第13話 煙雨の白百合
蘇我氏は全盛の勢いを失ったとはいえ一定の権力を維持し続けている。蘇我氏と全面的に争うよりも同じ王族であり、まだ後ろ盾のない葛城王を王位継承の候補から除外する方が軽皇子にとっては容易い。
――葛城王に謀叛の疑いを掛けて王位継承権を確実に奪う。
軽皇子はいつからそう思い定めていたのだろうか。いや、それよりも今はこの事態への最善の対処を考えなければならない。全力で疾走する馬の背で鎌子は考え続けた。
その背後から追いついてくる騎馬があった。肩越しに振り向くと阿倍内麻呂だった。
「我が兵は、どうすればいい!」
阿倍内麻呂も軽皇子に裏切られたのは同じだった。いつもは計算高い老人も狼狽の表情を隠しきれていなかった。阿倍が飛鳥に兵士を集結させた以上、どのような言い訳も難しい。
飛鳥宮の北には蘇我の本拠地、甘樫丘がある。その反対には――。
「僧旻殿の寺院が飛鳥川の近くに有ります。そこでしばらく待機を!」
その後どうすればいいか、というところまで考える余地はさすがに鎌子にはなかった。身の振り方は彼ら自身に任せるつもりだった。
「分かった。鎌子殿、礼を言う」
阿倍内麻呂が初めて鎌子にかけた感謝の言葉は、双方の馬の蹄の音に掻き消された。飛鳥宮の南大門に駆け込むとき、全速力で走る自分の馬に軽々と追いついた阿倍の馬の脚の速さがちらりと鎌子の頭の隅をよぎった。
飛鳥宮は、先ほど鎌子が出て来た時の様子と変わらなかった。鎌子は急いで葛城王と子麻呂が待機する謁見の間の出入り口に向かった。
「鎌子」
「鎌子殿、軽皇子様はどうされた。そろそろ石麻呂殿の奏上も終わってしまうぞ」
鎌子は二人のすぐ近くまで走り寄り、声を押し殺して子麻呂に指示した。
「すぐに南大門を含むすべての門を閉じ宮廷の衛士を朝堂前の広間に集めてほしい。屯所に詰める者達も武装させて全員集めてくれ。蘇我の兵が集まってきても決して門の中に入れるな!」
蘇我の兵という言葉を聞いて葛城王も子麻呂も息を吞んだ。
「子麻呂、行け!」
葛城王の短く鋭い命令に弾かれたように、子麻呂は南大門へ向かった。
「何があった」
葛城王が鎌子の袖を強く掴んだ。
「軽皇子様の陰謀です! 貴方が大王に謀叛を企んでいると蘇我に伝え攻撃させるつもりです!」
蘇我氏は上宮王家であった山背大兄王を攻め自殺に追い込んでいる。
蘇我蝦夷と入鹿という親子それぞれの性格はともかく、蘇我氏そのものが相手が王族であろうと攻め滅ぼすことに躊躇を覚えない集団だった。今、多少は話が通じる入鹿は飛鳥宮にいる。軽皇子の報せを受けるのは入鹿より危険なその父の蘇我蝦夷だ。
「叔父上は今どこに」
「山崎離宮にいるようです。貴方は謁見の間には行かないで下さい。蘇我の兵が来る前に、すぐにここから逃げて下さい!」
鎌子の必死の願いに、しかし葛城王は沈黙で応えた。
「葛城王、早く……!」
葛城王は鎌子の袖を掴んでいた指をゆっくりと離した。
「……逃げる? ここは王宮だ。なぜ皇太子である吾がここから逃げなければならないのか」
葛城王が刺すような強い目で鎌子を見た。
その目には憶えがあった。
――百済大井宮で初めて会った、あの時の
「鎌子、ついてこい」
葛城王は身を翻して歩き始めた。
「どちらへ……」
「もちろん、この中だ」
葛城王はそう言って、謁見の間の重い木の扉を開けた。
朝から降り続けている雨の音が扉のきしむ音を掻き消す。
