第7話 「どこでも」
私は彼女に怪我をさせてしまったらしかった。怪我と言っても足をくじいてしまった、くらいの。
いくら私でも多少は罪悪感があり、それをはるかに超える憎しみと懐疑心があったって訳。
そうは言っても会って最初には謝ろうと決めていた。
だってDVの基本は手を出した後に優しくすることなんでしょ?
ドアをガラガラ音を立てながら開ける。ここのドアはいちいち締めなければいけないから面倒だ。まぁ、来たの初めてなんだけど。
一番最初に目に入るのは保健の先生。
若くて美人で生徒に人気。特に男子生徒。
見る度に思うが、保健の先生はこうでもなきゃ務まらないのであろうか。作品上でも現実でも、容姿が美しい先生を何度も見ていると、本当にこの人は保健の先生になるための勉強を経て今の職業についているのか、甚だ疑問を持ってしまう。
私の見解としては、最初に面接を行っているのではないかと思う。そう、保健の先生になるための面接だ。
それに受かって初めて保健の勉強を始めるのだ。でないとドラマに出てくる先生たちが、あんなに綺麗で男子の憧れの的になっていることの説明がつかない。
それに、私の目の前にだって証拠がいる。
でも、私は彼女に保健の先生になんかなってほしくないと思っている。だって彼女らは、結局生徒とくっついて終わりだ。
そんな憎しみともつかない感情を持ちながらも、私は視線をスライドさせる。
見えたのは閉じられたカーテン。誰も言ってない。誰も教えてくれてないが、私には彼女がそこにいるのが見える。
匂いなんかでもなくて、雰囲気とかでもなくて、本能的に私の体はそこに行きたがっている。
それだけで根拠は十分じゃない?
「高橋花です。少しお話がしたいんですけ───、あぁそう、彼女と、はい。あ、ありがとうございます。では」
名前を告げれば、先生は少し戸惑った。しばしの逡巡の後、彼女は部屋を開けることにしてくれた。
私が謝りに来たとでも思ったのだろうか。とんだ勘違いだが、とてもありがたい。
最近の大人は学生に綺麗なものを求めすぎてしまっている。喧嘩が起きれば教師が場所を作り、仲直りを強制させる。
仲直り?それは両者が各々の非を認めて初めて道が開かれるものだ。しかも道が開かれるだけであってそれが成立することはほぼない。
学生のプライドは本当に面倒なの。大事なところで邪魔するくせに役に立つことなんて見たことがない。
「仲直りしたい」なんて思ったとしても、その醜いプライドというやつは、それを全力でねじ伏せる。
教師への建前もある以上、上辺では和解をしてる風を装う。
でもその場の彼らの目を一度しっかりと覗いて見てほしい。その奥には憎悪が宿っており、この和解の場を設けられたことにより、より強固なものに変貌しているだろう。
だから、互いの互いに対する暴力は永遠に続く。形はなんであれ相手を傷つけるのだ。
でも教師はそれに気づくことは決してない。
目の前の保健の人もそうなんだろう。だからこうやって和解の場を設ける。
そして自分がいいことをしたのだと思うのだ。
これから尋問を受ける彼女と、ここに入ってくるのを咎められる生徒に、誠に遺憾な思いを馳せる。
ゆっくりカーテンを開けた。中の彼女がびっくりしないように。
それでも彼女は体を震わせながら、私の動向を血眼で追っていた。
秋にまだ完全には移行していない季節だと少し暑いような布団がかかっていた。
彼女はそれを、爪を立てながら掴んでいた。
まるで歯を食いしばるように。
いや、覚えていないが本当に食いしばっていたかもしれない。
ちゃんと目に焼き付けておけば良かった。もしその状態の彼女が目の前にいたのであれば、私は本当に取り返しのつかないことをしでかしていたかもしれない。
私は迷うことなく彼女の顔に手を向かわせた。
「さっきはごめん。私も気が動転してて。だから私が君にしてしまった分、君も気が済むまで私にしていい。───本当に、ごめんなさい」
迷うことなく彼女の頭に乗せられた手を、小動物を慈しむみたいに動かした。右に左に。こんな脆い彼女を、壊してしまうことがないように。
「だからゆっくりでいい。君が私に伝えるべきこと、いや、伝えたいことがあるなら、聞かせてほしい」
