第151話 孤独のエリエン

堅牢な司王院の建物地下にある牢獄には大量の雨水が流入してきており、そこに囚われている者たちはすぐにパニックに陥ってしまっていた。


「おい、看守! 何をやってるんだ。このままじゃ、俺たちみんな溺れ死んでしまうぞ」

「そうだ! ここから出せ。鍵を開けてくれ!」

「王都で、こんな大水見たことがないぞ。これはとんでもない何かが起きてるに違いない。このままの速さで増えていったら、すぐに水でいっぱいになってしまう」

「看守、出てこい!」

「この野郎。見捨てたら化けて出てやるぞ」



地下牢は、分厚い壁で仕切られたそれぞれの牢屋から発せられる囚人たちの喚き声や怒号、そして鉄格子を蹴りつけたりする音などが響きわたり、今にも暴動が起きそうなほどの剣呑さだった。


そうであるにもかかわらず、看守も牢番たちもこの地下へはおりて来ない。

いつもであれば、囚人同士によるちょっとした口論でさえ、騒ぎを鎮めようと警棒を振りかざし、やって来るのであるが、この夜はまったくその気配さえない。


他の囚人と隔離され、独房に入れられていたエリエンもまた、普段とは違うこの地下牢の雰囲気にとても不安な思いをしていた。


水の量はまだ腰の高さほどであり、囚人が騒ぐように溺れ死ぬような恐れはまだない。


そのことよりも看守や牢番たちが、この事態にもかかわらず少しも姿を見せないことの方がとても不思議で、ここまで聞こえてくる囚人たちの荒々しい声の響きの方がよっぽど不安を掻き立ててくる。


増水などより人間の方がよっぽど恐ろしいとエリエンは思う。


少女時代。

まだ、大魔法院で学んでいた十代の初め頃に、エリエンはひどい苛めにあっていた。

理由はその身に宿る≪魔力マナ≫がどこかほかの子供よりも不吉な感じがするという言いがかり的なものだった。


痣ができるほど暴力を振るわれることも度々あって、仲間外れにされたり、教本などを隠されたりということは日常茶飯事であった。


虐めてきたのは、主に光魔法を得意とするオルドの民の混血児たちで、両親を失い、後ろ盾のない孤児同然の寄宿生だったエリエンには逃げる場所も、それに抗う術もなかった。


絶望したエリエンはついに、自ら命を絶とうと考えるようになったが、その境遇から救ってくれたのが、オースレンにいた遠い親族であるヨゼフであった。


ヨゼフは、エリエンを大魔法院から引き取り、自らが経営する私塾で魔法使いとして鍛え上げた。

その後、大魔法院で≪院生≫、≪従導師≫の認可を受けられるほどの魔法の腕前になったわけであるが、暗く、つらかった少女時代に負った心の傷はついぞ完全に癒えることはなかった。


ショウゾウと出会い、そして冒険者として活動した日々がもう一度、ヨゼフ以外の他人を信じようと思わせるきっかけになったのであるが、その日々も長くは続かなかった。



魔法効果の増幅装置にして、≪魔力マナ≫の安定器でもある杖を取り上げられているエリエンではあったが、水魔法が得意ということもあり、杖なしの不安定な魔法行使でも、流入してきた水を操り、用いればこのこの地下牢から脱出することはおそらく可能であると思っていた。


だが、それをしなかったのは、この独房を出た先にある未来に、少しの希望も見いだせなかったからであった。


ヨゼフも死に、頼りにしていたショウゾウは行方不明。

仲間のレイザーやエリックも王都からどこかに護送されたらしく、そのあとはどうなったのかわからない。


また天涯孤独になってしまった。


自分という人間は、つくづくこういう星のもとに生まれているのだなという思いが心の中を埋め尽くし、ここから出ていこうという気になれなかったのである。


仮にこの独房を出たとしても、地上にはたくさんの衛兵がいるだろうということは明らかで、それを振り払って逃走するなど自分にはできそうもなかった。


取り調べにやって来る役人の話では、近いうちに自分は、王族に危害を与えた罪で極刑に処されるのだと聞いている。


この場から逃げ出さなくては、その与えられる死を受け入れるほかは無いが、身を潜め、各地を逃げ回る日々と一瞬でもたらされる死のどちらがより苦しまなくて済むのだろうか。


