第86話 殺人鬼

 オレと谷崎さんは薄暗い通路をゆっくりと進んだ。コンクリート床は硬く、オレたちの足音がよく響いた。


 今のところ、匂いや気配といった危険信号はないが、この先どうなるかはわからない。

 本当なら一旦、他のメンバーと合流して情報共有し、その後、この隠し通路を調査すべきなのだが、時間をかけると犯人に証拠を隠滅される可能性がある。それくらいならば、とオレと谷崎さんはこの通路に入ることを選んだのだ。


 加えて、オレ自身の予感もある。この通路の向こうには何か重大なものが待っていると、オレの直感が告げていた。


「く、暗いね……」


「ああ、それに思ったよりも長い」


 すでに3分ほどこの通路を進んで、途中で二度ほど階段を降りたりしているが、まだ通路の終着点は見えてこない。


「だ、だよね。歩いた距離的には、もう館の外には出てると思うんだけど……」


「館の外……ちょっと待ってくれ、それなら――」


 刀印を切って、『式神』を呼び出す。館の中のような抵抗感はなく、いつも通りの感覚と魔力消費で式神を呼び出すことができた。


 呼び出したのは、『鬼火おにび』。『管狐』や『犬神』のように陰陽道の使い手が最初に契約する簡易の式神の一つだ。

 普段使っている式神と違い、思考や大した能力も持たないが、大量に召還して相手にぶつければ人間一人を丸焦げにすることくらいはできる。


 それになにより、灯りとして使える。小さいうえに浮いているからこういう狭い場所でも邪魔にならないしな。


 ついでに、六占式盤も励起させて、周囲の情報を探る。相変わらず館の敷地内は探れないが、この隠し通路の位置と繋がっている場所は確認できた。


 今、オレたちがいるのは館の裏手側の森の中。もう少し進むと、終着点に行きつく。


「い、異能使えるね。少し安心……」


「そうだね。館の外だと怪異が沸く可能性があるから自衛ができるのはありがたい。でも、オレたちが異能を使えるってことは――」


使。うん、わかってる」


 真剣な表情で頷く谷崎さん。さすがは原作メインヒロイン、理解も早いし頼もしい。それに、彼女の異能ならこの異界に出現する怪異程度なら蹴散らせるだろう。


 しかし、ここは『BABEL』の世界だ。油断はできない。こっちだけが有利な状況など早々訪れてはくれない。

 

 さらにしばらく進むと、明るい開けた場所に出た。

 湿気た空気があたりを満たしている。広場の端っこの方には小さな水溜りがいくつかできていた。


 見上げると天井には、円形の穴があることが分かる。穴の直径は2メートルほどで、天然のものではなく明らかに人の手で掘られたものだ。

 その穴は地上にまで通じており、夜空に浮かぶ月までも目視することができた。


「これって枯れ井戸…………?」


 谷崎さんが言った。

 正解だ。ここは鏡月館の裏手にある枯れ井戸の底だ。もう五十年は使われていない井戸で、隠し通路は戦前に防空壕として造られたものだという設定があった。


 原作においては、犯人であった幸一郎氏は徳三郎氏を殺害後、この隠し通路を使って逃亡した。今回の事件においても同様の逃走経路が用いられた、と見るべきか。


「みたいだね。縄梯子か何かで上り下りしたんじゃないかな」


 枯れ井戸の中も一通り見回してみたが、証拠になりそうなものはない。わかったのは原作通りの場所ってことだけだ。


「……上に行かないといけないね。蘆屋君、こっちに来て」


「あ、ああ」


 谷崎さんに呼ばれて、穴の真下に移動する。すると、次の瞬間、

 に抱えられている。谷崎さんのだ。悪意がないせいか、オレの感知にも常に展開している防護結界もすり抜けられてしまった。


 谷崎さんの異能の特性もある。を見るのには普通の怪異を見るのとは少し違うコツがいる。


「ちょっ!? 谷崎さん!?」


「少し、跳ぶね。掴まってて」

 

 谷崎がそう言ったかと思うと、オレたち二人を抱えた何かがし、枯れ井戸の穴を通り抜けて夜空を舞った。


 そうして、着地。見えない何かに放り出されるが、どうにか足から着地して態勢を整えた。


 オレたちが降り立ったのは、やはり、館の裏方にある森だ。周囲は薄暗く不穏な空気が漂っていた。


 井戸の方に振り返ると谷崎さんが姿が見えなくてもわかるほど丁寧かつ慎重に地面に降ろされている。

 普通はあまりの対応の差に怒るところなんだろうが、原作での解釈通りなので腹が立つよりも感動が勝った。

 

「ご、ごめん、蘆屋君。ら、乱暴だったね……ごめん……」

 

