第224話 迫る黒、そして虚ろ

≪悪神の偽り≫の守護者の待つ部屋への鉄扉はやや開きが悪く、見ると沓摺くつずりの金属部分が錆びて膨れていた。

迷宮内部にあるこうした扉は、魔物や仕掛け罠などの再出現リポップと同様に一定期間が立てば、自ずと元の姿に戻る仕様であるはずで、そのことを考慮するとこの鉄扉は最初から錆びていたことになる。


つまり、扉を開いた際のこの不快な擦り音と煩わしい感じは、あらかじめそう設計されたものであり、この迷宮をデザインした者がもし存在するならば、相当に底意地の悪い輩ではないかとショウゾウはふと、そう思った。


扉を開けて、まず目に入って来たのは一面の黒。


まるで≪虚界ヴォダス≫を連想させるような風景で、異なるのは重力が確かに感じられるという点である。


壁も床も天井も確実にある。

真っ黒で光沢のない、石材のような素材でできていて、ショウゾウの頭上に浮かぶ≪光源ラータ≫の明かりが照らし出す室内の広さはさほど広くはない。

三十人程度で使う会議室ぐらいの広さだろうか。

ただ、天井は高く、頭上の光玉を上昇させてみたところ、背丈の三倍ほどはあった。


「奇妙な場所だな」


正面奥の壁の手前には、これまた黒一色の祭壇があり、よく見るとその両脇には同様に黒尽くめの台付きの香炉のようなものが設置されていることに気が付く。


だが、魔物の姿はない。


誰かが討伐し、再出現リポップされる前なのだろうかとも一瞬考えたが、その考えを打ち消す予想が即座に出てきた。


なるほど、これは≪風の魔精ましょう≫シルウェストレが封じられていた迷宮の二番煎じのようなものだな。

あの時は周囲全てが、まるで空の上に立っているかのような錯覚に陥ってしまうような光景が広がっていた。


同じB級難度の迷宮だ。もしかすると同じように擬態するようなタイプの魔物なのかもしれない。


つまり、もうすでにこの場のどこかに隠れている可能性が高い。


ショウゾウは、深く呼吸をし、全身の力を抜いた。

右手に持つ≪主君殺しディルムント≫の形状や重さを指先に感じられるように、握る力をやや緩め、その感覚に身を任せた。


視覚や聴覚など限られた五感に集中するのではなく、そのすべてをあるがままに任せた。


何かに捉われることなく、あくまで自然に。


それが最近、近接戦闘の手ほどきを受けている≪剣魔≫ミュルダールの教えであった。


『……魔の王よ。そして、その身に≪獣≫の力と魂を宿せし者よ。何を求め、我が解放を目指すのか?』


突然、頭の中に声が聞こえた。

低く、重い。しわがれた、老人の声だ。


「答えねばならんか? では、その前に姿を現すのが礼儀であろう。今のままでは、どこを向いて話せばよいかわからん」


『これは異なことを言う。姿ならばとっくに見せておるではないか。そこにいないと思うのはそなた。我の存在を否定しているのは、そなたの脳であるのに……』


「やれやれ、お前も禅問答好きか。その声からすると、かなりの老齢であるようだが、姿を見せるのがそんなにも嫌か」


『安い挑発だ。我の声を老人のものと決めつけているのもおぬし自身だ。そのような凝り固まった思考では我を解き放つなど叶わぬぞ。我はうつろ。じつの対極にあり、同時に実を照らす者なり。さあ、解放者よ、参るぞ!』


その言葉と同時に起こったのは、予想もしていない現象だった。


目の前の光景が壊れ、くしゃくしゃになって迫って来たのだ。


いや、違う。

壊れたのは視界に映る光景ではない。

床、壁、天井の上っつら一枚が剥がれて、全方位から迫って来たのだ。


祭壇や香炉台に見えたものもただ濃淡で立体的に描かれただまし絵のようなものだったようだ。

つまり、この敵は、部屋の内側表面に張り付いた薄っぺらい黒い紙のような姿をしているのだ。


なるほど、たしかにすでに視界に入ってはいた。

だが、この奇妙な魔物には匂いや気配、さらには心音や呼吸など、生命を維持するのに必要だと思われる一切の挙動を感じることができなかった。


ショウゾウは、とっさに剣を振るい、迫るその紙のようなものを瞬時に切り裂いたが、まるで手ごたえが無く、まるで空振りしたかのようなその感触に思わず動揺してしまった。


刃が通った場所は裂け目ができて、その向こうにごく普通の色彩のある室内の様子が、一瞬垣間見えたがすぐに搔き消えてしまう。


まるで黒背景に浮かんだ虚ろな蜃気楼や幻のように、はかなく。


そして、その変化について考えを巡らす時間もないままに、一瞬でショウゾウの全身は圧倒的なほどに視界を埋め尽くす、せまり折り重なる漆黒に包まれてしまった。

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