第137話 水魔の提案

「……わたしにもっといい考えがございますよ」


そういって現れた≪水魔≫アンジェルに誘われ、やって来たのはゴバエ湖のほとりであった。


流入してきた濁り水の影響で、透明度は無く、湖面は波打っていた。

山から運ばれて来た無数の倒木などが水面に浮かび、それらに紛れて時折、木船や家屋の残骸なども見受けられた。


水位の上昇で従来よりもはるかに大きくなったこのゴバエ湖周辺では増水による災害を恐れて、今は近寄る者も無く、周囲を見回してもメルクスたち以外の人影は見つけられなかった。


「アンジェル、このような場所に連れてきて何をしようというのだ?」


「はい、街中では人の目がありますし、人気ひとけのない場所が望ましかったのです。それと、わたしの元になっている魂の故郷ふるさとの、今の景色を目に焼き付けておきたくて……」


「故郷? しかし、このような荒れ果てた状態ではとても見られたものではあるまい。生まれ育った土地であれば、なおさらな……」


「いいえ、それがそうでもないんですよ。ゴバエ湖はもともとはもっと大きかったですし、わたしの中にある生前の最後の方の記憶では、この状態にとても近かった。ヨートゥン神を裏切った水の魔法神エイギルとの戦いで、わたしの部族は滅び、湖面にたくさんの船の残骸を浮かべることになってしまった。その時の無念さと憤りを蘇らせるのにはちょうどいい景色なんですよ」


≪水魔≫アンジェルはその昔を懐かしんでいるのか、幼い風貌に似合わぬ遠い目をした。


「このゴバエ湖と共に生きた水辺の民。わたしに宿るこの魂は、水の魔法神エイギルの妻、すなわち、もう一柱の水の魔法神リヤーンに仕える巫女シャーマンであり、それを信奉する一族を率いていた族長の娘でもありました。水の魔法神は夫婦神。ゴバエ湖の東西にある部族がそれぞれの神を祀り、あの大戦の前までは手を携え暮らしていたのです」


「ふむ、おぬしたち≪魔人≫はその源になった魂の記憶を有しているとアラーニェから聞いたが、こうしてお前たちを見ていると、元になっている魂の個性が闇に属する者としての本能よりも強いように思われるな。儂などよりよほど、懐古趣味的であるしとても人間くさいところがある」


「メルクス様は、昔のことを懐かしんだりはしないのですか?」


「そうだな。振り返ることはあるが、それに浸ったりということはあまりしない気がするな。過ぎ去ったことをあれこれ考えても仕方がないし、今、それと先の未来にしか興味がない。時の経過がもたらす老い、死すべき人の運命さだめ、そして変えられぬ過去。これらに考えを巡らすのは時間の無駄だ。人の一生は本来、短く、そして限られている」


言葉とは裏腹に、メルクスは、荒涼たる湖面の景色を眺めながら、元の世界での自分の最後を自然と思い出していた。


もし、魔導神ロ・キが自分をこの異世界に連れてこなかったならば、あの渋谷交差点での割腹自殺で己の人生はそのまま幕を閉じていたはずであった。


華やかなる人生の成功者が、老境に入り、自暴自棄の大量無差別殺傷事件を引き起こすなど、マスコミなどが手を叩いて喜びそうなネタを提供することになってしまったが、自分の死後、人々にどのように扱われようが知ったことではない。


人間は死ねば、そこで終わり。


若返り、思考の明晰さを取り戻した今となってはなぜあのような愚かな行動に走ったのか疑問だったが、おそらく老いたあの状況の自分は、おのれの力が及ぶ範囲で、「世界を壊したかった」のだろう。


唯一無二の自分という存在がいなくなった無価値な世界の存続を許せなかったのだ。


「まあ、己の行動自体を振り返ることは必要であろう。そこから学べることも多いしな。それで、アンジェル。そろそろお前の提案を聞こうか? このバッソンビエンから次の迷宮に移動する手段だが、何かいい方法でもあるのか」


