第113話 蜘蛛の使い

メルクスが宿を取ったのはオースレン北地区の貧民街が近い、西地区との境にある安宿であった。


この辺りの治安は決して良いとはいえず、深夜には出歩く者もいないような寂れた一角であるのだが、領主の城がある中央区からも遠く、潜んで街の様子を窺うには絶好の立地であると考えた。

自分の中の何かを感知する神殿騎士団テンプルナイツの者がオースレンに滞在しているとすれば、それは中央区である可能性が高いし、いざという時には貧民街に逃げ込むこともできるからだ。

西門にも近く、オースレンからの逃走も図りやすい。


来る途中に思ったのだが、この辺りの通りを歩く人々は、貧民街が近いせいもあるのか、この土地の人間ではない流れ者や行商人なども多く見受けられ、人種も様々であったため、見るからに異邦人という風貌の自分が目立たぬようにするには都合が良かった。


だが、以前にオースレンで使っていた部屋とは比べるべくもない狭さと汚さで、床も埃が溜まっており、どこに荷物を置くか一瞬考えてしまうほどだった。

寝具も粗末なもので、シーツも前の客が出て行ったあと取り替えたのか怪しい。


「おい、お客さん。あんたに客が来ているぞ」


室内に入り、まだ背負子も床に下ろしていないというのに、さっき閉めたばかりの扉の向こうから、宿の主人のガラガラした声が聞こえた。


客?

この姿をした自分を知っているものなど、オースレンにはいないはずだが……。

まさか、もう≪光≫の連中に嗅ぎつけられたのか?


「何かの間違いでは? この街には初めて訪れたんです。知り合いなんかいませんよ」


「俺が知ったことかよ。今この宿に入っていった荷物を背負った若い黒髪の客に会いたいって、下でみすぼらしいガキが騒いでいるんだ。覚えがないなら、他の客にも迷惑だし追っ払うがどうする?」


「ガキ? その客は子供なんですか」


「ああ、多分、貧民街の住人だ。右肩に、黒蜘蛛の刺青タトゥーがあった。子供とはいえ、あそこの連中とは揉めたくねえ。追い払うにしても慎重にやらねえとな。恨みなんか買いたくねえし、できる事ならあんたが自分で人違いだって説明してくれると助かるんだがな」


「わかりました。会ってみましょう」


メルクスが宿の主人と共に階下に降りていくと、たしかにそこに利発そうな目をした男の子が立っていた。

年齢的にはまだ小学校低学年くらいだろうか。

着ている服はスリーブレスの粗末なもので、露わになっている右肩にはそのあどけない顔立ちとはそぐわない蜘蛛の刺青があった。


「来て! こっち!」


男の子が突然、メルクスの手を取り、外に連れ出そうとした。


「ちょっと待って。君は誰だ。どこに私を連れて行こうというのだ」


「いいから、来て。僕はあなたを連れて来るように命じられた。あなたを連れて行かないと僕は困ったことになる。お願い!」


男の子の顔は真剣そのもので、ふざけているようには見えない。


「命じられたって誰に?」


「それは言えない。そんなことより、さあ、はやく!とにかく、ここは危険らしいんだ」


危険。


その言葉に動かされるようにメルクスはしぶしぶ宿の外に出た。


宿の主人には「日暮れ前には戻ります」と振り返って声をかけ、男の子の早足に歩調を合わせる。


男の子が案内してくれた先は、やはり北地区の貧民街であった。

寂れた路地のあちこちに怪しい眼つきをした貧しい身なりの人影があって、無関心を装いつつも、それとなくこちらを見ているような気配がある。


「おい、そろそろ教えてくれてもいいだろう。俺を一体、どこに連れて行こうというのだ? この街でこの貧民街より危険な場所などないだろう」


「お兄さん、それは人によるよ。僕たちにとってはもっとも安全な場所だし、お兄さんもこちら側のにんげんだって、アラーニェ様が言ってた」


アラーニェ。

知らない名だ。


その人物が儂をこの貧民街へ招いたということだろうか。


「あっ、グロア様! 僕、アラーニェ様の言いつけ通り、あの宿に入った背負子のお兄さんを連れて来たよ」


「グロアだと?」


男の子が満面の笑みを浮かべ、手を振った先を見た時、メルクスは全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。


常人の二倍ほどはあろうかという肩幅に、鋼のような体躯。

頭には猪の頭部のようなものを被っていて、全身から異様な気のようなものを放っているように見える。

その人物がゆっくりこちらに近づいてくるではないか。


おおよそ現実の風景の中にあって、大きな違和感を放つその風貌は、見る者をまるで悪夢にでも迷い込んでしまったかのような錯覚に陥れてしまう。


メルクスは慌てて背負子を地面に下ろし、その荷物の中から、布で覆っていた≪石魔せきまの杖≫を取り出し、構えた。


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