第187話 巫女姫の異変

それはもはや誰の目にも明らかな決着であった。


仰向けになり、動く気配を見せぬ光王ヴィツェル十三世とそれを見下ろす獣魔グロア。


光の神に選ばれた人間の王が世を乱す異形の闇の化け物によって敗北するという、おおよそ勧善懲悪の物語においては、ありえない真逆の決着に、その周囲にいたすべての人間が恐慌に陥った。


畏怖を抱き、絶対視していた光王が為すすべもなく力で蹂躙されている姿は、このノルディアスに生きる者たちにとって想像しがたいものであったし、何よりそれは同様に加護を与えているオルディン神の偉大さをも損なわせるものであったから、人々の心に与えた動揺はより大きくなったのである。

そして、さらに≪恐ろしき者ユッグ≫の≪呼び名ケニング≫が持つ心理的支配力が消え、周囲の人間の行動の統制が取れなくなったのだ。


動かぬ光王の体に駆け寄る者、未だ戦意を失わぬ者は少数で、ほとんどの者は少しでも獣魔グロアから遠ざかろうと、蜘蛛の子を散らすかのようにめいめいに逃げ始めた。



そうした状況の変化がおこる少し前の、両者の戦闘の最中さなかに、無断でこの戦場から遠ざかっていた者がいる。


その者の名はルシアンと言い、宮廷においては外務卿の地位にあり、今は別天地の外世界でおこった諸問題の対処に当たる監察使の権限を併せ持つ若者だ。

数多くいるヴィツェル十三世の直孫の中の一人で、母親の家の格の低さから王位継承の望みは薄いものの、れっきとしたオルドの純血を保っている。


ルシアンは自身を慕う側近のほか、五十騎からなる弓騎士隊を率いて遠巻きに、獣魔グロアを包囲する兵の群れに加わっていたが、「味方を射てしまう」という理由をつけて、戦闘に加わろうとはしなかった。


そして光王と獣魔グロアの一騎打ちが始まると、その場にいた誰よりも早く光王の不利を見切って、戦場から人知れず離脱したのだ。


光王があの怪物に殺されれば、次の光王が誕生する間、束の間の混乱が起きる。

あの様子では仮に勝利したとて、その消耗は激しく、余命いくばくもあるまい。

呼び名ケニング≫は強大な力だが、決して万能ではない。


付き従う者は、信頼のおけるものばかりの十数騎のみ。

目指していたのは、幼き日に引き離され、白亜の塔に幽閉されていた姉エレオノーラの待つオースレンの領主の城であった。


姉上!

今、この弟が、……ルシアンがお迎えに参ります。


逸る気持ちを抑えながら、ルシアンは人気のない市街地の通りを己が騎馬で駆け抜けた。




一方、そのオースレンの領主の居城では、ある異変が起きていた。


領主フスターフは弟ギヨームの凶刃に倒れこそしたものの、その刃は主要な臓器は避けられていたようで、城詰めの回復術師の命魔法で事なきを得たのだが、この城でもっとも高貴な客の滞在用にしつらわれた部屋から侍女の叫び声が響き渡ったのだ。


この普段以上に豪奢に飾り立てられた客室は、光王が王城から連れ出した巫女姫ふじょきエレオノーラのために、領主に供出させたものであり、扉の外は当然として、その部屋の窓の下にまで兵が配置されるなど、厳重な警備が為されていた。


にもかかわらずの悲鳴に、城内は一時騒然となった。


騒ぎを聞きつけた領主家の末弟ルカは、護衛のマルセルを連れ、急ぎエレオノーラのいる部屋の扉を開けた。

扉の外に護衛の姿は無く、どうやら先に部屋に入ったようであった。


「ルカ様、どうかお気を付けください。この部屋の雰囲気、何かおかしい」


マルセルがルカを押しのけるように前に出て、腰の≪レッド・ウェラー≫を抜いた。

そして少し足を踏み入れたところで、腰を抜かし、広い部屋の奥をじっと見つめている侍女たちと立ち尽くしたまま動かない護衛たちの姿が目に入った。

先行したマルセルも剣を構えたまま、その奥に進もうとするとそこで驚愕の表情を浮かべ、足を止めた。


「どうしたんですか? 何が……」


呆然とする彼らに並び、その視線を同じ方向に向けたルカもまた同様の反応をせざるを得なかった。


カーテンを閉め切った薄暗く、広い部屋の奥の方に、幾筋もの光の筋が蠢き、そしてその光の交差する中心に巫女姫はいた。

素足のまま、宙にわずかに浮き、その見目の良い両の瞳を白く光り輝かせ、両手を大きく広げたまま、じっと虚空を見つめているかのような状態であった。


その類まれなる美貌のせいであろうか、こうした異様な現象の最中にあっても、その美しさは損なわれることなく、むしろ光り輝くその姿はまるで、人ならざる女神そのものであるかのような神々しさであった。


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