第94話 其は天より堕とされたもの

 その女は黄色い瞳でこちらを見ていた。


 それだけのことなのにオレも朽上さんも動けないでいる。相変わらずなんの魔力も感じず、ただそこにいるだけの女に圧倒されていた。


「――どうした? ただの女の何を恐れる。それとも、今になってようやく己が罪を自覚したか?」


 女は説教をする司祭のように、大仰にこちらへと手を差し伸べる。そのしぐさは聖職者らしく一種の神聖ささえ感じさせた。


 こいつには何かがある。問題はその何かの正体だが、オレの脳裏には最悪の可能性がよぎっていた。


 殉教騎士団について、原作『BABEL』において詳しい描写はほとんどされていない。原作終盤に起きるある『大事件』において告発官の1人が参戦し、主人公『土御門輪』一行に敗れる、その程度の事件でしかなかった。

 その詳細や組織の概要について明らかになったのは後に発売された設定資料集でのことだ。


 中でもオレの記憶に強く焼き付いたのは、殉教騎士団の組織構成だ。

 騎士団に所属できるのは信徒の中でも信仰に厚く、またそのためなら命を捨てることを惜しまないものだけ。その上で特殊部隊並みの修練を経てようやく、入団を許されるのだ。

 そこまでふるい落とした精鋭たちの中でも一握りの優秀なものが告発官として任命される。つまり、エリートの中のエリート、狂信に近い信仰心を持ち合わせるものだけが、異端を狩る栄誉を与えられるのだ。


