第233話 魔の異変
一万近い兵数をもつヴァナフェイム軍がオースレンの地のすぐ近くまで迫っているという報告にもかかわらず、デルロス率いる三百を切り離すのはまさしく自殺行為であるという意見がギヨーム麾下の兵士たちから相次いでいたのだが、そうであるにもかかわらず、ショウゾウがそれを強行させたのにはいくつかの狙いがあった。
自領の防衛のみに気をかけ、やたら腰が重い領主貴族たちを動かすにはやはり光王家の、いやノルディアス王国の正規軍たる存在が必要であり、デルロスの三百は規模、兵の質ともに不十分すぎるものであったのだ。
各都市を巡り、王都から離散していた兵や部将たちを再集合させ、一軍となす。
そうすることで光王たる者の権威は未だ健在であるということを侵略者たちに見せつける必要があったのだ。
人口が一極集中していた王都からの避難民は十数万人にも及び、その中には王領に属していた正規軍一万五千もそのまま健在であったはずなのだ。
そのすべてと言わないまでもその半数ほどが集められれば、形にはなる。
幸か不幸か、陥落させるべき王都はすでに≪
拠点防衛とノルディアス王国軍の再構築のため、急ぐ必要がある。
そして、オースレンを離れて行動する遊軍のような動きをするこの部隊に、≪
≪光の使徒≫の動向は相変わらず不気味なほどに静かで、ショウゾウはその意図も目的も測れずにいたのだ。
≪光の使徒≫らとロ・キの間には何らかの繋がりややり取りがあることは、王都近郊を見張らせていた≪眼魔≫ベリメールの報告により明らかになっている。
もしデルロスという餌に釣られて何体か誘き出されてくれるのであれば生け捕りにし、そのことを含めてあれこれ尋問したいものだとショウゾウは考えていた。
あとはデルロスの手腕と人材としての価値の見定めであろうか。
これを好機ととらえ、いっその事、ショウゾウたちから独立できるくらいの兵力を集め、自分たちの力で国土を守るのだという気概を見せて欲しいところだった。
ワールベリが陥落し、ヴィスボリ領が侵攻を受けている中、そこが抜かれれば次はもう領王ギヨームのものとなった旧グリュミオール領である。
オースレンは寡兵であり、精兵五百に急造の民兵を加えても、到底、万からなる敵軍勢には、質、量、共に遠く及ばない。
この状態で両軍をぶつけるのは、如何なる策を用いたとて、ただの人命の浪費に過ぎない。
最悪の場合は、自分と魔人数名で追い返すほかは無いとショウゾウは覚悟を決めていたのだが、ここで思わぬ事態が、ヴァナフェイム王国の軍勢の進軍を阻むことになったのである。
その頃、東から進軍を続けるヴァナフェイムの国王マグヌス四世は、自軍の破竹の勢いに酔っていた。
当初は、ノルディアス王国の数度の外征によって失った旧領の回復のみを目標に掲げていたのだが、敵軍のあまりの手ごたえの無さと動きの鈍さに、
陣中に、近くオースレンで新たな光王が誕生したらしいという情報がもたらされても、「こうなれば、もはやノルディアス王国は死に体。光王など何するものぞ」と鼻息を荒くし、慎重論を説く家臣たちを歯牙にもかけようとしなかった。
「よいか、お前たち。ローゲンも言っていたであろう。太古の昔より我らを脅かしてきた≪
マグヌス四世が引き合いに出したローゲンは、何か
伝手ある領主貴族の調略を目的とするものだということで許可したのだが、ローゲンが傍らにいなくとも今のところ何の不都合も起きていないため、その行先のことなど、今はすっかりマグヌス四世の頭から抜けてしまっていた。
「……その通りではありますが、ここはローゲン殿の帰りを待って進退の是非を問うべきかと。新光王には≪
「まだ言うか! そんなものは流言に決まっておる。もし、≪
マグヌス四世の言葉は如何なる反論をもってしてもその勢いを留めることは叶わず、このまま軍議は終結となった。
ヴィスボリ男爵が籠もる城の包囲は継続したまま、軍を二手に分けてオースレンを陥落させる。そう決定した。
日が暮れて、翌朝の進発のための準備が行われる中、ようやくローゲンに成りすましているロ・キがヴァナフェイム軍に帰陣した。
