第73話 獣魔グロア

この世に存在するありとあらゆる物の中で、最も尊いのは、己だ。

世界は所詮、自分が認識できる主観の域を出ず、他人は人生という物語の脇役に過ぎない。


これは何も儂に限ったことではなく、全ての人間が本来、そう自覚すべきなのだ。

自分の生を全うするためにするすべての行為は肯定される。


他者を押しのけ、時には殺したりしてもまるで問題は無い。


世界は自分のためにあり、自分がその生命を失った時にすべては闇に還るのだ。


だから人はもっと生きることに必死にならねばならない。


やりたいことが見つからないとか、夢が無いなどと語る若者を見る度にショウゾウは反吐が出るような気分になったものだ。


人間様だのなんだのとふんぞり返ってみても所詮はただの動物。


人間の究極の目的は、ただ生き延びることにある。


いかに生きるかなどはその後の話だ。


その上で、永遠に君臨し、栄華を楽しむためには更なる苦難と試練を乗り越えねばならぬが、さて、儂ははたしてどこまで生き続けることがかなうであろうか。




ショウゾウは意を決して、G級ダンジョン≪悪神あくしんいざない≫の守護者が待つ部屋の扉を開け、中に足を踏み入れた。


この場所に来たのは二度目だが、こうして自らの足で中に入るのは初めてだ。

前回は≪鉄血教師団ティーチャーズ≫によって半ば強引に連れ込まれ、そして身動きが取れないほどに弱らせたボスモンスターにとどめをさすよう強要された。


このG級ダンジョンのぬしはワイルドボア。


灰色の毛皮をした、ひと回りほど大きなイノシシのような見た目をしているが、おそらくその行動パターンや攻撃方法などもそれに類似していることだろう。


鉄血教師団ティーチャーズ≫によって無力化させられていたことからそれ程脅威ではないとも思われるが、単独で挑むとなると話が違ってくる。


猟友会にも一応名を連ねていたのでイノシシの生態を少しは知っているつもりだが、連中の突進力は侮れないし、噛む力も思いのほか強いのだ。


ショウゾウは魔法使いであり、それを受け止めるだけの膂力や見てから躱すような機敏さは乏しい。

決して相性が良いとは言えないのである。



自然洞窟を思わせる内観の広々とした部屋の中央に、この部屋の主はいた。


鋭い二本の牙を備え、荒々しく吐息を吐く。

体長は大柄な成人男性より大きく、その胴のふとましさが一層の威圧感をこちらに与えてくる。


『よぐ来た。おではながいあいだずっとこの日を待っていだぞ。ことばではなく、その身をもっで、ぢがらをしめせ』


これまで同様に脳に直接語りかけてくる声が届いたが、少し様子が違うようだった。

活舌が悪く、少しなまっている。

知性もあまり感じられない。


そしてショウゾウが何を言うべきか思案する間も与えずに、突進してくる。


ショウゾウは必死にそれを避け、ワイルドボアは壁に激突したが、すぐに向きを変え、再び向かってくる。


イノシシという生き物は元来臆病で、自ら人間に突進してくることはない。

繁殖期で興奮していたり、至近距離で出会うなどして驚かせたりしなければ、大人しい生き物なのだ。

そこが魔物と普通の動物の差なのであろうが、ワイルドボアには明らかな殺意があり、目にはある種の狂気が宿っている。


「思ったよりも速いな」


ワイルドボアがこうして生きて動いているのを見たのは今回が初めてだ。

鉄血教師団ティーチャーズ≫ほどでないにせよ、それなりの前衛がいて、集団で囲めばそれほど苦戦する相手ではない。

突撃されても当たり所が悪くなければ即死ということは無いだろうし、あえて一撃受けて、スキル≪オールドマン≫の相手を老いさせる力で弱らせるという手も使えなくはない。


しかし、脳震盪など起こしては目も当てられんし、痛いのはやはり嫌だな。


ショウゾウは、消費魔力マナ倍増のデメリットに目をつぶり、≪土石変化ストゥーラ≫を詠唱破棄で足元の地面に使用した。

大きな負荷を感じたが、このぐらいの魔力であれば、今のショウゾウにとって支払えないほどではない。

≪老魔の指輪≫の魔力回復の増進効果もある。


ショウゾウの真下の地面が盛り上がり、ワイルドボアをはるか下に見下ろせるぐらいの高台を形成する。


これなら突進できまい。


「火よ。集い爆ぜる矢玉となりて彼の敵を撃て。火弾ボウ


ショウゾウの≪石魔せきまの杖≫から放たれた火弾ボウがワイルドボアに命中する。


