第250話 光神の帰還
六国が入り乱れ、戦乱の時代を迎えようとしていたアスガルド大陸に一隻の船が向かっていた。
それは船というにはあまりにも奇妙で、むしろ巨大な船の形をした氷塊であると表現するのが適切であるかもしれなかった。
水魔法と氷魔法を駆使して進むこの船に乗っているのは、ビレイグ率いるヴァルキュリャの一団だ。
暗黒世界の海の荒れ狂う漆黒の荒波を越え、襲い来る海魔を退けての決死の航海。
それは神たる力を持つビレイグたちにとってさえ、容易ならざるものであった。
光の結界に守られたアスガルド大陸とは異なり、この暗黒世界は、イルヴァースの造物主の一柱にして、その支配権を握った巨神ヨートゥンの影響を今なお色濃く残している。
魔物はアスガルド大陸に生息するものよりも強い個体が多く、中には、もはや神の領域に迫るような能力と知性を兼ね備えたものも存在する。
天空の支配者であり、その眷属たちと共に暗黒世界の最大の脅威のひとつになっている。
それゆえに空を飛んでいくわけにもいかず、比較的安全な海路を行くことになったのだった。
「
「はいはい、ビレイグ様、その愚痴はもう何百回も聞きました。いい加減に同じことを何度も言うのはおやめになってください。ほら、もう
糸巻き棒を手にした少女ヴォルヴァが呆れたように指さした先には、確かに暗黒世界と人間の住むアスガルドを区分けする光結界が美しく輝く薄いヴェールのように大空から垂れさがっている。
だが、かつてこの結界を越えて暗黒世界に向かった時よりも、その輝きは鈍り、一層、その効力は弱まりつつあるように見えた。
この光結界は、かつて巨神ヨートゥンが一番新たな種として創造した人間を養殖するための場であるアスガルドを保全するために設けた、いわば囲いだった。
いや、人間だけではない。
暗黒世界の魔どもに劣る力しか持たない新世紀の神々の保護の目的もあったのだ。
巨神ヨートゥンが滅した影響で、光結界は徐々にその輝きを失いつつある。
それがいつになるのかはわからないが、そう遠くない未来。
光結界は崩れ、暗黒世界の闇にアスガルドが呑み込まれる日がきっと来る。
その危機を回避するために、ビレイグはヴァルキュリャたちを連れ、暗黒世界の闇を払うべく旅立ったのだが、それもほぼ徒労に終わってしまった。
ビレイグは、巨神ヨートゥンの捕食を唯一逃れた原初巨神のうちの一柱、若き神々にとっても伝説の存在であるユッグドラシルのもとを訪れ、その力を借りようとしたのだが、それは叶わなかった。
ユッグドラシルは、巨神ヨートゥンに喰われまいと世界を見下ろすような巨木にその身を変え、大地を人質にする形で深く根を張り、それを免れたのだが、永い年月でその自我は薄れ、樹木そのものに成り果てたのか、もはや意思の疎通が困難になってしまっていた。
それでやむなく、自力で暗黒大陸の脅威を駆逐しようと試みたのであるが、イルヴァースを覆う闇は考えていたよりも強大であった。
闇を遠ざける加護を持つ
過酷ではあるが、かろうじて人間や神々が移住できる環境には整ったと自負はしている。
ビレイグたちを乗せた氷の船が、光結界の内側に侵入し、それから二日ほどが経った日の夜。
思わぬ闖入者が、突然、広い氷のデッキの上に姿を現した。
その闖入者にヴァルキュリャたちは即座に身構え、最大限の警戒を表した。
「ロ・キ!」
この場にいるヴァルキュリャの中では最も白兵戦に長けたスリマが、今にも飛びかかりそうな様子だったが、ビレイグはその手に持っていた杖を愛槍グングニルに変え、その動きを制した。
「やあやあ、お懐かしい顔がいくつも!そして、
「貴様、よくもぬけぬけと……」
ビレイグの背後のヒルドルが語気に怒りを込めて、吐き捨てたが主であるビレイグは、顔色一つ変えず飄々とした様子で笑みを浮かべた。
