第146話 分王家の嗣子

ああ、煩い。

これでは、まったく寝られないではないか。


オルディン神殿の宿坊に滞在中の王族であるボードゥアン・コーダ・コブルク=センブリックは、強雨が屋根を穿つ音が気になって眠れず、寝台の上で身悶えしていた。


五日ほど前に、エリエンという下賤の女の水魔法の凄まじい水圧で壁に強く打ち付けられ、頭部と背中と腰を中心とした背面にひどい打撲を受け、左手が複雑骨折するなどしたのだが、雨の影響なのか、あちこちがしくしく痛み、じっとしていられなかったのだ。


治癒術士による命魔法の治療を受ければ、痛みは消え、瞬く間に快癒するのだが、その方法では、左手の骨の形が歪んだまま癒えてしまうということで、添え木による矯正を行いながらの段階的な治癒を行うことになったのだ。

命魔法による治癒は、時間を巻き戻すような効果ではなく、欠損やこうした骨折などの傷は元通りにならないのだとの説明を受けた。


「ぐっ、使えぬ凡夫め。あれでこの王都で指折りの治癒術士だというのだから笑わせてくれる」


ボードゥアンはそう罵ることで、今のおのれの不遇を慰めようとした。


ボードゥアンは王妃を輩出するための分王家の中ではかなりの名門の出自であったが、近年になって王族が増えすぎた影響を受けて、三十歳を超える年齢になっても宮廷内における官職を得られなかった。

父親は、宮廷の中枢にある二十四卿の一人であったのだが、大学における文武の成績が著しく悪く、しかも少年期に起こしたいくつかの傷害事件の影響で登用を避けられてしまったのだ。


もうすでにそれなりの年齢になってしまったこともあって、この先の栄達は見込めなかった。

名家の出自にもかかわらず、婚姻相手も決まっておらず、独身のままだった。

二十代の初めごろまでは、見合いやオルデンセ島からの嫁取りなどもしたが、なぜか失敗続きで、一度会った相手からは二度と会いたくないと断りの声が送られてくる始末だった。


ボードゥアンには兄弟がなく、一人っ子であったためにそうした状況ではあっても、家から追放されたりということはなく、母親に溺愛され、何不自由のない生活をしていたのだが、怪老ショウゾウの追討のための招集に駆り出されることになってしまい、この豚小屋のような粗末な宿坊での共同生活を送る羽目になってしまったのであった。


ボードゥアンの光魔法の素質は並みいる王族の子弟たちの中でも一級品であることがわかり、大いに期待を受けることとなったのだが、本人にやる気が一向になく、研修も仮病などを使っていたために今だ、決められた任地へ赴くことができないでいた。


そんな鬱屈とした日々に一筋の光を差してくれたのは、エリエンという大魔法院の≪大師≫ヨランド・ゴディンの養女だった。


エリエンは、母親が別天地の外から性処理のための玩具として買い求めてあてがってくれた女奴隷たちとは比べ物にならない清純さと素朴な美しさがあり、ボードゥアンはその姿を一目見た時から虜になってしまっていた。


従順そうな愁いを秘めた顔が、余計にボードゥアンの嗜虐心を煽り立て、ついにはエリエンの住む魔法院の宿舎に、配下を連れて忍び込むという行動を起こすに至ってしまった。


このような目にあってもボードゥアンの心は、エリエンのことでいっぱいであった。


女に手向かわれたのは生まれて初めてのことであり、暴力を振るわれるなどは一度もなかったことだった。

父親にも母親に殴られたことのないボードゥアンにとって、これは屈辱であるとともに新鮮な驚きであった。

あのようなじゃじゃ馬を殴り、いたぶり、凌辱して、服従させたら、どれほど胸がすく思いがすることかと、司王院から身柄を引き渡された後のことを考えると股間がこわばり痛いほどであった。