篝火の照らす陣中を跳ねるような軽やかな足取りで、マグヌス四世がいるはずの天幕に向かって
ヴァナフェイム軍はロ・キの忠告を守り、その進路を王都には向けなかったが、予想外の快進撃で戦線を広げすぎていた。
危うくオースレンにまで至る所で、あと少し戻って来るのが遅れたならば、面倒なことになるところであったと内心、胸を撫で下ろしていた。
それと同時に、あのショウゾウも案外、大したことは無いなと少し安心したのも本音である。
所詮はただの人間。
ヨートゥン神の力の根源であるスキル≪オールドマン≫を与え、おまけとして迷宮の守護者たる闇の眷属たちも好きにさせているというのに、この間に解放した迷宮はわずか一つだけ。
人間の社会にいらぬ節介を焼くばかりで、ロ・キの目を見張らせるような成果は全く上げられないでいる。
だが、まあいい。
こうして愚図愚図していてくれた方が、自分としても有難い面があるのだ。
というのも、ロ・キ自身、スキル≪オールドマン≫の力の全容については把握できていない上に、あの迷宮の守護者たちについても彼らが如何なる存在であるのか、ショウゾウの傍らで≪
何もかもが未知の状況で、刻々と変化する事態を制御し、自分が望む方向に向かわせるにはあまり急激な進展は諸刃の剣となってしまう。
焦ることはない。
この機を迎えるのに、千年以上もの時を待たされたのだ。
ロ・キは逸るおのれの心にそう言いきかせ続けている。
神が死に、その骸の断片が迷宮化するなどという現象は悠久ともいえる神々の歴史の中でも初めてのことであった。
この現象が何であったのか、その答えを知る者は誰もいない。
ロ・キにとって、まるでノルディアスの広大な大地に打ち込まれた杭のように、地下深くまで突き刺さった二百六の迷宮は、憎き父神を思い出させる目障りな遺物であって、しかも彼の真の目論見を妨げるものでもある。
その迷宮群を消滅させることができるのも、ヨートゥン神の力を有する者――すなわちあのショウゾウでなければならないのも苛立ちを募らせる原因だ。
目障りな老いぼれをようやく殺したのに、また老いぼれに煩わされることになるとは……。
ヨートゥン神の力を納め、なおかつそれに適応できる人間を見つけ出すのに、どれだけの次元、世界を探し回ることになったことか。
多大な忍耐と力の浪費を強いられ、神としてもずいぶんと弱体化させられてしまった。
こうしたことを考えていると、気が滅入り、いつしか弾むような足取りも重くなってくる。
マグヌス四世の天幕まであと少しというところで、いきなり陣中のあちらこちらから悲鳴や絶叫が上がり始めた。
「敵襲! 敵襲!」
「怪物どもの襲撃だ!」
遅れて、危険を知らせる軍笛と注意喚起の声が辺りに響き渡る。
大地を蹴る軍靴。金属が何か固い物とぶつかり合う音。
そして、魔物たちの吠え声。
にわかに辺りが騒然となり、剣呑な雰囲気になった。
「おいおい、いきなり何事だよ。何が起こってるんだ?」
幕舎の陰から現れた、四つ足の黒い獣がロ・キを目掛けて飛び掛かってきた。
ロ・キはそれを身を翻して躱し、今度はお返しとばかりに、土魔法の≪
絶命し、地上に横たわったその黒い物を確認すると、それは通常のものよりも一回りは大きい、赤い目をした狼のような姿の魔物だった。
今度は上空から、空気を引き裂くような音が聞こえて、身をかがめながらその落下物の行き先を見ると、マグヌス四世の天幕に直撃した。
天幕はひとたまりもなく倒壊し、そこに張られた布は瞬く間に炎上した。
そして、そこに姿を現したのは全身に炎を纏う巨大な怪鳥だった。
迷宮に足を踏み入れることができないロ・キには知る由も無いが、この怪鳥はショウゾウが解放したとある迷宮の中ボスモンスターだった。
「なんて、こった。あれはたぶん、……死んだだろ」
周囲を見渡すと戦闘は本格化し始め、おびただしい数の様々な種類の魔物たちがヴァナフェイム軍の兵士たちに襲いかかっていた。
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