「はい。メルクス様は次にどの迷宮に向かわれるかはお決めになっておられますか? その場所との地理的関係によって、いくつかご提案差し上げることができますよ」


「ふむ、これは、ここにいるレイザーが作成してくれた地図だが、各地にあるC級以下の迷宮のおおよそ所在が書き込まれている。我らは今、このゴバエ湖のこの辺りに居るのだが、次に向かいたいのはここから西にあるこのガントだ。ここには≪悪神の滾り≫と≪悪神の痛み≫の二つの迷宮がある。この二つのうちのどちらかでも、≪悪神のうれい≫が完全に消滅してしまう前後あたりには、攻略したいものだと考えている。各地の迷宮を日を置かず、そしてできるだけ消滅現象が一地域に集中せぬように長距離移動をしつつ、行う計画なのだ。王都から見て、広範囲に、かつ同時多発的に発生していると思わせるためにな。そういった状況に陥った場合にどれだけの人員を各地に同時に展開できるのかを見れば、敵のおおよその戦力を推し量ることもできる」


「なるほど。では、C級以下の迷宮ばかりを攻略対象にしているのは、その数の多さゆえなのですね」


「ああ、それもあるが、見ての通り、我らは三人と少数であるし、実力を考慮してもB級以上の迷宮の攻略は正直、手に余る。迷宮自体の数が減れば、あのオースレンの迷宮公営化が参考にされるかもしれないし、整備が進めば攻略もしやすくなる。管理している人間の警備さえ突破すれば、難易度はぐんと下がっておるのだからな」


「そうか、あのオースレンでの事業はそのための布石だったんですね?」


エリックがさも良いことを思いついたような顔で、自分の掌を拳で軽く叩いた。


「いや、それは違うぞ。俺は、あのオースレンを発展させ、グリュミオール家とのつながりを太くしていくことで、あの地に今後の活動のための地盤を築くつもりであったのだ。自らの実力向上と情報取集のために訪れたあの王都で、あのようなことにならなければ、こんな迷宮のはしごをすることも無かったであろうし、完全に計画が狂った」


「メルクス様、ガントに向かうのであれば、ふたつの方法をお勧めできます。ひとつは、このゴバエ湖の水を利用する方法です。わたしは、この身に宿る≪利水≫の力によって、大量の水を一度に自由に操ることができます。水流を操って、ここから東西を流れる河川に移動し、そのままその流れに乗って目的地を目指すことができます。もうひとつは、≪魔人≫特有の能力を使い、この現世の≪≫を通ってゆく方法です。裏の世界はまさしく虚無の世界。大地も空も存在しないため、少しコツが要りますが、魔法による移動をしても墜落のリスクなどがほとんどありません」


「その説明だけでは、いまいちよくわからんがとにかくあまり派手な手段は避けたい。それに、この土地の領民の暮らしをこれ以上損なわせるのは俺の本意ではないからな。水流に乗って移動する方法では、この湖から河川に出るまでに地形を損なってしまう恐れがあるのではないか?」


「はい。ゴバエ湖に繋がっている河川などはありませんから、当然に地形に影響を与えてしまうことになるでしょうね。メルクス様のお考えに沿うには、二つ目の方法が適していると思います」


≪水魔≫アンジェルはそう言うと、自らの傍らに人間一人を優に包み込めるほどの大きさの闇の塊を創り出した。


それは≪獣魔≫グロアがその大きな体を出入りさせ、移動に使っていたように見えたものと同様のものに見えた。


「これは≪魔洞穴マデュラ≫と言って、ヨートゥン神の分かたれたる存在である、わたしたち魔人だけが使うことができる空間術です。危険はありません。召使いの二人も安心して中に入ってください」


「召使い?俺たちのことか?」


レイザーが自分らを指差し、エリックと顔を見合わせた後で、抗議するような視線をメルクスに送った。


それに対し、≪水魔≫アンジェルはその幼い顔に意地悪な笑みを浮かべ、何か文句でもあるのかとでも言いたげな態度を取っている。


「アンジェル。その二人は自らの意思で俺に協力してくれた、いわば同志、仲間だ。言葉遣いに気を付けろよ」


メルクスは、その視線に対し、表情一つ変えずにそう言うと自ら先に≪魔洞穴マデュラ≫の中に足を踏み入れた。


メルクスにしても、この≪魔洞穴マデュラ≫の中に実際に入るのは初めてのことであったが、自ら先に進まねば、余計に無駄な時間がかかりそうなので、それを嫌ったのだった。

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