闇の魔法の神髄を得たことにより、以前より強化された火弾ボウは一際大きく、威力も増している。

だが、生命力あふれるワイルドボアを即死に至らしめるにはやはり威力不足だったようだ。


ショウゾウは詠唱し、安全な高台からワイルドボアが完全に息絶えるまで火弾ボウを打ち続けた。


黒大蜘蛛ブラック・ウィドウの時のように闇火弾デア・ボウを使わなかったのは、相手を痛めつけるためでも、侮っていたからでもなかった。


守護者を倒し、迷宮の消滅を引き起こすためには、闇に反転させた魔法を使用する必要があるのか無いのかを確かめたかったのだ。


必要な要件が、ショウゾウ単独の撃破だけでよいのか、そうではないのか。

これから、より多くの魔法を契約するに際して、どういう基準でそれらを選ぶかの材料を得たかったのだ。



「これで、どうだ。力を示したぞ」


ワイルドボアが息絶えるのに要した火弾ボウは五発。


気長に息絶えるのを待つのであれば、おそらく二、三発で十分だったとは思うが、気長に待っているのは性に合わなかった。


そしてやはり、闇魔法の使用は必要なく、単独撃破こそが重要であるようだ。

もしかすると強化されている時点で火魔法も闇の魔法に組み込まれている可能性もあるが、これで以後の迷宮攻略時に止めをさす方法を闇魔法に限定される恐れは消えた。


ワイルドボアの死体が魔石と牙を残して消え、代わりに幽霊のように半透明な人影が現われたのだ。


イノシシの頭部をした人間。


いや違う。

イノシシの頭部を加工して造ったものを頭にかぶっているのだ。

そのせいで鼻から上の顔が良く見えない。

背は決して高くはないが横に広く、恐ろしいほどに発達した筋肉をしていた。

露わになった上半身が見るからに人間離れしている。


半透明なその屈強そうな男は、ゆっくりとショウゾウが立つ高台のふもとに歩み寄り、そして跪いた。


『あなださまを、あらたなる闇のあるじであると、おではみとめ、あがめます。おでは獣魔グロア。あるじよ、どうかおろがなおでに、そのとうとき名をおおしえください……』


なんだ?

今、主と認めると言ったのか?

今までと様子が違うぞ。


獣魔グロアは頭を地面に押し付け、ひたすら畏まっている。


「儂の名はショウゾウだが、主として認めるというのはどういうことだ?」


『ショウゾウさまにしだがい、ショウゾウさまのやくにだちます。おでをショウゾウさまの眷属けんぞくの端におくわえください』


たどたどしく、まるで誰かにそう話すように教えられた幼子のごとく、棒読みの発声だった。


これは予想外の展開だ。

これまで出現した幽霊どもは会話こそすれ、すぐにどこかへ去ってしまったが、この獣魔グロアは儂を主と呼び、足元で跪いている。


どう処すべきか、逆に戸惑ってしまうな。


「役に立つというが、そのような幽霊じみた姿で、どう役に立つというのだ」


『たしかにこのままではおやくにはだてませんが、しばしのじかんをいただければ、きっと……。おでだちめいきゅうのしゅごしゃは、おおいなる闇のあるじにつかえるためにぞんざいします。闇のあるじにしたがい、イルヴァースにしんなる闇をとりもどすのがしゅぐがん。どうか「眷属の端にくわえる」との、げん、げ、言質げんちをくださいますように……』


「……まあいいだろう。それほどに言うならば、そのおぬしの言う眷属に加えてやろうではないか。だが、儂には儂の考えがあるし、計画の邪魔になるようであれば非常に困る。その時は儂の目の届かぬ所へ消えてもらうぞ」


『ありがたき言質げんぢ、たじかに。これでおではショウゾウさまのちゅうじつなるじゅうしゃ。ごろせとめいじられればなにものをもごろじてみせますし、しねとおおせならば、すぐにこのくび、目のまえで切りおとしてみぜましょう』


獣魔グロアは顔を上げ、イノシシの頭で作った被り物を脱いで見せた。


それはところどころが焼けただれた醜い素顔だった。

その上、上唇から下唇にかけて縦に古傷のようなものがあって痛々しい。


しかしその瞳はまるで少年のように純粋で真直ぐだった。


『あまりながくこうじていると、われらの敵にかんつかれてしまうらじいので、もういぎますが、かならずやもどり、はぜざんじます。それでは……』


獣の覆い面を被り直し、忽然と消えた。









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