第203話 トリックスター

ロタの様子がおかしい。


自らが胸ぐらを掴んでいる≪光の使徒エインヘリヤル≫の表情と視線のわずかな変化をショウゾウは見逃さなかった。


ロタの、本来であれば愛らしかろう幼子のような瞳が見ているのは自分ではなく、頭上の方にある何かだった。

ロタへの警戒を解かぬままゆっくりと見上げると、そこにあったのは一冊の厚い本であり、ショウゾウにはすぐにそれが≪魔導まどうの書≫であると分かった。

金属で縁どられた凝った装飾の革表紙で、そこに妖しく浮かび上がっている≪従魔じゅうま刻印こくいん≫により見間違うことなどありえない。


「馬鹿な……。儂はあれを呼び出した覚えなど無いぞ」


魔導まどうの書≫は、ショウゾウが「ブック」と念じ、あるいは唱えない限りは勝手に現れることなどないはずだった。

誰にもこの本を見せてはいけないという秘匿性から、これまでこのような衆人環視の中に晒したことはない。


魔導まどうの書≫は、≪虚界ヴォダス≫の漆黒の空間を妖しげな光と気配を放ちながら浮かんでおり、やがてゆっくりとページの真ん中のところで開き始めた。


そして一枚、また一枚とページがめくれ上がり、剥がれて、散り落ちてゆき、やがてその紙片や表紙が一陣の風に乗って一所に集まったかと思うと、そこに見覚えのある人影を見ることができた。


羽飾りが付いた幅広の鍔が付いた革帽子を被り、その下の顔はひどく青ざめていて、口元には不遜な笑みを浮かべている。


それはまさに、この異世界にショウゾウを連れてきたあの得体の知れぬ男だった。


「ロ・キ……」


呆然とした口調でそう呟いたロタだったが、次の瞬間、その額の中央に何かが貫通したような穴が開き、白目になると同時にぐったりとしてしまった。


幼子の中で、目に見えぬ何かが爆ぜ、そして消失したのを感じた。


ロタの呟きに一瞬、そちらの方に視線を向けてしまっていたショウゾウであったが、振り返ると皮帽子の男は、何も持たぬ手で、まるで弓を放ったかのようなポーズをしており、そして皮肉めいた笑みを浮かべた。


「舞台の端の三文役者が、べらべらと。せっかくの素晴らしい戯曲ぎきょくが台無しだ。不破昭三、こうして相対するのは久しぶりだな。息災だったか?」


「白々しい嘘はやめておけ。ずっと儂のすぐそばで、ずっと監視しておったのだろう? あの≪魔導まどうの書≫に成りすまし、自分の筋書き通り事が運ぶように、儂の行動を誘導しようとしていた。今にして思えば、出会ったときに見せた姿は幻術、あるいは何がしらかの手妻か、いずれにせよお前は≪魔導まどうの書≫として、儂を思い通りに動かすつもりだった。違うか?」


ショウゾウは、先ほどまでロタの宿っていた亡骸を手放し、それを≪虚界ヴォダス≫の物理法則の為すがままに委ねた。


「……いつから気が付いていた?」


「いや、本の正体に気が付いたのはたった今だ。だが、≪魔導まどうの書≫が儂に提示する情報には偏りがあり、どこか何者かの意図のようなものを感じることが多々あった。前文の文言……、たしか、『昏く、果てしない闇の海へ舟を漕ぎ出した者のための水先案内人』だったか。まさに右も左もわからぬこの異世界で、わらをもつかむ気持ちで≪魔導まどうの書≫にすがろうとしていたのは事実であるが、あいにく疑り深い上に、へそ曲がりな性格でな。思い通りにいかず、さぞやきもきさせたことだろう」


皮帽子の男は、笑みを浮かべるのを止め、真剣な顔でショウゾウを見据えた。


「そんなことはない。お前は、俺が見込んだ通り、≪オールドマン≫を託すに相応しい男だったぜ。途中の筋書きが変わったことは認めるが、行き着く先、エピローグは一緒だ。むしろ、俺の想定よりも展開が早まったと言っても良い」


「そうか。ならばいい。だが、思い通りに事が進んでおるのであれば、なぜこうして姿を現した? お前の筋書きとやらでは、こうしてタネ明かしするのはもっと先であったはずだろう。あのロタとかいうエインヘリヤルの話した内容がよほど都合が悪かったらしいな」


それか、あるいはすでに話した内容ではなく、これから明かされる可能性があった別の話を危惧したか。

隠したいことを話された後で出てきたのであれば間抜けすぎるし、この落ち着きはどこか不自然な気がする。

寸でのところで何かを回避した。そんな感じに思える。


「もし、そうだとしたら……どうだというのだ?」


「どうもせんよ。お前はいわばスポンサーで、儂はただ、その受益者であるにすぎぬ。利害が対立しない以上、要らぬ詮索をする気はない。それになんだかんだで儂はお前に感謝しておるよ。思惑はどうあれ、死の際にあって、絶望の中にいた儂を、この世界に連れ出してくれたのだからな」