それにはまずこの魔法院の研修を終え、一刻も早く任地に赴かなければならない。


そうなれば、野蛮の地に赴く屈辱はあるものの、ずっとエリエンと一緒にいられる。


そのことに気が付いてからというものボードゥアンはまだ治療中であるにもかかわらず研修に積極的に出るようになった。


自らの体の内に宿る≪光の魔力マナ≫の存在を自覚するに至り、初歩の魔法もいくつかオルディン神と契約してみた。

明日はそれを初めて発動してみることになっていて、次はその魔法効果をコントロールする術を学ぶことになっている。


「怪老ショウゾウだったか……。よく考えてみるとこれはチャンスかもしれない。光王様を煩わせる、そのショウゾウを成敗したなら、出世は望みのままではないか」


ボードゥアンは寝台から身を起こし、サイドテーブルの上の水差しの水を飲んだ。


「いかんいかん。興奮したら余計に眠れなくなってきたぞ。この雨では娼婦を呼ぶこともできぬし……、うん?」


その時、ふと屋根上を何かが横切るような気配のようなものを感じた……ような気がした。


雨音で掻き消されているので音は無いが、うっすらと糸引くような動く何かを屋根上に感じた気が、一瞬したのだ。


「おい、誰かあるか。おい!」


扉にむかってそう叫ぶが、雨の音が邪魔してか誰もやって来ない。


まだのどが渇いているのか、声がどうも調子が悪く、かすれてしまって、自分でも聞き取りにくい。


大きく咳ばらいをし、もう一度大声で怒鳴りつけてみるが応えはない。


扉の外には、別天地から連れてきた下男が昼夜交替で必ず一人は侍っているはずであったが、まさか眠りこけているのではあるまいなとボードゥアンは訝しみ、寝台を降りると、扉のほうに歩いて行こうとした。


「なんだ? 風邪でもひいたのか……」


体がどこか重苦しく感じ、足がもつれるような倦怠感があった。


それでもようやく扉を開けてみると、そこには見覚えのない四十歳くらいの男が壁を背に寄りかかり、立っていた。


その男と目が合うと、相手の方が先に驚きの声を口にした。


「ボ、ボードゥアン様……なのですか?」


「何を言うか。当たり前であろう。お前の方こそ……」


見覚えがないと思っていたがそれは違った。

ボードゥアンの女癖の悪さを懸念した父親が女の従者の同行を禁じたために、しかたなく連れてきていた若い少年の下男の一人だった。

顔はずいぶんと老け込んでいたが、その目に特徴があり、その面影に気が付いた。


別天地における下男などの下働きをする者たちは、ある一定以上の暮らしの水準が保証される代わりに、一生を別天地内の仕えている家の離れなどで暮らす。

そうした使用人の婚姻は主と他の王族との間の取り決めで為されるため、自由はない。

この下男もボードゥアンが生まれた時から家を出入りしていた下男の息子で、十歳からその手伝いをしていたのだ。

歳が近かったこともあり、今回の招集に連れてきていたのだが、その見慣れた顔が一瞬、誰だかわからないほどに変わり果てていた。


そしてその顔は目の前で、刻々と変化し続けている。


目じりなどに皺が増え、毛髪は白く、細くなっていき、呆然としている間に、また十歳ほど年を重ねたように見えた。


よく見てみると老化しているのは、顔だけではない。


露出している皮膚の部分の皺や染みが増え、張り艶がなくなっていく。


ボードゥアンは慌てて自らの両手を確認したが同様の変化があった。


布と添え木で固定されている左手の様子はうかがえなかったが、右手は節くれだち、曲がり、醜くく変わり果てていた。


「これは、どうしたことだ……。何が起こっている」


全身から何かが抜き取られていくような虚脱感があり、それと同時に負傷していた箇所の痛みが感じられなくなってきた。


次第に立っているのがおっくうになり、床に腰を下ろしてしまう。


「誰か……。助けて、助けて……おかあさま……」


「ボードゥアンさま……気を確かに……」


少年だったはずの下男が、その老いさらばえた醜い顔を歪ませて駆け寄ってきたが、すぐに身を起こしていられずに、ボードゥアンの上に覆いかぶさってきた。


ボードゥアンはそれを煩わしく思い、撥ね退けようとしたがその力はすでになく、声もすかすかと息が漏れるばかりで音が出せない。


次第に、視界が白く滲み、自らもそのまま床に横たわってしまった。

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