「ショウゾウさん……」


エリエンはその華奢なこぶしを胸の前できゅっと握りしめ、呟いた。





どれだけの時間が経っただろう。

水位の上昇も止まり、囚人たちも騒ぎ疲れて、静かになってしばらくたつのだが、再び歓声のようなものが上がり、にわかににぎやかになってきた。


「恩赦だ。光王様の恩赦だとよ!」


声高にそう叫ぶ声が聞こえたが、こんな深夜にそのような沙汰があるはずもない。


だが、次々と鉄格子が開かれる音と、そこから出て喜ぶ囚人たちの声が続き、さらにその騒がしさは、地下牢奥のこの場所まで近づいてくるようであった。


一体どういうことだろうとエリエンが鉄格子の小窓がある頑丈な扉の方に近づいていくと、やはり誰かが近づいてくる気配がした。


看守や牢番の役人などではない。


エリエンの背に冷たいものが流れ、内心で思わず戦慄してしまった。


その近づいてくる存在からは、おおよそこの世のものとは思えない膨大かつ複雑な感じのする異様な≪魔力マナ≫が感じられて、まるで蛇に睨まれたカエルの様に全身が震え、委縮してしまった。


杖も持たず、このような場所に閉じ込められ、逃げ場はない。


相手の≪魔力マナ≫を感じ取ることができる魔法使いであれば、きっと誰しもがこうなってしまうであろう。

おそらくはあの偉大なヨランド・ゴディンでさえ。


到底、人であるとは思えない、数十人、いや百人を優に超える魔法使いに匹敵するであろうその魔力の持ち主が、扉の前で立ち止まった。


エリエンは、いつでも周囲の水で身を守れるように身構え、神経を集中させようと試みた。

そのようなことをしても無駄な相手であることはわかっていたが、恐怖から体が自然とそう身構えてしまったのだ。


「あ、あなたは何者なのですか? 」


扉の向こうから応えは無く、鍵穴がガチャガチャ鳴った。


エリエンは、奥の壁の方に下がり、「開けたら、魔法で攻撃しますよ!」と警告した。

だが、その言葉は虚勢だった。

全身の震えが止められず、こんな精神状況では、まともに魔法の発動などできるはずもない。


「……エリエン。その元気があるならば、魔法を使ってさっさとこんな場所から出ればよかったではないか。儂だ。ショウゾウだ。開けるぞ」


扉の向こうからもたらされたのは、あきれた様なしわがれた声。

それは、紛れもなく自分がよく知るショウゾウ本人の、変わらぬ声だった。


扉が開き、そこには血に塗れ、ズタボロの黒い布切れを身に纏ったショウゾウの姿があり、エリエンは思わず涙と嗚咽を抑えることができなかった。


「ショウゾウさん!」


エリエンは思わず駆けだしてしまい、ショウゾウの胸の中に飛び込んだ。


もはや外套とは呼べぬほどにあちこち傷み、露になった肌に辛うじて引っかかっているようなその布からは焼け焦げたような匂いと血が染みついていて、この場所にたどり着くまでにどのような過酷な状況を経てきたのか、全く想像もつかなかった。


「ショウゾウさん、どこか、怪我をしてるのでは……」


「大事ない。少し前までは、割と危なかったが、傷はもう癒えておるし、この身に浴びた血は、上の衛兵や役人たちのものだ。さあ、そんなことより脱出を急ごう。詳しい話はあとだ」


ショウゾウは、エリエンを押し出すようにして、独房の外に出すと、自らもその後に続いた。




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