第188話 光神の代行者

「これは、一体……」


ルカの口から零れ落ちたつぶやきは、その場に居合わせたすべての者の気持ちを代弁したものだった。

侍女たちも護衛の騎士たちも、その触れがたく神々しい巫女姫ふじょきエレオノーラを前にして呆然と立ち尽くすばかりで、百戦錬磨の冒険者である≪赤の烈風≫マルセルでさえ、その場から一歩も前に出ようとしない。


「姉上! ……これは、何が起きている? 何が起きたというんだっ!」


ただならぬ気配を感じてか、荒い息をして駆けつけてきたルシアンが皆を押しのけ、エレオノーラの前に立つ。


「姉上、気を確かに! 私です。弟のルシアンが参りましたぞ!」


ルシアンの必死の呼びかけにも関わらず、光り輝くエレオノーラは白目をむいたまま小刻みに痙攣けいれんし、宙に浮き続けている。


どれだけの間、そうしていただろう。

束の間とも、永遠とも思えるような奇妙な時間が過ぎ去り、エレオノーラの身にある変化が起きたのをルカは見逃さなかった。


エレオノーラの額に何か光る模様のようなものが浮かび上がり、それが何か文字のようなものに変わっていったのだ。

それが如何なるもので、どのような意味を持つかはルカの知るところではなかったのであるが、その特徴から過去に読んだことのある文献にあった≪秘文字ルーン≫というものではないかと思いあたった。

秘文字ルーン≫は、オルディン神がオルドの民に与えたとされる秘術に用いる文字であり、その種類ごとに様々な意味が込められているという。


そして、エレオノーラの口が開いた。


『……光の王の亡骸に、闇の帳が降り、千年の御世に終焉の時が訪れた。闇の力の増長はとどまることを知らず、大いなる巨人ノルディアスの地は再び昏き混沌に包まれるであろう』


それは低く、重い、直接頭の中に響いてくるようなそんな声であった。


その不可思議な声の、予言のような言葉の終わりに、白目になっていたエレオノーラの眼がギョロリと動き、滾る太陽を思わせるような金色の瞳が現れた。


エレオノーラの全身からは圧倒的な光気が迸り、室内の家具や敷物などを損傷させていく。


ルカたちもたまらず後ずさり、護衛の騎士たちは立ち尽くし呆然とするルシアンをなんとか下がらせようとした。侍女たちは悲鳴を上げて、床にうずくまり、恐怖のあまりか震えて、身動きが取れないでいた。

≪赤の烈風≫ことマルセルが何とかその侍女たちを救い出そうとしたが、暴れ狂う光気の凄まじさに一歩も前に出られない状況だった。


そして何より、先ほどからこの室内には重く、息苦しいような気配が立ち込めていて、つい気を抜くと腰が抜けてしまいそうになるのをルカは必死でこらえていた。


「馬鹿な……。この光の波濤はとうは……、この恐ろしいまでの覇気は……、紛れもなく≪呼び名ケニング≫の力。しかし、なぜ? 光王が不慮の死を迎えた場合、≪呼び名ケニング≫は光王家の男子の中からもっとも相応ふさわしき者に移譲されるのではなかったのか? 光王家の歴史の中でも、女の身で≪呼び名ケニング≫を継承した者はいなかったはず……」


騎士たちにかばわれた状態のルシアンが苦悶の表情を浮かべつつ、疑問を口にした。


『愚かな儒子じゅしよ。立場も、己が果たすべき務めも忘れ、盲目に姉のもとに逃げ戻るとは……。運命はお前を見放したぞ』


エレオノーラは到底、姉弟とは思えないほどの冷たい目でルシアンを見下ろした。


「その口調にその表情……、話しているのは姉上ではないな! お前は何者だ! 」


「我は、≪光の使徒≫を束ねる者にして、≪呼び名ケニング≫の守護者。死せるヴァルキュリャと英霊の魂の集合体たるエインヘリヤルのレギンレイヴと名付けられし存在だ。ルシアン……王になるべく定められた道を踏み外せし者よ。もはや、終焉に向けて時は動き出してしまった。ノルディアスの運命は、光王家の手を離れ、守護者たる我に委ねられた」


「ふざけるな!姉上の体から出ていけ。姉上は、この戦いには関係がない。姉上を巻き込むな」


ルシアンは、自らにしがみ付いている騎士たちを撥ね退け、最愛の姉の元へ歩み寄ろうとした。

しかし、その指先から雷光が一筋走り、たまらず膝をついてしまう。


「控えよ。お前の姉の肉体は、もはや我が依り代。気安く触れようなどとは思わぬことだ。それに、これはそなた自らが招いたことなのだぞ。愚かな貴様の選択が、揺蕩たゆたっていた未来を更なる混沌へと導き、オルドを危難に陥れたのだ」


