第96話 闇の恍惚

気が付くとギヨームは人気ひとけのない路地をふらふらと歩いていた。


夢か、うつつか。


頭の中が霞みがかっていて、足がひとりでに動いているような感覚であった。


俺の体は一体どうしてしまったのだろう。


この歩んでいく先に待っているのが、おそよ良くない結末であろう不吉な予感がひしひしと感じられるのに、少し先を歩く女の背を追うことを止めることができない。


女?


あの女はいったい誰だ。


思い出そうとすると頭に痛みが走り、何も考えられなくなる。


月の光は雲に遮られ、薄暗く、少し先を歩く女の背がようやく見えるぐらいであったが、ここが自分にとって見覚えが無い場所であることだけはわかる。


不気味な場所だ。


これだけ建物があるのに、窓に厚い布でもかけられているのか、僅かな光さえ零れていない。


「着いたわ。さあ、中に入って……」


い、いやだ。

そう頭の中では考えているのに口が思うように動かない。


この先に足を踏み入れてしまったら、もはや後戻りはできないという確信めいた思いが胸のうちにあるというのに指一本、自分の思いのままにならない。


女に促されるまま、ギヨームはその頑丈そうな鉄扉が開いた先の闇に足を踏み入れた。


そこはまさに深淵たる闇の底のような場所であった。

真っ暗で一筋の光さえ見い出すことができない不思議な空間で、自分が宙に浮いているかのような感覚があり、上下左右の感覚がまるでない。


背後で扉が閉まる重々しい音が響くと、およそ人のものとは思えぬ奇怪な鳴き声や無数の何かが蠢いているかのような不快な音が聞こえだした。


突然目の前に、血のように赤く光る二つの目が現れ、その目の持ち主が「よぐぎたな」と声を発した。


その声を聞いた途端にギヨームの脳裏に、あの貧民街での悪夢のような光景が、まるで今、目の前で起こっているかの如く、心臓が凍り付いてしまうかのような恐怖と共に蘇って来た。


おそろしい。おそろしい。


ギヨームの頭の中はその言葉で埋め尽くされてしまい、何も考えることができなくなってしまった。

そして、まもなく眼球が現実を直視することを拒絶でもしたかのようにぐるりとひっくり返り、そしてギヨームは気を失ってしまった。




次に目が覚めた時、ギヨームは見覚えが無い豪奢な広間の、毛足パイルが長い絨毯の上で、手足を固く縛られ、転がっていた。


衣服は城を出てからずっと着ていた一張羅で、酒場でも同じ服装だった。


酒臭い自分の息と、食い込む縄の痛みが、現実に自分を引き戻してくれたようで、次第にはっきり自分の置かれた状況がわかって来た。


そうだ。

自分はあの酒場で一人の妖しい美女に出会った。

その美女の両の瞳を見るうちに、正気を失ってしまい、そこから先の記憶がほとんどない。

だが、どの道を、どのように歩いてきたのか分からないが、どうやら自分は自らの足でこの場所にやって来てしまったのは間違いないようであった。


目の前にはまるで王侯貴族が己の権威を知らしめるために置く様な見事な玉座があり、その傍らには酒場で出会ったあの美女が、漆黒のドレスに身を包み、妖艶な笑みをその美貌に浮かべ、自分を見下みおろしていた。


この玉座は誰のためのものであろうか。


その空いた玉座にあたかも何者かが存在しているかのようにそばで侍る女。

それは人の形をしているが、その纏う雰囲気は、先ほどまでとは一変し、不吉で、この世のものならざる異様さと威厳をはらむものであった。


「き、貴様は何者だ! 俺をどうする気だ」


どうやら口だけではなく、体の感覚も戻っているようだ。

ギヨームは横になったまま、首を上げ、女に尋ねた。

そして、身をよじり、何とか拘束から解き放たれようと全身を力ませる。


だが、背後から別の何者かが近寄って来て、ギヨームの首根っこを摑まえると、すぐに大人しくせざるを得ないことを本能で悟った。

加えて、首に触れているごつごつとした手の感触とその手が秘めているであろう怪力に覚えがあったのだ。


「おどなじく、じていろ。こんなどころでじにたくはあるまい」


眼球を後ろに向けて見ると獣を模した仮面の下の傷だらけの顔がニヤリと笑った。


「こ、殺さないで。もう二度とあなたには会わない気でいたんだ。本当だ。あの女にたぶらかされたりしなければ、俺はもう二度と貴方と貧民街には関わらないと決めてたんだ。殺さないで……」


ギヨームは乾いた喉から必死で声を絞り出そうとした。


「そんなに怯えなくても大丈夫ですよ、ギヨーム様。その男はとても従順で、私が殺せと命じなければ、あなたの命を奪ったりはしませんよ」


黒尽くめの美女はクスリと笑い、妖しく響く声で言った。


「お前たちはいったい何者なんだ? なぜ、こんなことをする。俺にいったい何の用があるというんだ?」


「私の名前はアラーニェ。そちらの男はグロア。高貴な御血筋のギヨーム様に名乗るほどのものではございませんが、どうぞお見知りおきを。このような手荒な真似をした無礼はお詫びしますが、この出会いはあなたにとっても決して悪くないものであると保証いたしますわ」


「どういうことなんだ。俺を……、殺すんじゃないのか?」


「ギヨーム様を殺すなど、滅相も無い。こんな回りくどい方法をとってまで、お迎えしたのは、貴方様に素晴らしい贈り物を差し上げるため」


突然、グロアの大きな左手が頭を鷲掴みにし、首を掴む手にも力を加えてきた。

横に向けたままの顔は少しも動かすことができない。


アラーニェは笑みを浮かべながら歩み寄って来て、その細い指先でつまんでいる動く何かを顔の傍に寄せてきた。


それは一匹の黒い蜘蛛だった。

足が長く、大きさは幼子の手のひらの上に乗るくらいの大きさだった。


「そんなものをどうする気だ!」


幼少期よりあまり蜘蛛や虫が得意ではなかったギヨームは、必死で逃れようとするが、手足を縛る縄とグロアの怪力によってそれを妨げられてしまう。


アラーニェは手に持った黒蜘蛛をやさしくギヨームの耳の傍に置き、「いい子ね」と呟いた。


「やめろ。やめてくれ。俺はそいつが苦手なんだ。頼む、のけてくれぇ!」


ギヨームの懇願も虚しく、額の辺りを蜘蛛が這うおぞましい感覚がして、次に耳の穴がこそばゆいような感じがした。


何かが耳の穴から入って来る。


それはきっとあの蜘蛛に違いない。


その恐怖にギヨームは思わず失禁してしまった。


「ああー!あー!あーーーーっ!!!」


自分が感じていることを言葉にしようとするが、ギヨームにはもはや、そう叫ぶことしかできなかった。


そしてやがて、おのれの心中が、どす黒い感情で満たされていくことに気が付く。

そのどす黒い感情は、やがてギヨームの抱えていた不安や恐怖を覆い尽くし、闇の中で母親のかいなに抱かれているかのような安息感と恍惚をもたらした。











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