第60話 今ここにある己

 人は完全に予想外のものを目にした時、悲鳴を上げたりはしない。目の前のことを脳が処理できずに、一瞬の間完全に停止するのだ。


 窓の外のアオイと目が合った瞬間のオレの状態はまさしくそれだった。なぜ、アオイが窓からぶら下がっているのかまったくもって理解できず、完全にその場で静止してしまっていた。


 しかし、数秒後、ようやく正気を取り戻したオレは慎重に窓を開けて、アオイを部屋に招き入れた。なぜそんなところにいるのかと聞くより先に、光のオタクとして真夜中の寒空の下にアオイを放置しておけなかった。


 そうして、ベッドの上に座るアオイに毛布を掛けたうえでオレは事情を聴くことにした。


「……それを私の口から言わせる気ですか?」


「ああ、今のところ、サンタの真似でもしてたのか、ステルスゲームにはまりすぎたのかの二択で迷ってる」


 でなければ、窓に張り付く理由がない。というか、どうやって屋根まで登ったんだ? 窓を開けて壁伝いに登ったにしても相当大変だぞ……?


 そんなオレの疑問に対して、アオイはたっぷり悩んでから、視線を下にして恥じらいながらこう答えた。


「………………夜這いです」


「……………………さいですか」


 一気に気が抜けて、ベッドに倒れ込む。いろいろ言いたいことはあるが、突っ込む気力も尽きてしまっていた。


「淑女協定はどうしたんだ? 抜け駆けは禁止じゃなかったのか?」


「あの協定が効力を持つのは明日の朝からです。今日はセーフだと判断しました」


「なるほど……」


 などと条約やぶりをする覇権国家の常とう句のようなことを言いだすアオイ。そういうことを何度もやっているとそのうち味方がいなくなるので注意すべきだな。

 ……まあ、どうなってもオレだけは許しちゃいそうで怖いけど。


「…………まあ、ともかくだ。見なかったことにするから、部屋に戻ってくれ。今日は、一人でいたい」


 そのうえで、真剣にアオイにそう頼む。アオイが悪いわけじゃないが、今は一人で考えていたい。そうじゃないと、またなにか知らないところで原作が壊れてしまう、そんな気がした。


