第138話 虚界

≪水魔≫アンジェルが出現させた≪魔洞穴マデュラ≫の中に、躊躇ためらうことなく足を踏み入れたメルクスではあったが、その先の光景には思わず息を呑んでしまった。


そこはまさしく想像を超えた異様な世界であり、その有様を正しく表現することは九十年近くを生きてきたメルクスをもってしても、容易なことではなかった。


全面黒の背景に、線だけで描写された景色。

それはあたかも、今までいた世界のトレース。


ゴバエ湖も、その湖面に浮かぶ残骸も、そして外に立っているレイザーたちもその輪郭を現わす線の形で、ただそこにあった。


その輪郭に触れてみるが、透過し、実体はない。


そこはまさに、現世の輪郭を複写したような、裏の世界うらのせかいであった。


「うわっ、わかりました。蹴らないで!」


そう言ってエリックがこちら側へとやって来た。

その後をレイザーが続き、その光景を見た驚きをお道化たような口笛で表す。


「人間ってやつは驚きが過ぎると笑ってごまかすしかなくなるんだな。この歳になって、今更、こんな体験することになるとは思わなかったぜ」


「メルクス様、お待たせしました。どうです? 驚かれたでしょう」


最後にアンジェルがやって来て、≪魔洞穴マデュラ≫が閉じた。


「メルクスさん、この女の子!すごくかわいい見た目してるけど、メルクスさんがいなくなった途端に態度が酷いんですよ。口も悪いし、気を付けた方が……痛い!」


見逃してしまったが、どうやらエリックの足を愛想笑いを浮かべたアンジェルが蹴ったようだ。


「ああ、驚いたな。地面もただ線で描かれているだけで、足は宙に浮いているようだ。無重力とも違うし、これはどういう状態なのだ?」


「はい。ご説明しますと、外の世界にいた時の常識と感覚が無意識下で働き、地面に対して垂直に立っているという状態を維持しているに過ぎないと言った感じですね。常人があまり長くこの場所にいると上下左右の感覚と制御を失い、それこそあらぬ方向へ浮かんで飛んで行ってしまうことになると思われます」


「そうか。では急がねばならんが、その前にここの説明を聞いておこう。ここはいったいどういう空間なのだ。まるで現世の複写トレース画のような、この風景は一体なんだ?」


メルクスの質問に、アンジェルは微笑むのをやめ、思いつめたような真剣な顔になった。


「……ここは、ヨートゥン神があの忌々しきオルディンに敗北する直前まで手掛けていた未完の新しき世界」


「新しき世界?」


「ヨートゥン神はかねてより、人の住む世界と神や精霊、そして魔物などの闇に属する者たちの住む世界を分ける考えでおりました。ここはそのための世界。わたしたちが先ほどまでにいた世界と瓜二つの、互いに連動するもうひとつの世界を創造し、イルヴァースを現実世界と理想世界という二つの概念に沿って個別に管理するという計画だったのです」


「ふむ、興味深いな。なぜ、そのような面倒なことをしようとしたのだ」


「人間は聡いが脆く、弱い生き物。自分たちよりも強大な存在を前にしては容易にその影響を受けてしまい、自立することを止めてしまう。ですが、ヨートゥン神は、人間の持つその潜在的な可能性に大いに期待しておられたのです。イルヴァースを神や魔の介在しない、人間中心の世界とすることで、その進化を促す狙いがあったのですが、この計画は多くの神々の嫉妬と反感を買うことになってしまいました」


「それが、神同士の争いに発展したというわけだな……」


「ヨートゥン神に反旗を翻した神々の筆頭が、今やこのイルヴァースを我が物としているオルディンでした。オルディンという名は神々の言葉で『狂気、激怒した者の主』を意味します。これは彼の神が反乱勢力を取りまとめる際に自ら名乗ったものですが、この名前が意味する通り、各属性の魔法神たちはおろか、ヨートゥン神の息子であるロ・キをも含めた多くの神がこれに賛同してしまいました。新たなる世界の創造に多大な力を浪費していたヨートゥン神は、これらを鎮めることができず、敗れ去ることになったのですが、そうして未完のまま放置されることとなったのが、この裏の世界というわけです」


「なるほどな。この状態は文字通り、現世を複写するその途上であったというわけか」


「はい、それゆえにヨートゥン神の力の一端を宿しつつも、物性ぶっせいに乏しい未完の世界のまま、他の神々からもその存在すら忘れられたままとなっていたのです。この裏の世界をわたしたち≪魔人≫は≪虚界ヴォダス≫と名付けました」


「名付けた? まるで話し合いでもしていたかのような口ぶりだな。しかし、お前が解き放たれたのはつい最近のこと。妙ではないか」


「ふふっ、迷宮から解放されて、受肉する前の段階であれば、私たち迷宮の守護者は、大地を通じて互いに意思の疎通をする手段があったのですよ。わたしたち≪魔人≫は、ヨートゥン神の魂の分け身。元々はひとつであったためか、互いの自我が目覚めてからは離れた他の迷宮の守護者たちとおしゃべりに興じたりしていたというわけです。メルクス様が、最初の迷宮を解放された時などは、皆、大いに盛り上がったり、喝采を上げたりしていたのですよ」


「まず、だいたいのことはわかった。アンジェル……そろそろこの場を離れるとしようか。俺はこの後、どうすればいい?」


もう少し≪魔人≫たちについて話を聞いてみたい気もしたが、どうやら長話をし過ぎたようだ。

アンジェルの注意通り、足先が地面を表す線から離れ始めた。


エリックとレイザーに至っては天地が逆さになりつつある。


「はい、マイ・ロード。それでは私の背後にやって来て、後ろから強く抱きしめてください」


「これでいいのか?」


「はい!そしてお仲間の二人はわたしが……」


アンジェルの紅い髪がまるで蛸の足のように束になって伸び、レイザーとエリックの胴体に巻き付いた。


「うわっ、これどうなってるの?」

「俺はもう何があっても驚かないぞ。これは夢だ。俺はまだリービエの宿の寝床にいて、夢を見ている。そうだ。そうに違いない」


二人がそれぞれ異なるリアクションを見せ、メルクスはそれに思わずクスリとしたが、すぐに真顔に戻り、アンジェルに尋ねた。


「そうか、この状態で≪飛翔ヴァンガー≫を使えばいいのだな?」


飛翔ヴァンガー≫は己にしかかけることができず、しかも表の世界では三人分の重量を移動させることなどは不可能だったのだが、この空間の性質を考慮すれば、確かにこの方法で行けそうだ。


これであれば、空飛ぶ寝台などという面倒なことをせずに済む。


「はい。わたしも得意ではないながらも使うことができますが、この≪虚界ヴォダス≫では一人分の魔法の効力で全員、十分に移動可能です。方向はわたしが案内しますし、微調整が必要ならその都度、助言いたします」


「そうか、では早速行くとしよう」


メルクスは≪飛翔ヴァンガー≫の詠唱を済ませると、その魔法を発動させ、次なる目的地ガントに向かって飛び出した。

体感では新幹線ぐらいの速さであろうか。

抵抗のようなものが無いせいか、確かに一人分の推進力とは思えぬほどの速度が出ている。


何もない線と真っ黒な空間だけの世界に、レイザーとエリックの絶叫だけが響き渡っていた。




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