「じゃあ、話す。ううん、話させてほしい。でも、ちょっと待って。一瞬。一瞬でいいからこっちに来て。顔、近くで見せてよ」
「そんなことならいくらでもしてあげるよ。君に顔向けできるような状態かは疑わしいけどね」
さっきまでの触れただけで壊れてしまいそうな空気はどっかに吹っ飛んでしまったみたいだ。
私は笑みを浮かべたまま彼女に近づく。
ほんとに敵わないよ。あんなに憎かったのに、もう君を求めてる。
そんな私の感情を見透かしたような目で、彼女は私に慈愛の念を向ける。
私の前に両手を差し出し、早くっ、と言わんばかりに急かす。
急速に進む私たちの時間は、変わらない速さで音を刻む時計に乱されるようだった。
私の頬を掴んで、顔を極限まで近づける。そのまま一分くらい見つめ合う。
じきに二人とも声を高らかに笑い始める。ただ笑っていた。自分たちの空気をリセットして、また元の二人に戻るみたいに。
あぁ、これは仲直りみたいだな。保健の人も、案外勘違いではなかったのかもしれない。
それから時を待たずして彼女は私を抱き寄せる。バランスを崩した私はベットに倒れ込んだ。
横には彼女の顔があって、全てを溶かしてしまうほどの甘くていい匂いが脳を満たしていく。
久しぶりに彼女と触れ合うことに恥ずかしさを覚えたかもしれない。顔が見えていない方が逆に恥ずかしいのかもしれない。
初々しいなぁ、なんて他人事に思っていた私は、ここ最近で一番満たされていた。
しばらくそうしていた。彼女もこれくらいの触れ合いを望んでいたのかもしれない。
全てを吐き出すみたいな長いため息をしてから、幸せな空気で肺をいっぱいにするみたいに吸い込む。
私もそれを繰り返した。それだけが私たちの言語みたいに。それだけで私たちは通じあっているって思えるみたいに。
とうとう保健の人が帰ってきた。
「もうすぐ授業始まっちゃうわよー。どうする?───さん、平気そうなら教室戻った方がいいかもよ」
「どうだろう......。まだ、無理かもしんないですね」
「そっかぁ。あ、高橋さんは戻りなよ。また来てもいいけどね」
「あー、私、ちょっとお腹痛いかもしれなくて───」
保健の人が私を少し睨む。別に怒ってる感じではなくて、呆れてる感じ。
「いや、これちょっととかじゃないかも。あ、やばいやつかもしれないです。あっ、痛い痛い痛い───どうしましょうか、先生?」
保健の人は苦笑混じりに手を上げる。お手上げ、ということだろうか。
銃が出てくるようなドラマが好きそうだな。しかも二、三話だけ普通に見て、それからは倍速で見ちゃうタイプの方。
「それじゃあ、早退しよっか。───さん付き添ってあげて。立つのも大変そうだから」
まったく、───さんの見舞いに来たはずなんだけどなぁ。
彼女は満足そうにそうつぶやき、ドアを開けて出ていく私たちの後ろ姿を見つめる。
これはやっちゃいけない事だよなぁとか思いながらもそんなことを生徒のためにやっちゃう自分をかっこいいなんか思っちゃってるんだろ?
ほんっっとにチョロい。というか使いやすい。
ドラマの見すぎだよ、アホが。
でも、アイツが保健室にいて心から良かったと思ってる。
もう一人のババアは可愛い女子に色目使うんだよな。それに早退なんかさせてくれないし、さっきみたいなこと言ったら担任にちくられそうだ。
内心で感謝しつつ、私は彼女の手を引いて学校を抜け出した。
あれ?付き添いは彼女のはず───まぁどうでもいいけどね。
黙って彼女はついてくる。私の顔を見上げて、目が合えば満面の笑みを浮かべる。
「君はどこに連れていってくれるの?」
どこにでもついてきてくれそう。
長年連れ添った愛犬みたいだ。
彼女にきちんと首輪をつけ逃げられないようにする。彼女もそれを望んでいるのだからなんの問題もない。そうでしょ?
校門を抜けたあとの爽快な気分は、何にも変えられない代物だった。彼女も同様に罪悪感と高揚が混ざったような表情をしている。比率は三対七くらい。圧倒的だ。
「どこだっていいでしょ?」
私は振り向いて語りかける。
「まぁ、いいけどさ」
少しムッとしたような顔。少々足音が大きくなったように感じた。
うん。やっぱりどんな顔でも彼女は美しい。
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