「では、ここで寝るとします。左側はもらいましたよ」


 オレが止める間もないほどの速さでベッドの中に潜り込むアオイ。宣言通りベッドの左側を占領した。


「あの、人の話聞いてます?」


「聞いてますよ。聞いたからこうしているんです」


「……まったく訳が分からない」


 いまだ戸惑っているオレにアオイは「鈍い人」とため息をつく。めちゃくちゃかわいいが、やはり、理解できない。


「自分の連れ合いがさも『今しがた伝家の宝刀を質に出した』ような顔をして、一人にしてくれないかなどとナイーブなことを言っているのに、放置する妻などいません」


「…………そうか」


 例えの意味はよく理解できないが、言いたいことは分かる。確かにオレもアオイや他の原作ヒロインが落ち込んでいたら放置なんてしない。うざいくらいに付け回す。


 ということで、勝手にベッドに入って「早く来なさい」と誘ってくるアオイを無理に追い出すことはオレにはできない。


 しかしながら、アオイと同じベッドに寝ては今度こそオレの神経と理性がもたない。なので、男は床に寝る。由緒正しき対処法だ。


「寒いです。早く入りなさい」


「いや、オレは床で……」


「入りなさい。というか、もし床で寝るつもりなら私も床で寝ますよ」


「…………わかったよ」


 アオイを床で寝せるわけにはいかない。オレの理性と神経は根性で持たせる、そう覚悟を決めてベッドに入った。せめてもの抵抗にアオイに背中を向けて、背中合わせになった。


 入ったのだが……案の定、眠れない。これまでとは全く別の意味で全然眠くならない。すぐ隣にあるアオイの気配がオレの理性を一秒ごとに削りっていくかのようだった。


「……眠れないようですね」


「…………まあな」


 アオイが声を掛けてくる。彼女が寝返りをうってオレの背中を見ているのが分かった。


「そういう時は話をするといいと言いますよ。私が聞いてあげます」


「……いや、大丈夫だ」


「大丈夫じゃないでしょう。いいから話しなさい」


 話すまでは絶対に納得しない、アオイの気配はそう物語っている。


 だが、どう話せって言うんだ? オレが転生者だという秘密は明かせない。

 明かせないが……ああ、どうしてオレはこんなに弱いのだろう。気付いた時には口を開いてしまっていた。


「……例えば、例えばの話なんだが」


「ええ。例えばですね」


「例えば、ずっと昔からこうなるべきって予定があったとして、その予定通りになるのが一番いいとわかっていたとして、だ。その予定が自分のせいでめちゃくちゃになってるってわかったとして、君なら、どうする?」


 我ながら抽象的な表現だが、アオイに原作がどうこうなんて話はできない。だから、これが最大限配慮した表現なのだが……まあ、多分伝わらない。

 いや、それでいいんだ。オレなんかの頼みをアオイに聞いてもらおうなんてのが、まず間違いなんだ。


 そう、オレなんてもんは一人でうじうじ悩んでいるのがお似合いで――、


「随分と都合のいい予定ですね。きっと碌なもんじゃないですよ、そんなの」


「…………いや、そう悪くないんだぞ」


 原作ヒロインが原作を批判してる。それをオレが擁護している。もう意味不明だが、誰も原作を庇ってやれない以上、オレが原作を守護まもるしかないのだ。


「で、その予定が貴方のせいで無茶苦茶というわけですか。まあ、貴方は人の予定をかき乱すのが得意ですからね。仕方ないでしょう」


「別にオレのせいとは言ってないんだが……まあ、そういっているようなものか……」


「だいたい、私に隠し事をしようとするのが土台無理なのです。で、貴方のせいでたいそうな予定がめちゃくちゃになっていると、それで落ち込んでいるわけですか」


「…………まあ、端的に言うとそんな感じだ」


 まあ、いろいろ端折ってはいるが、これ以上ない分かりやすい要約もそうない。

 といっても、余計にオレの悩みが解決の難しいものになった気がするだけだが。


「貴方のことです。そのせいで不幸になった人がいるんじゃないかとか、いっそ自分なんていないほうがいいんじゃないかとか、そんな感じのことを考えていたんでしょうね」


「…………マジか」


 完璧に煩悶を言い当てられて、思わず本音が漏れた。

 完全に思考パターンを読まれている。原作というある意味、何もかもが赤裸々な媒体を通じてアオイのことを知っているオレでさえ彼女のことを完全には理解できていないのに、アオイはオレ以上の解像度でオレのことを理解している。

 

 ……なんでだ? オレはそんなにわかりやすいのか?


「愛です。愛があるから相手を知ろうとし、相手を理解したいと思うのです。それだけの話ですよ」


 あまりの衝撃に言葉が出なかった。こんなセリフは原作にもない。

 なのに、オレはこのセリフを知っている。だってこれはオレの言葉だ。オレが『BABEL』のことを誰よりも詳しくなろうと思った理由だ。

 

 それをどうして、アオイが――、


「愛とはそういうものです。人によって定義は違うかもしれませんが、少なくとも私にとってはそうなのです」


「……そうか」


 何も言えなくなって瞼をつぶる。気付かない間に涙がこぼれていた。

 ……なるほど。誰かに理解されるってのは嬉しいものなのか。人生2回目なのに俺はこんなことさえ知らなかったようだ。


「それと、貴方の悩みですが……よくある悩みですね。心配して損しました」


 今度は別の意味で何も言えなくなる。慰めを期待していたわけじゃないが、ここまでバッサリ斬られると二の句が継げない。


「だって、誰も自分の行動や存在がどんな影響を及ぼすかなんてわかりません。逆もしかりです。自分がいない方が上手くいったのか、上手くいかなかったのかなんて知りようがない。いえ、仮に知る方法があったとして、本当にその通りになるかなんて誰にも言い切ることはできない。