 だが、そんな告発官でさえ殉教騎士団における最大戦力ではない。設定資料集内の図にはさらに上位の者たちの名称とその人数だけが記されていた。

 『監察者たちグリゴリ』。それがたった20人しか存在しない一大宗教の裏の実働部隊最大の戦力の名。ある堕天使の一団の名を授けられた怪物たちの集団だ。


 こいつはおそらく、その一員。天より堕ちたる御使いの一人にして、脅威度はAクラスの怪異、つまり、『神域』の怪異に匹敵する。


 どんな戦い方をしてくるにしても、今のオレたちの手には負えない。少なくとも、今使える戦力を集結しないとお話にもならない。


「……朽上さん。直感だが、こいつはやばい」


「…………。でも、逃がしてはくれないでしょ」


「だろうね」


 ……久方ぶりに心底から緊張している。

 『変生へんじょう』したアオイ、『語り部』、『山本五郎左衛門の影』、そして、『教授』。それらの脅威と対した時と同様の恐怖に指先が震えていた。


 でも、それだけじゃない。

 オレは目の前のこの女、『殉教教会の監察者』のことを何も知らない。過去も、設定も、何もかもがわからない。


 。どのような形であれ、この世界のことを知れる。オレにとってそれは紛れもない幸福だ。

 ……やはり、オレは根っからのオタクだ。こんな場面で改めてそんな自己発見をしてしまうとは思わなかった。


『オレから仕掛ける。朽上さんは先に逃げてくれ』


 こっそり念話で朽上さんに作戦を伝える。傍受されている可能性もあるが、どうせ向こうにこっちの意図は筒抜けだろうし、問題はない。


『一人で残る気? 自己犠牲なら迷惑よ』


『いや、合理的判断だ。君の方がオレより速いし、オレの方が時間稼ぎには向いている。最速でみんなを連れて来てくれ。オレを助けたいなら、だけど』


 それに、原作ヒロインである朽上さんに命を聞きを押し付けるのはオレのオタク気が許さない。


『悩みどころね。でも、いいわ。その役目、請け負う』


 頷いてくれる朽上さん。こうは言いつつも実は仲間想いで友情に厚いのが、オレの知る朽上理沙だ。


「――密談は終わりか?」 


 こちらの念話を聞いていたかのようなタイミングで、女が言った。


 ……いや、実際に聞いていたんだろうが、それにしても、余裕綽々だ。それだけ実力差があるってことだろうが、こっちには有利に働く。


 …………まだ、は動ける。ダメージを受けている状態でかわいそうだが、後で治してやる分、もうひと働きしてもらうとしよう。


「やはり、お前たちは身共について? であれば、隠す必要もないか」


 監察者はゆっくりとこちらに向かって踏み出す。ただそれだけの動作ではあるが、強烈な圧に息が詰まる。

 殺気だ。四肢に力が満ち、礼拝堂の床が軋むたびに、本能が発する危機信号が強まっていくのが分かった。


 つまり、今、女の意識は完全にこちらに向いている。


「我が名は――」


「『穿せん』!」


 瞬間、オレの指示を受け、破損していた鉄神使『マカミ・シシオウ』両方がその形態を変える。

 無数の鉄の杭。ハリネズミのような鋭いそれらが女の両足を


 やはり、鎧を失った分、防御力は低下している。今ならば大技でなくても攻撃は通る。


「朽上さん! 走れ!」


「ええ。あんたもどうにか――」


 瞬間、光が奔った、ように見えた。


 先ほどまでオレの眼前にいた朽上さんの姿が掻き消え、何か影のようなものが現れる。

 遅れて奇妙な音が響いた。肉が弾けるような、あるいは分厚い壁が破れるような、そんな音だった。


「――っ!」


 生命危機に瀕した本能は限界以上の強化を脳へと施し、思考を高速化。一瞬にも満たない時間を極限まで引き延ばした。


 目の前にいるのは、あの監察者だ。振りかぶった右の拳、引き絞られた筋肉の隆起は噴火寸前の火山のようだった。

 同時に、何が起きたかを理解する。こいつはあの一瞬で間合いを詰め、戦闘形態に変異した朽上さんを殴り飛ばした。使


 一体どんな異能を……いや、そんなことを考えている暇はない。今は――!


 右腕が振りぬかれた。拳がうなりを上げて、迫る。戦車の突撃めいたそれは掠めただけでも致命傷だ。

 その絶命必至の一撃をオレに代わって不動塗壁が受け止める。すでに呼び出していたおかげでどうにか間に合ったが――、


「――っ!?」


 礼拝堂が揺れる。正面から打撃を受け止めた不動塗壁、その背部に隠れているオレにまで衝撃は突き抜けた。


「ゴ、ゴシュジン……」


 どうにか吹き飛ばされずに済んだが、不動塗壁のダメージは相当なものだ。

 打撃を受け止めた前面の装甲は砕けている。そのまま全体にひびが及べば、内側から崩れてしまっていただろう。


「――よくやってくれた。今は休め」


 すぐに塗壁を送還する。どうにか消滅はまぬがれたが、しばらくは呼び出せない。

 ……まさか一撃で最大の防御を失うことになるなんてな。今の塗壁の強度はの一撃にも耐えられるほどなんだが、どうやらそれでも不足らしい。


 ………ありがたいことに追撃は来ない。余裕ぶってるんだろうが、それだけの戦力差があるから、こっちには怒ることさえできない。


 朽上さんは……よかった、息はある。意識もあるが、殴られた胸部のダメージは相当なもの。大砲の弾が直撃したように抉れている。

 あれではすぐには復帰できない。戦えるのは、オレ一人になったということだ。


 だが、。不動塗壁の献身は無駄にしない。彼の立っていた場所、その地面に零れたあかが教えてくれた。


「ほう。防ぎ切ったか。優秀な壁だ。身共の一撃を防ぐことのできる術師はそうはいない。つくづく残念、異端者でなければ改宗を勧めたもしのを」


 堕天使はを確かめるように動かす。牙を剥き、こちらを見据えるその顔は獲物を弄ぶ肉食獣のようだった。

 ……やはり、一瞬ではあるが、再生に際して魔力が発生している。つまり、使


 問題は、その異能の正体。相手は殉教騎士団最高戦力の一角だ。単純な再生が異能だとは思えない。


 それに、先ほどからこいつの戦いにはこちらを殲滅する以外の意図が透けている。その真意も戦いながら確かめるしかないか。


「……そっちこそ、異能なんて使ってたら肩身が狭いんじゃないか? 今からでも棄教を勧めるよ。頑張った末に地獄に落ちるんじゃ割に合わないだろ」


「それこそありえん。身共は教理のための凶刃。地獄に落ちる? 否、我らは『堕天使』。楽園より落ち、地獄より来るもの。我らにとって死とはただあるべき場所に帰るだけのこと。すなわち、主の摂理である」


 そう言い放つ女の眼には強い光がある。嘘や偽り、一切の誤魔化しを許さぬ狂気にも等しい信念がこの女にはあった。


「――身共に与えられた名は『アルマロス』。教理を守護する『監察者グリゴリ』が一角、天使長が一人にして、『あらゆる魔術と魔女を打ち破るもの』なり」


 祈るような厳かな声で、名乗りを上げる堕天使『アルマロス』。

 

 ……オレの推察は的中していたわけだ。しかし、実際の『監察者』がこんな姿をしているとは思わなかった。

 それこそゴールデンひまわりさんにも教えてあげたいが、まずはここを生き延びないといけない。

 

 思わず口角が上がる。どうやらオレは試されているらしい。ならば、お望み通り、全身全霊で戦ってやろうじゃないか。かませ犬にも意地はあるのだ。



―――――――――― 

あとがき

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