謁見の間の正面には皇極天皇が王座に座っていた。その横には王族が並び、王族の前に蘇我石川麻呂が立って今日の催しを言祝ぐ奏上を詠みあげている。石川麻呂の後ろには大臣である蘇我入鹿を筆頭に他の臣たちが整然と立ち並んでいて、向かって左側に三韓の使者たちが参列していた。
皇極天皇の右に古人大兄皇子が立っている。ならば軽皇子は古人大兄皇子にはこの計画を洩らしていない。
葛城王は足音を忍ばせて壁伝いに王座に近づいていく。鎌子は雨に濡れた衣の上から神祇官の黒い長衣を纏いその後に続いた。周囲に素早く視線を巡らせたとき皇極天皇が葛城王を見ていることに気づいた。皇極天皇の手は王座のひじ掛けを筋が浮くほど強く握りしめている。
葛城王が何をするつもりなのか分からないまま、鎌子は次に何をすべきかをひたすら考えていた。
今の状況に葛城王を巻き込んでしまったのは鎌子の失態だった。見通しの甘さ、覚悟の甘さがこの事態を招いた。どうすればいい。
中臣の館に使者を送って山科から兵を呼び寄せるのは間に合わない。ならば他に。
――そういえば父は、どこにいる
つ、と。
傍らの葛城王が足を止め、手に持った刀を鞘から抜いた。床に落とされた鞘の音に謁見の間にいる者達の視線が一斉に向けられた。その中に入鹿もいた。
葛城王、と鎌子がその名を呼ぶ前に、葛城王は一息に謁見の間の真ん中に駆け込んだ。
「
気合を入れた掛け声とともに葛城王は入鹿を正面から袈裟懸けに斬り付けた。三韓の参列者の列に紛れていた稚犬養網田も葛城王の姿を見て自分も刀を抜いて飛び出してきた。
葛城王の一太刀は致命傷にはならなかったが、入鹿の肩からは血が流れ、腕を伝って石床にも滴り落ちた。入鹿は呆然と葛城王を見て、そして皇極天皇を見た。
「わたしに、わたしにいったい何の罪があるというのですか」
皇極天皇は微塵も動じず、無言のままで王座から入鹿を見下ろした。
入鹿は葛城王に斬られた肩を抑え、よろけながら皇極天皇の王座に一歩、二歩と歩み寄ったが、その背を稚犬養網田が後ろから引き掴み、押し倒した。入鹿の身体は自らの血が落ちる石床に押し付けられた。
「……さて、これは何事か」
皇極天皇の言葉はただ一人、葛城王だけに向けられたものだった。
「蘇我入鹿は王族を滅ぼそうとしています。王族の系統を守るために入鹿を討ちました」
皇極天皇と葛城王は無言でしばらく見つめ合い、やがて皇極天皇は王座を立った。蒼褪めた女官がそれでも気丈に駆け寄って皇極天皇の手を取り、謁見の間からの退室を促した。
葛城王は謁見の間から退室する皇極天皇を見送ると、稚犬養網田に命じた。
「網田、やれ」
網田は押さえつけていた入鹿の背を深く剣で貫き、入鹿は声も漏らさずに絶命した。
「
突然、悲鳴のような叫び声が響き、ばたばたと大きな足音を立てながら古人大兄皇子が謁見の間から逃げ出した。一瞬の静寂の後、その場にいる者が皆、我先にただ一つの出入り口である木扉に殺到する。
葛城王がすかさず大声を張り上げた。
「鎌子、これ以上この場から誰も逃すな。敵も味方もだ。逃げるものは全て弓で射よ。ここに居る者はすべて我が命に従え」
だん、と鎌子が放った矢が木扉の脇の柱に突き刺さった。
続けて二本目、三本目の矢が立て続けに柱に刺さると、謁見の間の者達の足が止まった。皆が息を呑んで見つめる木扉の半ば開いた隙間から佐伯子麻呂が謁見の間に入ってきた。
「葛城王、飛鳥宮の門はすべて閉ざし、兵は皆、朝堂の前に集まっています」
