第4話 秋風の音

 この少年は侵入者なのだろうか。それともこの部屋に付けられた従者なのか。

 どちらにしてもその態度は堂々としすぎている。鎌子が身動きを止めたので、部屋の中には少年の寝息だけが聞こえていた。


 その寝息があまりにも気持ちよさそうで、鎌子は少年を起こす気になれなかった。少年に占拠されている長椅子を使うつもりはないし、ここで何か仕事をするわけでもない。南淵の塾は常に人の出入りが絶えなかったので他人の気配を邪魔だとは思わなかった。


 少年の存在を衝立の向こうに追いやって、鎌子は改めて壁際の書棚を眺めた。天井まで届く高さの書棚には巻かれた木簡の束がいくつも重なっている。ためしに一冊手に取って広げると黒々とした墨で文章が記されていた。書体からすると唐の物だろう。ざっと目を走らせたが文字の並びに見覚えが無い。これまで鎌子が読んだことがない書物だった。


 その木簡を持って卓に戻り、改めて眺めてみると孔子という文字が目に留まった。仏教の経典が持ち込まれる数は年々増加しているが、儒教の経典は未だに極端に数が少ない。これはその珍しい儒教の経典のようだった。

 強く興味をひかれた鎌子は、椅子に深く座り直すと木簡に記された文章を読み始めた。


 やがて窓の外から差し込む光には朝の気配がなくなり、代わりに明るさを増した昼の陽が木簡の表面を柔らかに照らし始めた。

 集中して文字を追っていた鎌子に耳にふと、外の石廊を歩く靴音が聞こえた。靴音の速度は一定に保たれている。見廻りの舎人の足音だろうと見当をつけ、鎌子は席を立って戸を開けた。


 鎌子の勘は当たり、お仕着せの袍を身に付けた舎人の姿が部屋の手前の石廊にあった。

「水を持ってきてもらえないだろうか。喉が渇いた」

 鎌子の姿に気づいて拱手する舎人にそう頼むと、舎人は再び拱手してから足早にどこかに向かって去っていった。水場は近くにはないらしい。


 その時、開け放っていた戸から秋の風が部屋の中へと吹き込んだ。

 風は窓へと抜ける前、床の上で渦を巻いて華奢な衝立を床に倒した。カタン、と部屋に響いた音はそんなに大きな音ではなかったが。


「お前は誰だ」

 鋭い声に振り向くと、目を覚ました長椅子の少年が上体を起こして鎌子をまっすぐに睨んでいた。その眼光の強さに鎌子は思わず息をのんだ。

 少年の顔立ちは端正に整っていて無骨なところは全く見当たらず、形良い眉や顎の繊細な線に血筋の良さが明らかに見て取れる。


 そんな外見の印象にそぐわない少年の強い警戒の仕草は、着ている白い衣と相まって羽を膨らませた野生の鳥が大きな声で人間を威嚇する姿を思わせた。

 優雅な気品と攻撃的な警戒。

 相反している二つの要素は少年の若さゆえだろうか。鎌子は少年の目をゆっくり見返した。

 

 それにしてもようやく起きてくれたのは良いが、開口一番の言葉があれだとは。

初対面の相手への唐突な誰何は不躾極まりないが、ここは宮殿の中である。少年が有力な氏族の子弟である可能性は十分にあった。鎌子の一族である中臣の身分は宮廷の中でそれほど高くない。


 鎌子は目を伏せて拱手し、自分の名を名乗った。

「私は中臣鎌子と申します。南淵請安先生のお使いでこちらに参りました」

「鎌子? はじめて聞く名だ」

 身分への拘泥があったのは鎌子だけで、少年の方はまったく無頓着だった。だが、

「貴方のお名前をうかがってもよろしいでしょうか」

 鎌子に名を聞かれると、今度は少年の方に戸惑う時間が生じた。

「吾の名? 吾の名前は……」


 不自然に長引く沈黙の間に、先ほど衝立を倒した秋風が今度はケン、ケン、と鋭い雄雉の声を部屋の中に運んできた。


「……雉。吾は雉子きじだ」

 少年が今、その名を思いついたのは明らかだった。けれどあまりにあからさまなその偽名にはかえって少年の幼い純粋さが透けて見え、腹立たしさより可笑しみが勝った。

「珍しい名前ですね」

「名前なんてどうでもいい」

 おまえは誰だ、と無遠慮に鎌子に誰何した人物の言葉とは思えない。鎌子は何も言わなかったが、少年は鎌子の目線に軽い揶揄を察したらしい。顔に現れた気まずそうな表情は十五、六に見えるその年相応のものだった。


 だがその表情は一瞬のこと、少年は、今度は興味深げに鎌子の姿を上から下に何度もじろじろと見た。

「鎌子は武人か」

「いえ、違います」

「じゃあ文官か。その割に肩が厚い」

「私はしばしば鹿を狩るため弓矢を持って野に出ます。そのためでしょう」

 少年は鎌子の答えに満足したように何度か頷いた。

「狩りか。いいな、吾も弓を習いたいのだが許してもらえない。だが剣は使える」

 雉子と名乗った少年が剣を持つ真似をして腕を振るその姿に、先ほどまで熟睡していた様子は微塵もなかった。

「それは何だ」

 雉子は長椅子から勢いよく立ち上がって卓に近づいた。少年の背は中背の鎌子よりまだ少し低い。けれどしなやかな体の動きはこれから成長する途上の若さを現わしていた。


「これは儒教の経典です」

「仏教ではないのか」

「はい。貴方は仏教を学んでいるのですか?」

 有力豪族の子弟が仏教を学ぶことは最近の流行りだった。ならばやはりこの少年は身分の高い氏族の一人なのかもしれない。そこまで考えて、鎌子は自分が少年に対して必要以上に敬う言葉遣いをしていることに気づいた。だがそこに卑屈の感情は無かった。


