。
朝から降り続けていた雨は止み始めていた。
鎌子は入鹿の首を抱え直し、再び馬に跨った。今、自分が戻るべきなのは葛城王の側だった。
鞍上の鎌子に腹を強く押された馬は、泥水を跳ね上げながら再び全力で走り始め、一度も速度を緩めることなく、後ろを振り返ることもなく、法興寺まで一息に駆け抜けた。
法興寺には葛城王の陣が敷かれ、兵は甘粕の丘のふもとを埋め尽くしていた。陣に入った鎌子は直ぐに葛城王に報告した。
「大王は宮殿の奥で守られております。大海人皇子様も間人皇女様もご無事です」
「……大海人に会ったのか」
「はい」
「そうか」
葛城王はそれ以上、大海人皇子については何も言わなかったが、その目には秘密を共有する者同士の安堵が微かに浮かんでいた。
皇極天皇は二人が双子であることを外部に固く秘していたというが、当人たちにとってはそれどころの問題ではない。百済大井宮で、飛鳥宮の後宮で、閉ざされた空間で同じ顔をした同じ年の兄弟と息を潜めながら向かい合ってきたその年月がどのようなものだったのか。
後宮を抜け出し、雉子と名乗って鎌子に会いにきていた葛城王の心の内を思い遣る余裕は、今は無かった。
「葛城王、こちらに入鹿の首があります。いまだ邸に立てこもる蝦夷に返してきましょうか」
葛城王は鎌子が差し出した布にくるまれている入鹿の首を見た。
「それはその辺りに目立つように置いておけばいい。見せしめだ」
「わかりました」
最早この布の中にあるものは鎌子にとってただのものにしか過ぎなかった。鎌子が入鹿の首を後ろに下げると葛城王は明日のことを口にした。
「鎌子、明日の朝の総攻撃には中臣も加わってもらう」
「そのつもりです」
「中臣の将は誰だ」
「父は飛鳥宮から離れることができないので私が代わりに務めます」
鎌子の返事を聞いた葛城王がふいに押し黙った。人払いをしているので近くに人影はないが兵が歩き回る気配で常に物音が絶え間ない。鎌子は自分の衣の袖が触れるくらいに葛城王の側に近づいた。
「何か気がかりなことがありますか?」
その問いに葛城王は無言で頷き、目を伏せたまま鎌子の衣の袖を指で掴んだ。
その様子は初めての戦でありながら今日一日、軍を率いてきた若き王のものではなかった。生まれて初めて野の鳥や獣ではなく、人間を斬った若者の反応だった。
鎌子は袖を掴む葛城王の指の上から自分の手を重ねた。
「……中臣の兵は佐伯子麻呂に預けます。私は貴方の側にいますので安心してください」
顔を伏せたままの葛城王が何か小声で呟いて、袖を掴んだ指からは溶けるように力が抜けた。
ありがとう、と、言われた気がしたが聞き返すことはしなかった。ただ触れ合った互いの指はしばらくの間、互いに離れようとしなかった。
翌朝、日が昇り切る前に蝦夷の館から火が出た。逃れられないと悟った蝦夷が自害する前に邸に火を放ったのだ。直ちに踏み込んだ葛城王の軍勢は蝦夷の死体を炎の中から引きずり出し、蘇我蝦夷と入鹿の親子がため込んだ財宝を運び出した。
蝦夷の財宝の中には書物が含まれていて、
「これは国史のようです」
鎌子はざっと中に書かれた文章を確認した後、焦げ跡がある書物を葛城王に手渡した。
「厩戸王の記したものなら、入鹿が山背大兄王を襲った時に上宮王家から奪ったものかもしれない」
「ところどころ加筆されています。私が以前、玄理殿に見せてもらった写本とは異なる記述があるようです」
「蘇我に都合がいいように歴史を作りかえようとしていたのか」
葛城王は鎌子に書物を返した。
「そのようです。蘇我氏が持っている歴史書はここですべて燃やしましょう。この国の新たな歴史は貴方が、今ここから、作り上げていってください」
新たな国をつくるための準備はまだ不十分だった。その状態で引き返せない道を踏み出してしまった。無理を承知で進める国造りは、この後も多くの犠牲が出るだろう
もしかしたら蘇我氏が請け負ってきた人殺しの連鎖が葛城王に受け継がれただけなのかもしれない。
それでも、先に進むしかない。
「鎌子、ともにこれから国を造っていこう」
「はい、この命の続く限り私は貴方の国造りを支えましょう」
鎌子は葛城王と共に新たな国を造り上げるため、倭の神祇官である中臣といずれ決別することを決意した。
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