第2話 革帽子の男
気が付くと、
身に着けていた衣服は消えおり、全裸だった。
高級腕時計、財布、老眼鏡。
所持品はどこにも見当たらない。
そもそもここはどこなのだ。
見渡してみるが、周囲はどこまでも木々が生い茂るばかりで人影一つ見当たらない。
はっと思い付き、腹部を確認してみたが割腹自殺した際の傷はなぜか無かった。
「夢か、儂は気を失い、夢でも見ておるんじゃろう」
不破昭三は静まり返った森の中で一人そう呟いた。
「夢じゃないぜ」
突然、背後から声をかけられて不破昭三は心臓が止まりそうになる心地がした。
先ほど見渡した時には、確かに誰もいなかったはずだ。
それが今、幅広の羽飾りが付いた古めかしい革帽子を目深にかぶった不気味な男が、木に寄りかかり、こちらを見ていた。
その顔は酷く青ざめて見えて、口にはなにやら牙のようなものが見える。
その手足は長く、立ち姿はどこか不吉なものを感じさせるが、それでいて妙に興味をそそられた。
「だ、誰だ」
「誰でもいいじゃねえか。まあ、あんたの命の恩人とだけ言っておこうか」
「命の恩人?」
「そうだ。その腹の傷、綺麗に治ってただろう。それと全身を蝕む病魔。体調はもうすっかりいいだろう?」
言われてみると確かに倦怠感や体中の様々な痛みが消えていた。
心なしか、視界もはっきりとしており、体調は久しく覚えがないほどに良い。
「お前が治してくれたというのか?」
「まあな。もう死にかけのひどい状態だったが、これでもうしばらくは生きられるだろう」
傷や病を治すことなど普通の人間に出来るはずもないが、確かに体の不調と割腹により負った傷は癒えていた。
不破昭三は、そのことに感謝しつつもこの奇妙な革帽子の男に対する警戒を一層強めた。
只より高い物はない。
八十八年の人生でそのことは身に染みるほどに経験し尽くしていた。
あの状態から完治させるなど、人の力では不可能だ。
となれば、人外の何かなのかもしれない。
「神……、いや神というよりは悪魔といった方がぴったりとくる風貌だな。お前さんは……」
「ハッハッハッ、悪魔か。命の恩人に向かって、なんという態度だ。さすがにあれだけ大勢の人間を自分の道連れに殺そうなどと考えるやつは違うな」
奇妙な革帽子の男は、愉快でたまらないといった様子だった。
それにしても風変わりな格好だ。
まるで中世ヨーロッパやそれを題材にした映画から現れ出たかのようだ。
古めかしいが、その材質は良いものを使っていそうで、身に着けている装飾品もよく見れば価値がある物に見える。
「まあ、あれだ。悪魔ということにしておいてやろう。そんなに大きくは違っていないからな。その悪魔がどうしてお前を助けたのかわかるか?」
ほら、始まったぞ。
先に親切を押し売りしておいて、偉そうにそれ以上の代価を要求する気だ。
「おいおい、そんなに疑り深い顔をするんじゃない。いいか、見返りなんかは何も要求しない。俺はただお前のどす黒い魂が殊の外、気に入ったのだよ。自分の孤独な死を紛らわすためだけに罪のない人間を巻き込み、それの何が悪いと本気で思っている不破昭三、お前の魂がな。お前はそれを微塵も悔いていないし、罪の意識だって感じちゃいない。それにお前、事件を起こす前にもたくさん人を殺めているな? しかも、それだけじゃない。他者を押しのけ、多くの人間を不幸に陥れ、それらを踏み台にして人生の栄光を掴んだ強き者。それがお前だ」
こいつ、儂の何を、どこまで知っている?
不破昭三はもう数本しか残っていない前歯で親指の爪を噛んだ。
「俺がお前に望むことはただ一つ。この異世界で思う存分、お前に自分の人生を楽しんでもらうことだ。そうすれば自ずと俺の目的は達せられることとなる」
「待て、異世界とは何だ? ここは一体どこなんだ」
「フフッ、悪いがそれを丁寧に教えてやる時間はもう残っていないんだ。俺はここに長くはいられない。だから、代わりにこれを用意した。この本に、お前が生き残るためのすべてが書いてある。後でじっくり読むがいい」
革帽子の男は一冊の本と大きめの麻袋を不破昭三の目の前に出現させた。
「最後に一つだけ注意しておくが、その本の中身は誰の目にも触れさせてはならない。俺の存在はこの異世界では禁忌とされており、その本の存在が俺の存在そのものを証明するものであるからだ。もし、その戒めを破ったなら、その本はたちどころに灰となり消え去るであろう。もう、会うこともあるまいが、せいぜい足掻いて俺を楽しませてくれ。くれぐれも簡単には死ぬなよ」
「まっ、待て。待ってくれ。まだ聞きたいことが……」
不破昭三はそう言って呼び止めようとしたが、一陣の生臭い風が突然、辺りに吹きすさび、革帽子の男の姿は忽然と消えてしまった。
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