第98話 時に喜劇でもある
迫る狼の牙。明確な命の危機に対してオレは何の抵抗もしなかった。
というより、その必要がなかった。少女の纏う赤色には殺意の黒は混じっていなかった。もし、少しでも殺意があればオレなんかより先に『吸精女郎』が反応していただろう。
事実、牙は止まった。オレが何をしたわけでもなく目の前の少女、人狼に変身した彼女が自分の意志で止めたのだ。いや、もう、目を背けることはしない。朽上理沙に転生した誰かが爪を止めたのだ。
「…………やられた。止めるってわかってたわけ?」
「君がオレを殺す気ならもっと早くやってたはずだ。それに、今の一撃には殺意がなかった。それだけわかっていれば避ける必要はない」
オレの答えに、脱力したように変身を解く朽上さん。人間の姿に戻ると洞窟の壁に背中を預けて、「あーもう!」と叫んだ。
気持ちは分かる。自分でいうのはなんだがオレに比べて、彼女は徹底していた。オレが彼女が転生者であることを確信したのも、ついさっきのことで、それまでは何の確証も得られないように立ちまわっていた。
そりゃバレたら悔しいだろう。ましてや、彼女はおそらくオレと同好の士。朽上理沙のエミュレートの上手さから見てもまず間違いない。
「で? あんたもそうなんでしょ? 人の秘密を暴いておいて自分は黙るなんて真似しないでよね」
そう言いながら、少女は人間態へと戻る。互いに警戒を解いたわけではないが、ここでやり合うほどバカじゃない。
「…………そうだ」
オレの答えに、ほくそ笑む少女。その得意げな顔も朽上理沙として何の違和感もないものだ。
……見事なもんだ。『BABEL』の登場人物に対する理解度では人後に落ちることはないと自負するこのオレだが、ここまできちんと再現できるかと言われれば正直自信がない。
そういう意味では、尊敬にも値する相手だ。だが、確かめねばならないことは山ほどある。
ただ転生者であるというだけじゃない。八人目の一件がある以上、転生者には最大限の注意の払っておかねばならない。
「やっぱりそうだと思った。あんた、どこからどう見ても蘆屋道孝じゃない」
「……耳が痛いな。ちなみに、どこらへんで分かった?」
「有能すぎる。蘆屋道孝がこの8月まで生き延びてる時点であんた、怪しすぎんのよ」
「その口ぶりからして、お互い知識があるってことだな」
しまったという顔をする朽上さん(仮)。まあ、カマかけともいえないカマかけだが、見事に引っかかってくれた。
これで互いに原作知識があることが分かった。彼女が八人目かどうかは分からないが、少なくともオレと同じ視点を持っているのは確定だ。
「しかし、こんな身近に、それも原作ヒロインの中に転生者がいるとは思ってなかったよ。正直、今も信じたくない」
「それはこっちのセリフ。蘆屋道孝のハーレムなんて悪夢そのものよ。あんた、本当に原作ファン?」
「ぐっ…………!」
なんて、なんてひどいこと言うんだ……! オレだって、オレだって、望んでこうなったわけじゃない……! オレだって……オレだって…………原作を愛してる……!
でも、気付いたらこうなってて、オレにはたくさんの責任があって……やっぱり、みんなのことも好きで………! それで……!
「な、なによ、そのこの世のありとあらゆる感情が入り混じったみたいな複雑な顔は……え? 泣いてる? マジで?」
「泣いてない……! これはオレの魂が血を流しているだけだ……!」
確かに熱いものが頬を伝っているが、これは断じて涙ではない。
強いて言うなら苦汁、あるいは辛酸そのもの。押しも押されぬオタク、世界一『BABEL』を愛しているこのオレが『本当に原作ファンか?』などという超ド級の暴言に反論できない状況にあることが悔しくて仕方がないのだ。
「な、泣いてるでしょ! わ、わかったから! あんたの事情は! 原作再現したらあんた死んじゃうもんね! ほぼ確実に!」
「……何度も! 何度も何とかしようとはしたんだ、でも、アオイもリーズもかわいいし、いつの間にか好きとか言われるし、もう裏切れなくて……!」
「き、気持ちは分かるから、ね? 一旦、落ち着いてよ。アルマロスが追ってきてるかもしれないんだしさ」
「……すまない。取り乱した」
歯を食いしばって、どうにか精神を立て直す。
そうだ、オタクとしての面目は失って久しいが、今のオレにはすべきことも、果たすべき責任もたくさんある。こんなところでメンタルクラッシュしている場合じゃない。
「…………とりあえず、互いに敵じゃないってことでいいな? やり方は違っても、君も原作が好きだからちゃんと朽上理沙として振舞ってるんだろうし」
「そうよ。当たり前じゃない。しおりた……もとい、谷崎しおりを守って、原作通りに幸せにするのがあたしの目的、いえ、宿命。こればかりは曲げられない」
そう言って、胸を張る朽上さん(仮)。その表情に一切の迷いはない。
…………なるほど。これは筋金入りだ。彼女の原作『BABEL』への愛はオレにも劣らないかもしれない。
原作『BABEL』において重要視される『宿命』という単語を使っていることからもそれは明らか。