「仏の教えは退屈過ぎる」

 雉子は木簡に書かれた文字を指でなぞりながらそんなことを云った。

「人の心の良きところに恃んで行う国造りは理想だ。けれど争いは必ず起きる。厩戸王は人々が仏の教えに従うことを当然と考えておられたようだが、それは甘すぎる」


 それは王族である上宮王家への批判ともとれる言葉だった。鎌子はこの少年の出自を測りかねた。仏教への不満があるなら、今、朝廷で権勢を誇る蘇我氏ではない。蘇我氏と一定の距離を置く豪族の阿倍氏だろうか、それとも上毛野氏か。


 けれど宮廷と縁がない鎌子にはどの廷臣の顔も曖昧で、雉子と名乗る少年の顔と比べることはできなかった。


 それよりも。

 鎌子の心を動かしたのは少年の興味が向いている方向だった。

 もしかしたら。

 鎌子は卓から一片の木簡を取り上げ、短い漢文を記した。


 ――無疏其親無怠其衆 撫其左右御其四方 無借人国柄 借人国柄即失其権


「これは?」

 鎌子が綴る文字を興味津々に見ていた雉子は、鎌子の持つ筆先が木簡から離れるやいなや質問してきた。

六韜りくとうといい国を治めるための書です」

「仏陀の教えではないのか」

「違います。争いが起きた国を治めるための方法が書かれています」

 鎌子は文字を記し終えた木簡を雉子に渡した。雉子はしばらく木簡を眺めてから、おもむろに鎌子が記した文章を声に出して読み上げた。


「――其の親を疎んずる無かれ、其の衆を怠どる無かれ。其の左右を撫し、其の四方を御して人に国柄を借す無かれ。人に国柄を借せば即ち其の権を失う」


 鎌子は表情にこそ出さなかったが、内心ひどく驚いた。まだ幼さが残るこの少年が、まさか初見の漢文を読めるとは思っても見なかったのだ。

「これはこのまま書かれた意味を読むだけではしょうがないのだろう。鎌子、この文が意味するところは何だ」

 本当に分からないのか、それともこちらを試しているのだろうか。焦りすらともなう鎌子の猜疑とは裏腹に、雉子が鎌子に向けた目には真摯な好奇心が溢れていた。鎌子は軽く息を吐き、雉子の要求に応えた。

「これは周囲の人間を分け隔てなく大事に扱うことの大切さを説いています。けれど大切に扱うことと国事を預けることは違います。家族や家臣を大事に扱うことは必要です。一方で王が自らその権力を行使しなければ国そのものを失うことになる、と」


 そこまで説明して鎌子は口をつぐんだ。雉子の上宮王家への批判に引きずられ、無意識のうちに今の王権の在り方を非難するような部分を引いてしまっていた。まだ成人していない少年とはいえ、雉子の出自が王権に近い有力な氏族に繋がっていれば危ういことになる。落ち着かない不安が鎌子の腹の辺りに生じた。


「――人に国柄を借せば即ち其の権を失う、か。鎌子、六韜という書には他にはどんなことが書かれている」

 だが雉子の態度に変化はなかった。

 たとえ有力な氏族と血縁があろうと、目の前にいるのはまだ成人していない少年に過ぎない。鎌子は身の内の隠微な緊張を解いたが、今度は先ほどから自分の感情がおかしなほどこの少年に振り回されていることに困惑を覚えた。

 鎌子は動揺する気持ちを打ち消して、新たな文字を木簡に記した。

「……例えば武力を使うことなく敵を征服する方法についても書かれています。十二の方法が挙げられていますが、これがその第一に挙げられている方法です」


 ――因其所喜以順其志 彼将生驕必有 好事筍能因之必能去之


「敵国の望むまま、粛々とその意志に従い敢えて争いを避けるというのがその方法です」

 書いた文章を鎌子が読み上げると、少年はまた少しの間、木簡の文字を見つめた。

「そうすれば敵将は油断して驕りが生じる。その隙を突けという話だな」

 鎌子は新鮮な驚きで雉子を見た。先ほど感じた焦りは消え失せ、自分の持つ知識を目の前にいる相手に教え、伝える喜びが鎌子の心を動かした。


「鎌子、お前はこれをなにも見ずに書いたけれど、他の部分も書けるのか」

 雉子は鎌子が六韜を記した木簡二つを手に持ちながら聞いてきた。

「はい」

「すべて憶えているのか」

「はい」

 雉子の形良い目が軽く見開かれる。驚くというより呆れたのかもしれない。鎌子が他のものを書こうと筆を再び手に取ったその時、部屋の外から声が掛けられた。


「中臣鎌子様、申し付けられました水をお持ちいたしました」

 鎌子が椅子から立ち上がって部屋の戸を開けると、外には舎人が水汲みと杯を乗せた盆を掲げていた。

 礼を言って受け取り部屋に戻ると衝立の後ろから雉子が出てきた。舎人の目から素早く姿を隠していたようだ。なぜ隠れるのか、理由を聞こうとしたが雉子に先手を越された。


「吾はそろそろ戻らなければならない。鎌子はまた来るのか?」

 雉子の顔には期待が滲んでいた。鎌子は雉子から向けられたその期待に応えられることを嬉しいと思った。

「はい」

「いつ」

「五日後ぐらいになるでしょうか」

 そうか、と雉子は破顔した。

「今日は楽しかった。吾もまた来る」

 雉子と名乗った少年は戸を細く開けて外を窺い、そしてするりと外へ出て行った。

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