第95話 オブシディアンの女

あの貧民街での忌まわしくも恐ろしいあの体験から、領主コルネリスの次子ギヨームは立ち直ることができないでいた。


自らが率いていった衛兵隊は、たった一人の怪しげな男の人間離れしたその膂力によって、為す術も無く潰滅。

自身も危うく殺されるところであった。


生まれつき体が大きく、力が強かったギヨームは己の強さに絶対の自信を持っていた。

他の兄弟たちは言うに及ばず、一対一であれば如何なる強者にも決して後れを取らぬと日頃から周囲に公言していたほどだった。


学問は苦手だが、腕っぷしでは誰にも負けない。


その自負だけが、優秀だと褒めそやされる第一夫人の子らに対して胸を張れるたった一つの根拠となっていたのだ。


その自分がまるで子ども扱いされ、片手で持ちあげられるなど、ギヨームにとってはとても信じられないことであった。

しかも、まともに戦うことも無く、恐怖に心を支配され、負傷して動けない部下たちを置いて、一人で逃げ帰ってしまった。


城に戻り、自分の部屋の姿見の鏡で己の顔を見た時、愕然とした。


涙と鼻水でぐしゃぐしゃになり、目からは自信が失われてしまっていた。

情けない負け犬の、惨めな姿がそこにはあったのだ。



あの日から、すべてが変わってしまった。


酒を浴びるほど飲まなくては夜眠れず、眠りについてもあの獣人の悪夢に苛まれる。


太陽がやけに黄色く見え、日中は何もやる気が起きない。


第二夫人である母は、口うるさく、酒を飲むなと言ってくるようになり、先日などついかっとなって手を挙げてしまった。




母や側近の者たちに暴力を振るってしまった罪悪感と周囲の目からか、城内に居づらくなり、いつしかギヨームは気に入っていた娼婦の家に転がり込んで、そこで寝泊まりをするようになっていたが、その娼婦もまた、暴力を振るう自分を嫌って数日前から戻らなくなった。


「くそっ、あの阿婆擦あばずれめ。どこに行きやがった」


酒が無くなって、大声で怒鳴り散らしたが誰もやって来やしない。


ギヨームは仕方なく、夜の街に繰り出すことにした。


ここは一番治安の良い中央区。

貧民街のある北地区とはかなり離れているし、どこか程度の良い酒場で憂さを晴らすとしよう。


ギヨームは宿屋が並ぶ大通りの活気のある酒場にふらっと立ち寄ると、好物の肉料理をいくつか頼み、蒸留酒を先に持ってくるように店員に申し付けた。

料理については、腹は減ってないが、気が付くともう数日、何も食べておらず、さすがに体に悪かろうと注文したのだ。


そして、酒が来るなり一気に半分を呷り、来た店員に金貨を握らせて、おかわりを注文した。


自分が漂わせている雰囲気のせいか、領主の息子であるという身分がばれたのか自分のテーブルの周りの客がそそくさと席を立ち始めた。


残った店内の客たちも窺うような目で、ちらちらこちらを見ている。


「ちっ、面白くねえ。誰も彼もがこの俺を避けやがる……」


腹の虫が起きたのか、大声を出したい衝動に駆られたが、さすがにここを追い出されると別の店を探さなければならないので我慢した。


度数の強い蒸留酒をちびりちびりと啜りながら、料理が来るのを待つ。


「ここ、空いてるかしら?」


女の声がして、見上げるとそこには黒いロングコートを着た何者かが立っていた。


そして、やおら目深に被ったフードを上げると、その下からギヨームが見たことも無いような絶世の美女のかおが現れたのだ。


その長く、濡れたような黒髪は漆黒の闇のようで、白く透き通った肌に、目が覚めるような紅色の唇が妙に対照的であった。

その双眸は磨かれた黒曜石オブシディアンの如くに、吸い込まれてしまいそうになるほどの深淵を宿していた。


それはとても人間であるようには思えぬほどの神秘的な美であった。


ギヨームは息をするのも忘れるほどにしばし、その女に見入ってしまった。


まるで蜘蛛の巣に捕らえられた獲物にでもなってしまったかの如く、呆けた顔のまま、固まってしまったのだ。




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