第163話 彷徨える神

そこはノルディアスの地から遠く離れた異郷の地。


このイルヴァース世界全体とも言うべき惑星の、ちょうどノルディアス王国がある場所の反対側に位置する未開の荒野にその神は居た。


その荒野は、人も住まず、文明が起こる兆しすらない「暗黒の大陸」とも言うべき場所で、そこに跋扈するのは今は滅び、迷宮という謎の建造物としてその屍を残すのみとなった巨神ヨートゥンが創造した多種多様の闇の生き物たちだけであった。


その巨神ヨートゥンが生み出したこのイルヴァース世界は、果てしなく広大であったが、その闇の生物の脅威から人間が住める土地は決して多くは無い。

ノルディアスは最も恵まれた土地であり、人間が生息できる大地は、その周辺にある国々を足しても、イルヴァース世界の十分の一ほどでしかないのだ。


「ビレイグ様! ビレイグ様! ……ビレイグ!!起きてください。闇吐く邪竜ファーヴニルが姿を現しましたよ。こんな場所でうたたねしている場合じゃないですよ。起きてください」


糸巻き棒を手にした少女が慌てた様子でやって来て、木の切り株に腰を掛け居眠りをしている片目の老人の肩を揺すった。


「……ヴォルヴァか。短い……夢を……視ていた」


くたびれたつば広の帽子をかぶったその老人は、まだ夢現ゆめうつつといった感じだ。


「何を寝ぼけたことを言ってるんですか。急がないとまた取り逃がしてしまいますよ。あの竜は、悪知恵が働くし、逃げ足だって速い。この機を逃したら、また探すのに一苦労しますよ!」


「別に構わんだろう。時は無限にある。そんなことより、ショウゾウだ」


「ショウゾウ? 何のことを言っているのですか。最近、その肉体もだいぶ年を取って、いよいよけてきたんですか?」


「誰の影響か、まったく口の悪い娘だ。だいぶが来始めたが、別にまだ呆けたりはしていない。この闇に閉ざされた大地に光をもたらし、人が住める土地にする重要性もちゃんとわかっておる。だが、それ以上に何か途方もないことがノルディアスで起こっているようなのだ」


「それは、夢の話と関係が御有おありになるのですか?」


「さあ、われにもまだよくはわからないが、嫌な予感がした。夢と夢が繋がってな。不思議な若者と出会ったよ。名はショウゾウ。はじめは我が血族に連なる者かと思ったが、それはまったく見当違いであるようだった。オルドの光を喰らい、それを我がものにしおったように見えた。まるで、あの悪食の巨神ヨートゥン……命を、力を、奪い、より大きく力を増す。あの忌まわしき怪物の様にな」


「やはりまだ寝ぼけておいでですね。言ってることが支離滅裂です。そのヨートゥンを討たれたのは、ビレイグ様ではないですか。忘れたんですか? ショウゾウだかなんだかわかりませんが、あの巨神と同様の力を持つ者など存在するはずがありません」


「そうだな。あってはならんことだ。だが、感じぬか? この短期間に、遠く離れたノルディアスの地で何かが起ころうという兆しを。そして、我らが遺してきた光の火種に闇がその手を伸ばそうとしておるのを……」


「感じませんね。かつて放浪の巫女、預言者と謳われたこの私が言うんだから間違いありませんよ。でも、そうですね。変化の兆しのようなものは感じられます。なんだろう。ひどく混沌として、運命が揺蕩っている……」


「なるほど、お前はそう感じているのか。そうさな、オルドの巫女姫ふじょきに予知と霊感の一部を預けておるから、その分野では、ヴォルヴァ、お前の方が正しいのかもしれんな。だが、それでも一度戻らねばならん。苦労の末、ようやく取り戻した自由の光を、人間の光を損なわせるわけにはいかぬからな」


「そうですね。そうする価値は言われてみるとあるかもしれません。残してきた人間がどのように進化し、素晴らしい文明を築いているかも、この目で確認したいところですし……」


「よし、そうなれば善は急げだ。ヴァルキュリャの半数はここに残し、我らはノルディアスに引き返してみることにしよう。光魔法の契約者の数がさほど増えていないのも気にかかっておったし。ああ、しかし、あれだな。こうなってくると、ヨートゥンとの戦いで八足の軍馬スレイプニィールを失ったのはやはり痛手であったな。あいつがおったなら、ひとっ飛びであったものを……」


「徒歩か、風魔法で飛んで行くしかないですね」


「ふむ、魔力マナはできるだけ使いたくはないな。ヨートゥンとの戦いで消耗しきり、受肉することでようやく消滅を免れたこの身としては、できるだけ魔力マナを蓄え、その回復を少しでも早めたいところであるからな。仮初の肉体ももうじき交換の時期が近づいておるし、節約しておくに越したことはない。まあ、自分たちが通った道を振り返ってまた通るというのも意味があることだ。闇は、払っても払っても再び蘇る。闇の魔物を駆逐した土地も再び別の魔物が湧いておるやもしれん」


「では、そのように。連れていくヴァルキュリャの人選は私に任せていただいてもよろしいですか?」


「ああ、任せる。だが、ゴンドゥルは面子に加えておいてくれ、エイルやブリュンヒルドも連れていきたいところだが、そうなるとこちらが立ち行かなくなってしまうだろう」


「ゴンドゥルをですか? あの魔法馬鹿を?」


「ああ、我の夢に現れたショウゾウという者……、人の身でありながら多種多様の色を持つ膨大な≪魔力≫を有していた。そして、その魂の深淵にあるのは、深き闇だ。あの者と事を構えることになれば、おそらく壮絶な魔法戦になろう。今の我一人ではしんどいと思ってな。まあ、節約の一環だ。それに彼女であれば、ほかの隠れてしまった魔法神たちともつながりがある。今や半数以下になってしまったヴァルキュリャたちの中では適任であろう」


「……わかりました。ではそのように」


糸巻き棒を持つ少女は、一礼をしてその場を去っていった。


一人残されたビレイグは、切り株に腰を下ろしたまま、その背を見送り、そして小さく「ショウゾウ……」と、はるか遠き地にいると思われるあの若者の名を呟いた。


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