どんな選択をしても、どんな人生を送っても避けられないその人間をその人間たらしめる因果、それがBABEL世界における『宿命』だ。
全編にわたって登場人物たちの辿る運命について何度も言及される原作『BABEL』だが、その運命さえ超越するのがこの『宿命』だ。ある意味では七人の魔人でさえ抗えない定めそのものと言ってもいい。
そして、この朽上さん(仮)はそこら辺の意味を理解して、この言葉を使っている。きちんと原作を読み込んでいないとできないことだ。
もっとも、ここまでわかったところで彼女が信用できると決まったわけじゃない。八人目の件がある限り、決して油断はできない。
「……詳しい話は移動しながらだな。まずはアルマロスからできるだけ遠ざかろう」
「それには異論ないけどさ。だったら、木の枝で拘束なんてせずに正面から聞いてくればよかったじゃない。あたし、捕まえられ損なんだけど」
「…………こっちにも事情があってな。とにかく、行くぞ。先頭は君だ」
「随分と用心深いことで。ま、変に好かれるよりはこっちも楽だけど」
そうして、再び動き出すオレたち。周囲を警戒しながらも足早に隠し通路を進んだ。
「…………君のことは何て呼べばいい?」
ふいに、そんなことが気になって口を開く。本来気にすることじゃないんだろうが、いつまでも朽上さん(仮)じゃどうにも締まらない。
一方で、こう、転生者であると分かった今ではどうにも『朽上さん』と呼ぶにはなんだか違和感がある。彼女のエミュレートは完璧だし、転生者として彼女もまた朽上理沙として認めるにやぶさかではないのだが…………こればかりはオタクの
……いや、変だな。いくらオレが宇宙1の『BABEL』ファンで、原作ヒロイン全員を愛しているとはいえ、他のヒロインたち、アオイやリーズ、最たる例では凜にはこんな感覚はなかった。どれだけ変化しても一個人として受け入れることができていた。
なのに、どうしてか、彼女に関してはそれができない。他に何かピッタリなものがある気がしてならないのだ。
それが知りたくて、益体もないことを聞いてしまったのだが……、
「別にアンタの好きに呼べばいい。てか、人前じゃ朽上さんで通してもらわないとあたしが困るっての。てか、あたしが転生者として捕まることになったら、アンタの正体もばらしてやるから」
「それはまあ、仕方がないと思うが……ってそうじゃなくてだな……なんていうか……」
「なによ。歯切れが悪い。言いたいことがあるならはっきり言って。あ、それで原作のアンタみたいになられても困るけどね」
煩悶しているオレとは対称的に、どこか吹っ切れた様子を見せる朽上さん(仮)。
まあ、気持ちは分かる。この世界においては『転生者』であることは墓場まで持って行かないといけない秘密だ。しかし、秘密というのは抱えているから苦しいもので一度露見してしまうと気が楽になるというのはよくあることだ。
「それと、しおりタンに手を出したらマジで殺すから。輪しお以外は認めないから、あたし」
「お、おう。オレもそのカップリングに文句はない。ただ……」
「ただ? なによ?」
「……いや、こういう話をするのは懐かしいな、と思ってね。そのしおりタンって呼び方も昔の知り合い、いや、同志がしてたなって思ってな」
そのカップリング、この世界だと百合カップルになるからまた別の味わいがあるよ、とは言い出せずに話題を変える。
すると、朽上さんは目の色を変えてこう言った。
「へえ、同志ねぇ。じゃあ、アンタもファンサイトの掲示板に出入りしてた口か。設定語り版とか?」
「ああ、そこにはよくいたな。その同志ともよくそこで話をした。メインはカップリング版だったけど、彼女もしおりタン、じゃなくて、谷崎さんを推してたな」
「その同志さんとは話が合いそう。まあ、こんなオタクが理沙タンになっちゃったって知ったら怒られそうだけど」
気持ちは分かる。オレだって、責任をとると決めたし、後悔はしていないが、今でも時々数々の原作ブレイクを思い出すと胸が痛む。直接、メインヒロインに、しかも、口ぶりからして推しに転生してしまった彼女の苦悩は察するに余りある。
だからこそ、こう答えるべきだ。我が同志が、遠い昔オレにそうしてくれたように。
「いや? あいつなら大丈夫だと思うよ。かなり懐深かったし。カップリングにはこだわるほうだったけど、それでも他人の解釈を否定したりはしなかった。オレもそうだ」
「そう。ますます会ってみたいわね、その同志さん。コテハンは? あったの?」
「ゴールデンひまわり。オレが唯一認めるオレと同等の愛を持つ同志だ」
瞬間、目の前の朽上さん(仮)が足を止めて振り返る。鬼火に照らされたその顔はまるで幽霊にでも出くわしたかのようだった。
「――ゲッコウさん?」
そうして、彼女は信じられないことを口にした。
ゲッコウとはオレが『BABEL』のファンサイトで使用していたハンドルネームに他ならなかった。
――――――――――
あとがき
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