 アオイが言うことはわかる。


 、あるいはただの噂が現実をゆがめて異界を作り出すように、この世界ではどんな小さなことでも大きな変化を呼ぶ。

 だから、この世界では誰のせいでなにが起きたかなんていう因果関係を明らかにすることは難しい。


 でも、オレには原作知識がある。確定していた未来の知識がある以上、因果関係は明らか。責はオレにある。


「それに、もし本当にその予定とやらが壊れたのが貴方のせいだとして、。貴方に罪があるとして、貴方が救ったものがないとでも? 少なくとも私は貴方に救われました。業腹ですが、貴方の周りにいる者は皆そうです。これを否定することは、私が許しません。他にどんな運命があったのだとしても、それがどれだけ素晴らしいものだったとしても、この私を救ったのは貴方なのですから」


 アオイの言葉がオレの部屋に響く。今度こそ堪えきれない涙がベッドを濡らす。


 だって、こんなのはずるい。オレが欲しい言葉を、オレが望んでいるくせに望んではいけないと思っていた言葉をこんなに簡単に言われたら、もうどうしようもないじゃないか。

 オレの行動で自分が救われたなんて、誰かが救われたなんて言われたら、もう自分を否定できなくなってしまう。


「生まれることも、生きることも罪ではないはずです。ただそこには結果があるだけ。であれば、その結果に責任をとるのが人間です。貴方は貴方の思うように生き、その責任をとればいい。それだけのよくある話、人間は皆、そうやって生きて死ぬものです」


 アオイらしい言葉、アオイらしい人生観だ。


 原作においても彼女は鬼神の呪いのせいで自分は長くは生きないものだと覚悟して生きてきた。

 だから、アオイは短くとも悔いのない生き方を選んだ。その生き方がこの人生観を結実させた。


 好きに生きて、好きに死ぬ。それがどんな結果を招いたとしてもその責任をとればいいのだとアオイは言っているのだ。


「オレの責任……」


「ええ。とりあえずは私を救った責任をとってもらいましょうか」


 そう言ってオレの背中に抱き着いてくるアオイ。柔らかな熱に体だけじゃなくて心まで温かくなった。


「…………オレにそんな価値があるのか?」


「くだらない質問ですね。私より強く、私をよく理解し、私のことを想っている。そんな貴方に価値がないなんてことありえるとでも?」


「…………ありがとう。その、なにもかも」


 憧れの相手に、アオイにそんな言葉を言わせてしまった自分の情けなさを嚙みしめながら、アオイの手に触れた。

 その温かさと感触を自分の中に刻み込む。いつでもどんな時でも思い出せるように。


「……なあ、このまま眠ってもいいかな?」


「今日は甘えん坊ですね。でも、許します。御褒美です」


 アオイに背中から抱かれたまま、気付いた時にはオレは瞼を閉じる。

 この瞬間の何もかもが間違いかもしれない。でも、今は、今だけはこの幸福に身をゆだねっていたかった。


 そのあと、オレはいつの間にか眠りに落ちていた。理性がもつか心配だったが、もうそれどころじゃないくらいに疲れ切っていたらしく、そのまま朝までぐっすり寝ていた。


 目覚めるとアオイはいなかった。ただベッドに残る彼女の熱だけが昨夜の出来事を現実だと教えてくれていた。


 罪も責任も消えたわけじゃない。オレは変わらずかませ犬の蘆屋道孝で、どうしようもない光のオタクで、間違うこともあるのだろう。それでも、今はこの温もりを、アオイの言葉こころを信じたい。

 最期まで光のオタクとして、兄として、原作とは違う蘆屋道孝オレとして生きる。愚かだとしても、間違っていても、これがオレにできる責任の取り方だ。


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