「くっ。先ほどから、何をわけのわからないことを言っている。王になるべく定められただの、自らが招いたことだのと、私に一体何の責があるというのだ。あのけだもののような怪物に、老いた光王が敵うはずがないことは、一目瞭然だった。あの場にいて、共に戦い、死ねとお前は言うのか!」


「そうではない。ノルディアスに住まう人々のうち、お前たちオルドに生まれし光王家の者は、皆、団結し、闇の伸長を阻む使命を与えられていたのだ。人種の長として、≪呼び名ケニング≫をはじめとした有りと有らゆる恩恵を受け、他の氏族たちを支配する特権を与えたのは何のためか、貴様は考えたことがあるか? 長い支配の歴史の中で、自分たちの存在の意味も、その使命も忘れ、ようやく解放したこのノルディアスを再び闇の手に帰さんとする光王家の堕落ぶりには、オルディン神もきっと大きな失望を抱くに違いない。特にお前などは、その最たるもの。血のつながった姉に情愛を募らせ、その執着のあまり、主たる光王を見殺しにして、闇の脅威に背を向けるとは……。よいか、ルシアンよ。ヴィツェル十三世は、お前をこそ、次の≪呼び名ケニング≫の継承者にする心づもりであったのだ。今際の際、その場にお前がいたならば、運命は変わっていた。我が、≪呼び名ケニング≫から封を解かれる事態にはなり得なかったのだ」


「嘘だっ! あの祖父が、俺を後継者にするなどありえない。ヴィツェル十三世は俺を憎み、いつも遠ざけていた。そして、先ほども姉を、この私から奪い、妻にすると……」


「嘘ではない。もはや、我の一部となった彼の者の記憶には確かにそう刻まれている。その優れた才気と容姿、そして眩いばかりの若さに嫉妬し、疎ましく思うほどにお前を認めていたのだ。お前は数多くいる直孫じきそんの中でもっとも高く評価されていたようだが、我が目にはそれが過大なものであったと映る。≪呼び名ケニング≫の継承者にはとうていふさわしいとは思えぬな」


「そんな……まさか……」


ルシアンは糸が切れたかのように床に這いつくばり、呆然と呟いた。


「悪神の力を宿す闇の者にその命を奪われ、継承者が自分の意志で≪呼び名ケニング≫の譲渡を果たせない状況に陥ることが、我を、そして他の≪光の使徒≫たちを封印から解き放つ条件になっていたのだ。お前の姉は、巫女姫ふじょきの力を宿しているが、これもオルディン神からお前の一族に貸与された霊的感応力だ。この不測の事態に陥った折、≪呼び名ケニング≫を最大限に生かせるよう、巫女姫ふじょきの力を宿した女を優先的に依り代に選ぶことは、我が神によって我に組み込まれ、定められた宿業であったのだ」


「……頼む。この通りだ。俺の肉体をお前にくれてやる。だから、姉上を解放してくれ。エレオノーラは人としての幸福を何一つ与えられることなく、閉ざされた塔でずっと孤独に生きてきたんだ。それなのに、こんなことになるなんて、あまりにも残酷すぎる」


「今さら、お前に何の価値があろうか。どうやら、他の≪使徒≫たちもお前を受肉のための依り代には選ばなかったようだな」


窓の外がにわかに暗くなり、耳を塞ぎたくなるような雷鳴がいくつも重なり、連なるようにして轟いた。


「さあ、哀れなるルシアンよ。姉の体に別れを告げるがいい。我はこれより、≪使徒≫たちと共にノルディアスの浄化に向かわねばならん。闇とそれに連なる者どもを今度こそ根絶やしにしてくれる」


「待ってくれ。私は、どうすればいい? 光王家は、これからどうなるのだ?」


「我に宿る歴代の光王たち、そしてお前の姉の手前、真実を伝えてやったのだ。あとはその愚かな頭でゆっくりと今後のことを考えるがいい。一族を引き連れ父祖伝来の地であるオルデンセ島に引き上げるか、いずれにせよ、巻き込まれぬようこのノルディアスの外で息を潜めておるのだな。……逃げるのは得意であろう?」


エレオノーラの姿をした≪光神の代行者≫レギンレイヴは、そう言い残すと光の塊となり、開け放たれたままの窓から、いずこかへと去っていった。

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