感謝をしているというのは大げさだが、この皮帽子の男と対立することで得られる利は無く、むしろ失うものと想定外のリスクを招く可能性しかない。

奴が本当に魔導神ロ・キであるなら、自分が契約している魔法はすべて奴に依存した力であるし、神と呼ばれる存在を理由もなく敵に回したくはない。


ここはおだてて、無難にやり過ごすべきだ。


「フッ、それが利口というものだ。その情に流されない徹底した実利主義が、お前を気に入っているところなのだが、他の者はなかなかそうはいかない。見ろ、お前が従えている眷属たちの目を。あの死にぞこないの傀儡くぐつが、まるで俺がオルディンに内通して、ヨートゥンを破滅に追いやったかのようなような濡れ衣を着せるから、完全に勘違いしちまってる。狂気の沙汰だ!自分の父親を殺そうなどと考えるわけがないのにな」


確かに、表情に乏しい≪風の魔精ましょう≫シルウェストレは別にしても、≪火魔≫オルゾンなどは憎悪の感情をむき出しにしたような目で皮帽子の男を睨んでいる。


皮帽子の男は、やれやれといったわざとらしい仕草を見せると、右手の甲に浮かんだ≪従魔の刻印≫をショウゾウに見せた。


「本当は、ヨートゥンの遺産たる迷宮の守護者たちをお前がすべて解放したあと、こいつらをしもべとして、この俺がそっくり頂くつもりだったんだが、支配の強制があっても、こんなに憎まれてはもはや使いにくいことこの上なしだ。こいつらのほかに、隠れて事の成り行きを見守っている他の眷属たちにも今の会話は聞かれてしまっただろうし……。仕方ない……。まあ、俺が思い描いていた存在とも随分と違っていたしな……。少し惜しいが……」


皮帽子の男は、苦笑を浮かべながらぶつぶつ独り言のようにつぶやくと、≪従魔の刻印≫を自らの甲から浮かび上がらせ、ショウゾウの方に飛ばしてきた。


≪従魔の刻印≫はショウゾウの胸のあたりにゆっくりと漂っていき、そして一度その場で光って、消えた。

ここで確認はできないが、その辺りに何かが宿ったという確かな感触があった。


「こいつら迷宮の守護者たちの処遇は、不破昭三、お前に任せることにしよう。やはり俺ははぐれ者、大勢とつるむのは向かないようだし、何より面倒だからな。≪従魔の刻印≫は、いわば闇の王たる者の証。おめでとう。これで、正真正銘、闇の主たる存在となったわけだ。こいつらを有効に使って、せいぜい俺の役に立ってくれ」


皮帽子の男はそういうと、自らのすぐそばに≪魔洞穴マデュラ≫を生成し、その中に進もうとした。


「おい、待て。どこへ行く気だ。お前にはまだ聞かねばならんことがある。話は終わってはいないぞ」


「俺の方の用事はもう済んだ。お前は、これまで通り、好きにやるがいい。俺は俺でやることがある」


「勝手な奴だ。だが、これだけは聞いておかねばならん。お前の目的はなんだ? なぜ、≪オールドマン≫を儂に託した? この世界の覇権を握るだとか、ヨートゥンの遺産たる迷宮の守護者の掌握がお前の望みであったならば、この力、お前自らが使い、それを成し遂げれば話が早かったのではないか?」


「蛇のように狡賢いお前にしては察しが悪いことだ。それとも察していながら俺を試しているのか? そんなことができるのならばうにやっている。俺は、死せるヨートゥンからその力の源たる≪オールドマン≫を確保することに成功はした。だが、実子たるこの俺をしても、その継承をすることは適わなかった。力が、俺を拒んだのだ」


皮帽子の男はどこか一瞬だけ悲し気な目をしたが、それもまた彼の真意からくるものであるかは測りかねた。


「不破昭三、お前は≪オールドマン≫を適合させた最初の一人だ。お前に至るまでに数百人の犠牲を経た。老若男女、時の偉人から、世間を恐怖に陥れた極悪人まで、ありとあらゆる性格、適正、経歴のものを試した。だが、誰一人として、≪オールドマン≫をその魂の器に定着させることは適わなかったのだ。神たるこの俺でさえ、危うく魂魄の消滅に陥るところだった……」


「そのような危険なものを持ち出してまで、お前は何をしようとしておるのだ。儂に何をさせたいのだ?」


「……不破昭三、優れた作品にあって最大の禁忌タブーは何か、わかるか?フフッ、それは結末を先に明かしてしまうことだ。筋書きの結末は、自身のその目で確かめるといい。俺は、本来であれば、お前がすべての勝者となったその最後の瞬間まで姿を現さぬつもりだったのだが、……まったく、とんだへぼ脚本家であったわ」


もはや皮帽子の男の目には誰も映っていないようであった。

独り言のように自嘲すると≪魔洞穴マデュラ≫の闇に消えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る