「大丈夫。でも、次から何かするときは先に言ってくれ。心の準備がしたい」


 オレの言葉に申し訳そうに頷く谷崎さん。明らかに彼女の傍に控える見えざる怪物がこっちを睨んでいる感じがする。


 に魔力を通して、視界の波長チャンネルを切り替える。凜や盈瑠のように魔眼ほど特別な視界は持ち合わせないオレだが、意識を集中すれば見えないものを見ることもできる。


 切り替えが終わると、谷崎んの側に立つ怪物を目視できる。

 。全身が蒼い鱗に覆われており、縦長の黄色い瞳孔がこちらを睨んでいた。


 この半魚人の正体は谷崎さんに執着している。怪異としての等級はCクラス相当だが、その膂力と全身を覆う鱗の強度は侮れないものがある。加えて、成長すれば『海』の権能をも獲得する上級の怪異だ。


 というのも、この半魚人、ただの半魚人じゃない。その正体は『零落した神格』、それも本来は一つの神話体系の最高神にも匹敵する神格だ。

 そんな高位の怪異ではあるのだが、今では信仰心を失い、零落し、悪魔に貶められた挙句、創作神話における邪神の眷属にまでされてしまったことで、分霊とはいえCクラス相当にまで力を落としている。


 その名を『ダゴン』。古代メソポタミアの神であり、旧約聖書においてペリシテ人が信仰する豊穣の神だ。

 ダゴンは元来、悪神邪神の類じゃない。だが、今のダゴンは自分を貶めた人間への怒りに満ちている。今は谷崎さんを守っているが、原作では時折暴走し、周りに危害を及ぼすことさえあった。


 しかし、襲ってこないところを見ると谷崎さんはダゴンを完全に制御できている。

 素晴らしい成長だ。合同訓練の時に何度かアドバイスはしたが、しばらく見ない間に凄い成長を遂げたようだ。さすが、原作のメインヒロインは伊達じゃないな。オレ達『甲』が危機を乗り越えてきたように、『乙』のメンバーも修羅場を乗り越えてきたのだろう。


 谷崎さんの異能は『交信』と呼ばれており、詳細としては『谷崎さんを祝福したある神と交信することで、その権能と眷属を自由に行使できる』というものだ。


 谷崎さんを祝福したのはさる暗黒神話体系における『邪神』の一柱で、海を支配する大いなる古の支配者の一角。眷属も権能もその偉容に相応しいものだが、由来が由来だけにダゴンを筆頭に常に暴走の危険を孕んでいる。


 そんな不安定な異能をいかに制御し、どうやって呪いにも等しい神の祝福を本当の意味での祝福へと変えていくかが、原作におけるしおりルートの主題だった。


 その鍵を握っているのが、このダゴンだ。彼の本来の神格を知り、権能を復元することが、邪神の呪いに対抗するための第一歩であり、しおりルートの見せ場の一つでもある。


 名場面が脳裏に浮かぶ。谷崎さんの人柄と純粋さに触れ、主人公『土御門輪』も含めた人々との交流を経て、人間への情を取り戻していくダゴン。そうして、谷崎さんが邪神と対峙するその時、ダゴンは本来の神格を取り戻し、彼女の味方となって邪神を打ち払う……!

 専用BGM『神の帰還』と相まって、初見の時は感動のあまり拳を突き上げ叫んだものだ。あと、『倒して、わたしのダゴン』という谷崎さんのセリフもそこまでの経緯と相まって――、


「あ、蘆屋君? だ、大丈夫?」


「…………すまない。少し考えこんでしまったみたいだ」


 谷崎さんに心配そうにのぞき込まれて、正気を取り戻す。ダゴンまでこちらを怪訝そうな顔で見ていた。


 ……『BABEL』の思い出は語りつくせないが、今は目の前の事件に集中しないと。

 それに、今オレたちがいるのは館の外だ。。オレの勘が正しければ、そろそろ出てくるはずだ。

 

「こ、こっちに、道があるよ。どこかに通じてるみたいだけど……」


「行ってみよう。でも、その前に――」


 瞬時に、魔力を巡らせ、大量の鬼火を召喚。周辺一帯を照らし出す。方位陣と防護結界があるから多少の不意打ちは問題ないが、それでも影の中からぐさりというのは勘弁だ。


 それに、これで闇に紛れて逃げられるという事態も避けられる。これでも用心深さには定評がある。


「いい加減、出てきたらどうだ。殺人鬼」


 オレの呼びかけに応えるように、森の中から人影が姿を現す。

 黒いフードで顔を隠した、男とも女ともつかない誰か。一見すると、大人だが、ともすると子供にも、老人にも見えた。


 この何もかもが曖昧な人物こそが『殺人鬼』。この『鏡月館』に出現する唯一の怪異のお出ましだ。


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あとがき

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