第35話 ファーストキス・アンビバレント
結果から言うと、オレは死なずに済んだ。
実際、アオイは刀を抜く寸前までいっていたが、彩芽が何かを耳打ちするとそのあとなぜか矛を収めてくれた。
しかし、命が助かったことに安堵する間もなく、煩悩に負けかけたオレにはあるペナルティが課された。そのペナルティの内容とは――、
「――あぁん……私の勘所を理解しているようで……ふふ、これは夫婦関係も安泰ですね。貴方が床上手とは思いませんでした」
艶っぽいアオイの声が耳朶を叩く。一瞬で理性が沸騰しそうになるが、どうにか堪える。
白い砂浜、大きなビーチパラソル、オレの両手の先にあるのは、アオイの背中。そのくびれの部分だ。
危なかった。万が一、手を滑らしたらその瞬間に
「……たぶんそれ男には使わないぞ」
引き締まったウエストは筋肉のしなやかさと柔肌の瑞々しさを両立しており、魅力的な女体を追求していくとここに行きつくのではないかと思えるほどにこちらの熱を掻き立てた。
「何を止まっているんですか? まだ終わってませんよ」
「お、おう……」
言われて、追加のクリームを両手に絞る。目の前にはシミ一つない白い背中。まるで大理石から削り出したかのように完璧だ。
そう、オレはそんな極上の女体に、日焼け止めクリームを塗らされている。しかも、相手はただの地球一の美女じゃない、あの山縣アオイなのだ。
つまり、オレの最推し、MYグレイテイストヒロインにオレは日焼け止めクリームを塗らなきゃいけないのだ。
どこがペナルティだって言われそうだが、このクリーム
超美少女であるアオイに日焼け止めクリームを塗りつつ、絶対にやましいことはしない。それがオレに課された真のペナルティなのだ。
これはつらい。光のオタクであるオレには究極の拷問と言ってもいい。
だって、あの山縣アオイがほとんど全裸で目の前にいて、実際に触れてもいるのに、それ以上のことはできないのだ。
男としても股間がきついが、オタクとしては解釈違いがしんどい。
だってそうだろ。死ぬほど手を出したいのに、手を出すことは光のオタクとしての死を意味するのだから。
ちなみに、凜は秘密がとうの昔にバレていたことを知って放心状態になって寝込んでいる。首元に掛けられているのは、『わたしは抜け駆けをしようとした卑しい女です』という看板。哀れ。
他の二人は彩芽と一緒に別の場所にいる。リーズあたりはあとでいろいろ言ってきそうだが、重要なのは今オレがある意味最大の危機を迎えていることだ。
「手、止まってますよ」
「お、おう。で、でも、背中はほとんど塗り終わったぞ? そ、そろそろ、終わりに……」
「では、前ですね」
「……無茶言うなよ」
オレの制止を無視して、アオイは無造作に体勢を入れ替える。ビキニのホックを外しているせいでなにもかもが露になるが、どうにか直前で目を瞑った。
……そういうことにしておく。いろいろピンクのあれとか見えたけど。それを認めたらオレは光のオタクの名を捨てなきゃいけなくなる。
それは……できない! 血の涙を流すような苦悩と共に、オレはそう自分に言い聞かせた。
「見えました?」
「見てない」
「……そういうことにしておいてあげましょう。ちゃんと反応しているようですし」
……女の子がそういうはしたないこと言うもんじゃありません。オレがちょっと前かがみなこととこの状況は関係ないんだからね! 勘違いしないでよね!
「では、足からお願いします。最近、疲れが溜まってるのでマッサージもついでにやってくれると嬉しいですよ」
「……尻に敷かれてるな、オレ」
「おや、ようやく夫婦としての関係性を認める気になりましたか」
どうやら、アオイの中ではオレが尻に敷かれるのは確定しているらしい。
……ある意味役得か、そう観念して奉仕作業に戻る。慎重にアオイの足、そのふくらはぎに触れた。
柔らかい。美しくはあるが鍛えこんであるのでついつい硬いものだと思い込んでいたが、指が沈み込みそうなほどに柔軟だ。
すごい良い揉み心地だ。いつまでも揉んでられそう。
「そういや、彩芽から何を言われたんだ?」
気を紛らわすため話を振ってみる。アオイがあの場面で矛を収めるなんて、
「別に……ただ、100回に1回くらいは夫の粗相を赦した方が好感度が高まると助言を受けたまでです。かわいい義妹の言葉ですからね、私も聞く耳はあります。次はありませんが」
「……なるほど」
彩芽が言いそうなことではある。あいつは本家のクソどもの中で育ったこともあってか、立ち回りが上手い。
それがいいことかと言われると、正直、頷けない。あいつはまだ15歳だ。もっとわがままでいい。
「……っ。ちょっと……揉みすぎです……」
「す、すまん。あんまりいい感触なもんで……」
「そ、そうですか。安心しました」
頬を赤らめて、他所を向くアオイ。彼女にしては妙な反応だ。
……反撃のチャンスか? これはペナルティではあるが、一方的に、やられっぱなしってのは性に合わない。
「何に安心したんだ?」
「別に……どうでもいいでしょう」
「隠し事はなしって言ってたのはどこの誰だったかな」
「うぐ……」
アオイは基本的に真面目なので、自分の言葉を持ち出されると弱い。そこら辺を突かせてもらった。
「……私は、一振りの刀です。そうあるべしと育てられ、そうあるべく努力してきました。ですから、その……」
「その?」
「普通の男女の機微というものは分かりません。いまとて仕入れた知識の真似事をしているだけです。どこまで行っても私は鬼の娘、普通の女にはなれません」
山縣アオイが悩んでいる。それを見過ごしては光のオタクの名折れだ。
足を離して、その場に
「ですから、不安ではあったのです。こんな武骨な私を、貴方は内心では嫌っているのではない、かと……いえ、違いますね。私を恐れているのではないか、そう恐怖していました」
言いたいことはよくわかる。ただアオイがヤンデレとかそういう話ではなく、オレは実際に彼女が『鬼』へと変生するのを見ている。
あれは一度きりの話じゃない。山縣アオイの人生とは切っても切り離せない現象だ。まともな神経をしてれば、いつ大量破壊兵器になるとも知れない相手に恐怖しない方がおかしい。
だが、それだけの話だ。オレのオタクとしての想いはそんな恐怖なんぞはるかに凌駕している。
「まあ、今更だな。怖いのは怖いが、人間関係なんてそんなもんだ。一切恐怖心のない関係なんてむしろ不健全だ」
「……本気で言ってますか、それ」
「殺されるかもしれない、は極端な例だが、嫌われるかもしれないとか、軽蔑されるかもとか、怒られるかもとかはどんな人間関係にもつきものだ。こいつは異能者に限った話じゃないぞ、一般社会も含めて人間関係にはよくある話だ。だから、人間関係なんてのは基本的に、そういう恐怖より相手と一緒にいたいと思う気持ちが強いから続くもんなのさ」
逆に言えば、-が+を上回るようならそんな人間関係は断ち切るほうが健全だということになるのだが、しがらみやらなんやらでそうはいかないのが現実だ。
オレもそうだ。オタクとしての心はオレを縛っているが、この心がなければオレはオレじゃなくなる。すでに転生したオレにとってこの心がオレがオレである唯一の証拠だ。
「…………まあ、貴方の様子を見れば納得ですが。私にも、その、魅力を感じてくれているようですし……無理して確かめた甲斐はありました」
「やたら距離が近いと思ったのはそのせいか……」
……かわいい。オレがちゃんと自分を魅力的だと思っているか不安だったからあんなに積極的かつヤンデレムーブしてたのか。
いかん、性欲とは全く別の意味でぐっときた。この
「……君が魅力的かそうじゃないかと聞かれれば、もちろん魅力的だ。男どころか女でも君を見れば三度は振り返る、それくらい魅力的だ」
「…………今気づいたのですが、褒められるのは悪くないですね。もっとこう、具体的にお願いします」
