第2話 いきもの

 バイト先でお世話になった先輩が亡くなってもう八年になる。法事に行っても先輩の息子さんとは話すが奥さんはあまり話さない。


 当然だろう。あくまで私たちは外の人だ。息子さんの博樹くんは大学が同じで共通の話題があり、仲も良かった。


 私が一人目の結婚相手と離婚したのが、今から九年前だった。


 会社の先輩ということもあり、外での関係とうちでの関係もそう変わらずにスイッチのオンオフも無かった。


 でもいつからかそれが寂しく思った。子どもがいる友達が羨ましくて、幾度か誘った。

 夫からは「子どもなんて作らなくても今のままでいいじゃないか」と、言われ、なんだかんだ愛されているのかと誤解ごかいした。


 程なくして不倫ふりんがわかった。彼は隠さなかった。


 数回詰なじったら、「今の関係で僕が浮気してもいいじゃないか。僕たちは結婚こそしているがビジネスライクだろ?」と、言われ少ない慰謝料いしゃりょうと共に彼名義のマンションから追い出された。



 疎遠そえんだった両親の家を頼った。どこにも頼ることできないので、嫌味を言われながら、新しい勤め先に通った。

 学生の頃にお世話にバイト先の先輩はもし今の勤め先がダメになったらウチでやとってやろうと言ってくれた。


 その気持ちが嬉しくて、何度辛いことがあっても乗り越えられた。


 八年前の冬、バイト先の先輩は大動脈解離だいどうみゃくかいりで亡くなった。お葬式に行ったがあまり覚えていない。


 形見分けの席で鬼嫁だと思っていた奥さんが優しくて、服もちゃんと買ってくれなかったというのが冗談だったことがわかった。


 服からバイト先の先輩の匂いがした。


 新しい勤め先で昇進をし、お金も貯まったところで一人暮らしをすることになったのが四年前。


 手に入れた自由は大きく、気分も乗り、仕事も順調だった。 

 そこから一年たち、二年が経った辺りからまた子どもが欲しいと言う気持ちが再燃さいねんした。


 私には時間がそう残されていない。そんなおり、好きな人が出来た。ラストチャンスだと分かっていた。


 彼は仕事の後輩で私と同じ事務職員だった。まるで中学生みたいな恋愛から始まり、一つ一つの手段を進み、結婚というところまできたのがちょうど半年前だった。


 彼に対する嫌なうわさを聞いたのはちょうどその頃だった。


 いやみだろうと思って、私は聞き流していた。しかし迷いもあった。もし噂通り、多数の女の子と遊んでいたら、他に家庭があったら、このお腹の子はどうなるのか。


 ここは先輩に会ってどうするか考えよう。


 連絡をしたら、先輩の骨は先輩の奥さんの家にあるということだ。


「北波さんはは大丈夫?」

 そう言えば猫を飼っていると言っていたな。了承したら、博樹くんは『多分思っているのと違うけど』と、つぶやいた。


 博樹くんは急いで日程を合わせるように段取りをしてくれた。


 そして今日、私は先輩のいる部屋へ向かった。


「ごめんね。今日、僕だけなんだ」

 警戒をしなかったわけではないが、こちらも急いだ。


 全てが上手くいってしまったら、上手くいかなかったら終わりなのだ。


「ペットボトルでいい? お互いお茶をいれると怖いでしょ?」

 そう言って、ペットボトルを渡してくれた。特に冷たくも無かった。


「立っているのも難だし」

 と、博樹くんは椅子をすすめてくれた。部屋には大きな猫がいた。確かに思っていたより大きい。


「うち、おりんが無いんだ。だから適当で」

 写真の先輩はこっちを見ていた。ただ柔らかい目で見ていた。ダダダと音がしたのは背後からだ。


「そうか、そうなのか。一人で来たわけじゃないんだ。先にちゃんと説明すればよかった」

「母が僕たちの実家から連れて来た。何かを一にするを」


 後ろのふすまが揺れていた。外に出ようとしないばかりに揺れるふすま、出してくれ、早く出してくれ。


「先輩、私子どもが出来ました。旦那は外で遊んでいるらしいです。それでも今日わかりました。私、生みます」


 ふすまの揺れが止まった。


「終わったか」

 私は少し安堵した。


「今のところは、念の為にこれに唾を吐いてください。これをここから出るときに玄関へ捨ててください」


「あれは」


「聞きたければ教えます」


「その何を一って」


「父の葛藤かっとうとここに元々いた何かが障ったのでしょう。もうここには来ないことをすすめます。なので、この遺影いえいの写真を持っていってやってください」


 博樹くんは一枚の写真をくれた。


「先輩は幸せでしたか?」


「僕には分かりません」

 苦々しい表情で博樹くんは言った。

「そうであって欲しいです」

 足元の猫ちゃんが唸り出した。


「もうそろそろですね。靴をいてください、いいですか? 車に十分注意して、駅まで急いでください」


「博樹くんは」


「アレを生み出した責任を」

 バンっと鳴り、ふすまが吹っ飛んだ。 

「早く」


「北見静香」

 先輩だ。先輩の声だ。


「親父の声じゃない、早く」


「幸せに生きたか。こっちで話をしよう。北見のこれまでが聞きたい」


「先輩、もちろんです」


 目を覚ますと道路に座り込んでいた。


「君、大丈夫?」

 お巡りさんに囲まれていた。


「住所は?」

 今の彼と同じ住所を告げた。お巡りさんが家まで連れて帰ってくれるらしい。


 今日はちょうどいい日だ。彼に子どもをと、粘ろう。


「今の彼氏とは長いの?」


「二年くらいですかね?」


「免許証見せてね」


「お姉さんさ、今何歳?」


「29歳です」


「ホント?」


「はい」


 お巡りさんがザワザワし始めた。


「お姉さん住所は合ってるけど、年齢が違う」

 今日、帰ったら子どもを作るんだ。


「お姉さんね、今免許証調べて貰ったら五十五歳、お酒飲んでる? 大丈夫かどうかお医者さんに見てもらお」


「子どもがお腹に」


「それも合わせて、ね」


 病院の若い医者はエコーを当てて、いないですね。と、つぶやいた。なんでそんな。

「いた形跡けいせきもありません」


 病院に行ってもお巡りさんは返してくれない。


「今ね。あなたの名前で免許証検索かけたら、あなたもう三十年前に捜索願そうさくねがい出てるの。一先ひとまず、警察署に行こうね」

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