「わざわざ出迎えに来てくれたのか、ロ・キよ。そして、お前は相変わらず成長しとらんようだな。人をからかうこと、
一瞬の気まずい沈黙があり、それを同時に両者が失笑を漏らすことで打ち破る。
「思ったより、元気そうで何よりだ。それにもっと俺に腹を立てていると思っていたよ。この千年にも及ぶ年月……。さぞ、俺が憎かっただろう。他の魔法神たちと同様にな」
「ははっ、お前のようにわれは暇ではない。暗黒世界の魔たちと戦いに明け暮れる日々。お前のことなどもうすっかり忘れておったぞ。イルヴァースを追放され、今日まで、どこで何をしておった?」
「はは、気になるか? 俺の方も苦労したよ。
「手土産……だと?」
「そうさ、きっとアスガルドに戻ったら、さしものお前も驚くことだろう」
「もったいぶらずに話せ。お前、われの居ぬ間に何をした? なぜ、エインヘリヤルたちが世に放たれる事態になっておる?わが血を受け継ぐオルドの者たち、そして光の魔法契約者たちが相次いで命を失ったのはお前の仕業か? 答えろ、ロ・キ。答えるのだ!」
「やはり……血族を殺されては、心中穏やかではいられなかったようだな。いいだろう。教えてやる。ほかならぬ義兄殿の頼みだからな。今、アスガルドに災厄をもたらしている者の名は、ショウゾウ。ヨートゥン神の力を宿し、光王家をはじめとしたオルドの民を滅ぼさんとしている。奴こそが現世における混沌の元凶であり、今やノルディアスの闇の支配者でもある。おっと、勘違いするなよ。俺もそいつには辛酸を舐めさせられているんだ。関わっちゃいない。手土産っていうのは、そうだな、何と言ったらいいか、そう! お前の可愛いエインヘリヤルちゃんたちが暴走しないように自制を促したことと、もうひとつ。これはお前の喜ぶ顔が見たいから、あとでお披露目することにしよう。決して悪いことではない。本当だぞ」
「相変わらず、よくしゃべる口だ。だが、今しがた、聞き捨てならぬことを言ったな。ショウゾウ……、それにヨートゥン神の力を宿しているだと? 」
ビレイグは、ショウゾウという名を聞き、あの不意におこった偶然の邂逅を思い出していた。
うたたねにみる夢にしては、妙に現実じみたあの不可思議な夢を。
その夢で出会った若者。
その名も確かショウゾウであった。
「そうだ。あれは紛れもなく巨神の力だった。すべてを奪い、己が力と変える忌まわしいあの力だ」
「……ロ・キ」
「なんだ?」
「なぜ、それを
「なぜだと? お前が答えろと強いたのではないか!その見た目同様に、ついに
「……巨神ヨートゥンとの戦が終結した後、お前が魔法神たちに甘言を弄して、われを襲わせたこと、とっくに見抜いておる。おそらくは共倒れを狙ったのだろうが、事前にそれを察知していたわれはその危難を退けることができた」
「な、何を言う。
ロ・キは大げさなほど、身振り手振りし、無実を訴える。
「黙って聞け。巨神ヨートゥンと我らの間に亀裂を生じさせたのも、神同士を仲たがいさせたのも全部、おまえの企みだ。その全容に気が付いたときにはもう取り返しのつかないことになっていたわけだが、もはやお前のやり口は把握しているぞ。一体、今回は何を画策しておる?」
「……人の親切に対して、なんという云い様だ。正直、心が傷ついたぜ。俺とお前の関係もこれまでかもな。おっかない顔をして、睨みつけてくるその娘っ子どももそうだが、あんたにもほとほと嫌気がさしてきたぜ。久しぶりの再会を祝して、杯を交わそうと、上等な酒を持参してきたんだが、もう帰ることにしよう。あばよ」
ロ・キは
「待て!」
スリマがその手に持つ
そしてビレイグは、遠ざかってゆくロ・キの姿を黙って見つめつつ、その灰色がかった長い顎髭を撫でた。
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