「スタイル抜群。才色兼備。天下無双」
「最後の一つが特にいいですね」
独特のセンスは横に置いておくとして、アオイが超級の美少女であることは揺るがしようのない事実だ。
なにせメインヒロイン。ファンという意味では10万人、いや、100万人単位でいるぞ。ほぼ全員、オタクだけど。
「あと、あれだ。髪がいい」
「……髪ですか」
「ああ、艶のある黒髪、しかも長い。すばらしい。そのままの君でいてくれ」
いかん、つい、
だが、これだけは言っておきたい。結局、だれが何を言おうが黒髪ロングこそが至高だ。
この属性があるだけで、オレの中ではすでに200点が加算される。ちなみに、100点満点中200点だ。
「…………では、髪は伸ばしておきましょう、うん」
右手で黒髪を梳きながら、アオイは俯く。
一瞬地雷を踏み抜いたかと思ったが、すぐに違うと分かる。アオイは耳まで真っ赤になっていた。
照れてる。こやつ照れている。裸同然の格好なのに髪の毛のことを褒められたことの方に照れてる。
かわいい、かわいすぎる。これがメインヒロインか。
「まあ、ともかく、これで安心してくれたんならオレもうれしいよ。いい機会だ、オレたちは許嫁だが、どうだろうか、とりあえず互いを知るところから再スタートというのもいいんじゃないか? ほら、プラトニックな関係性だからこそ得られる栄養分みたいなものがあるじゃないか? オレたちも一度距離感を空けて、そういう関係を試すのも――」
「いえ、そんな面倒なことはしませんが」
打算混じりのオレの言葉に正気に返ったのか、アオイはきっぱりとそう言った
……やはりダメか。
アオイのことは登場人物としても、女性としても魅力的に思っているが、オレのようなかませ犬が深くかかわりすぎれば互いのためにならない。そう思って適切な距離をとろうとしているが、最近はうまくいったためしがない。
「そもそも、結婚してから互いを知るほうが歴史は長いのです。そこは問題ありません。貴方が私だけでなく全員に敷いている一線についてもこちらから飛び越えればいいだけの話。ですが――」
「――っ!」
一体どうやったのか、瞬く間にアオイに組み伏せられ、マウントポジションを奪われる。
オレの胸板に、柔らかな感触が乗っかる。そのまま、凄まじい力で抑え込まれた。
アオイも興奮しているのか、心臓が早鐘を打っている。
互いの心拍が交わるような感覚のあと、何もかもが一つに溶け合っていくような錯覚に陥る。
交感状態だ。魔術的にはよくある現象ではあるが、経験するのは初めてだ。
「気が多すぎです。言葉だけでは安心できないので、少しばかり強引に唾をつけておくとしましょう。幸い、貴方も私を憎からず思ってくれていると確認できたので、心置きなくやれます」
「ま、待て! その、あれだ! こんな場所でいいのか!? 雰囲気もへったくれもないぞ!?」
「重要なのはどこで、ではなく、誰と、です。そうでしょう?」
そのままアオイの顔がゆっくりと近づいてくる。互いの鼻先がかすかに触れた。
完全なる貞操の危機。一番の問題はオレ自身が抵抗しようとは全く思えないことだ。もう何とでもなれ、この幸福を逃がすなと体と心が
それではいかん、とオレの中の光のオタクが必死に抵抗を続けているが、若干、戦意が薄い。
仕方がない。相手はあの山縣アオイなのだ。オレの中のオタクの半分はオレの人生の愛そのものともいえる女性を前に完全降伏していた。
観念して目ると、瑞々しく温かい感触がオレの唇に重なる。多幸感に脳の奥が痺れるようだった。
そのまま惚けていると、長い舌がオレの口の中に侵入してくる。艶かしく、暖かい感触のそれはオレの舌を捉えると、存分に舐った。
数十秒後、唇が離れた。2人の間に唾液の橋が掛かる。それほど濃厚なファーストキスだった。
「――ふふ、これで一番乗り、ですね」
妖艶に笑うアオイ。唇についた唾を舌で舐めとる様など原作の一枚絵を上回る絵力があった。
そのまま彼女はオレにとどめを刺さないままに去っていった。さながら勝者の凱旋だ。今ここから先を迫られたら絶対拒否できなかった。
こうして、オレの今世でのファーストキスは山縣アオイに奪われた。
光のオタクとしてはあるまじきこと、しかし、オレの心臓はキュンキュンにときめいている。この原作ヒロイン、エロ可愛いすぎる。
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