葛城王は子麻呂に頷くと鎌子を見た。
「鎌子、吾は今すぐ、どれだけの兵を動かせる」
「子麻呂が用意した宮廷の衛士と併せて百、旻殿の寺院に留まる阿倍様の兵百をこれに加えることができます」
「よし。その兵を以て蘇我蝦夷を討ち、蘇我宗家を根絶する。鎌子、阿倍への報せと入鹿の始末を任せる。後から合流しろ」
葛城王は身じろぎすらしない臣たちの前に立った。
「吾はこれから蘇我の館のある甘樫丘を攻める。同じ志ある者は法興寺に兵を率いて集まれ。加わらないものはここに入鹿の死体と共に留まれ」
そう言い終えると葛城王は佐伯子麻呂と稚犬養網田を従えて謁見の間から足早に出て行った。
やがて臣たちは謁見の間から出て行き、後には三韓の使者の他は誰も残らなかった。
鎌子は残る衛士に謁見の間の封鎖を指示すると後宮に向かった。後宮には先ほど謁見の間から退出した皇極天皇と葛城王の弟妹がいる。この非常事態において王族はなるべく一か所で保護しなければならない。
王宮の回廊に人の気配はなく、鎌子は誰にも咎められずに後宮に辿り着いた。その回廊の先、皇極天皇の居室の前には鎌子の父である中臣御食子がいて扉の前を守っていた。
「鎌子、葛城王はどうなされた」
「蘇我殿を滅ぼすべく、自ら兵を率いて飛鳥宮を出ました」
御食子は頷き、皇極天皇の居室の扉を自らの手で開いた。部屋の中では幾重にも重ねられた敷物に皇極天皇がゆったりと身を横たえて休んでいた。
「中臣鎌子、何か用か」
それは初めて皇極天皇が鎌子にかけた言葉だった。だがその言葉に鎌子は違和感しか覚えなかった。先ほどの出来事の後にしてはあまりにも平然とし過ぎている。
「……大王に置かれましては、どうぞお子様方を手元近くでお守りください」
「わかった。けれど間人皇女は我が袖の下にでも隠せるが、大海人皇子は、なあ」
皇極天皇はそう言っておもしろそうにくすくすと笑った。
「大海人皇子、ここの鎌子はそなたが私の袖の中に入ることができるか心配している。そなたみずから声を掛けてやれ」
「はい、母上」
この声。
鎌子は思わず伏せていた顔を上げた。
その視線の先、皇極天皇が大海人皇子と呼んだ人物が部屋の奥から現れて鎌子を見下ろしていた。
その顔は、背格好は、葛城王とそっくりだった。
兄弟ならばある程度似ていて当然だが、年齢の違いも見えない。この相似は彼らがただの兄弟ではないことを明らかにしていた。部屋の扉を閉め部屋の中に入ってきた御食子が鎌子の背後に歩み寄る。
「二十年前、宝皇女様は双子の皇子を産み落とされた。私が行った占いの結果は、これは凶兆だと告げた。いずれ兄弟で争い合うだろうと。だから宝皇女様は大海人皇子様のお生まれをしばらく隠していた。葛城王が不慮の死を迎えれば、その死を隠して代わりに大海人皇子を立てることができる」
それは御食子がこれまで守り続けてきた皇極天皇の秘密だった。御食子の言葉を受けた皇極天皇は、
「我ら王族はどうしても兄弟で殺し合う性のようだが、この子たちはどうだろうか」
そのゆったりした声に被さって、この部屋に満ちる白百合の芳香が鎌子の鼻に強く匂った。強い眩暈を押しころして鎌子は立ち上がった。
鎌子が皇極天皇の居室から下がると、その戸を閉めた御食子が言った。
「私が大王をお守りする。お前が仕えるのは葛城王だ。己が為すべきことを、せよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます