第6話 ───くん

ここで私と彼女の、転機になる一日のことを明記しておきたい。

それは「肌寒い」が「寒い」に差し掛かるあたりの日だったと思う。


教室のドアを開ける。あのガラガラって効果音が似合うあのドア。


「あ、花ちゃん!おはよう。今日はちょっと寒いね。そろそろコートの出番かもね」

教室の窓際から聞こえる優しさが滲み出てる声。それは徐々に勢力を増しつつある寒さを解凍してくれるような、そんな暖かさがあった。


彼女の前の席に腰掛ける。彼女はいつも教室に一番乗りで、できるだけ早く出ている私も彼女の登校姿を目に収めたことはない。


「なんで君はこんなに早く学校に来るの?別にいいことないでしょ」


「そう、かなー?私は好きだよ。誰もいない教室。学校なのに誰もいないって、なんか良くない?」


「外はずっとうるさいけどね。本当尊敬するよ、私は省エネだから」


窓の外を見つめながら、ほぅっとため息を一つ。

「省エネ」がツボにハマったのか、彼女はしばし笑いこけていた。あぁ、可愛い。


「それにね、私としては、みんながいる空間に入る方が辛いんだよね。だから最初から置物みたいにここにいればさ、誰も気にしないでしょ」


私と同じように窓の外を見つめる彼女の目には、私と違って憂いが含まれている気がした。この世そのものを慈しむような、恨んでいるような、そんな感じ。


「それにさ、こんなに早く来ても君は会いに来てくれる。君と二人なら、別にそれ以外は何でもいいんだよ」


私を光が途切れそうな目で見つめる。外にはそこまで強くもなく、かといって出ていきたくなくなる程度の雨が吹きさらしていた。

校庭からは恵の雨を賞賛する数々の声。ミストだーっ、なんて言ってる彼らを横目に、いや横耳に私は彼女の顎を持ち上げる。

人に見られるリスクがある中での行為は、やっぱり気持ちいい。最初は必死に抵抗していた彼女も、私の眉尻のたれた顔を見て、じきに力を失っていった。

唇を離した時には彼女はもう息するのに必死で、でも羞恥で顔が真っ赤で。

さっきまでは人に見られたっていいと思っていた。逆にそっちの方が燃えそうだし。

でもこの顔は人に見せたくないなぁ、なんて思う。私のモノ。私だけのもの。


そんなに苦しそうなのに、彼女はおねだりするような表情で私を見上げる。私の頬を掴んで、頼りない力で押さえつける。

外そうと思えば力を入れなくても外せたと思う。でも、彼女の顔には有無を言わせない何かが宿っていて、それは彼女を見る私みたいだった。

変なところで似てるんだなぁ、と思いながらさっきの続きを始める。

もう誰かに見られるかもしれないとは微塵も考えてなかった。人のことなど気にならないくらい私も必死で、誰も私たちを邪魔できないとも。

この教室を囲う雨の帳は異物を入れないんだと思う。ドアを開ける例の音も耳には入らない。

多分入ろうと思っても、これは入って来れないよな。当事者が心配するようなことでもないと思うが。

そうだ、異物は彼らの方なんだ。散々彼女を異物として排除しようとして。

これで君はやっと教室に自分の居場所を作れる。私も決して胸を張って友達とは言えない彼らを、知人Bより下級の猿Dくらいに設定しようかな。

君と二人だけで、私たちの教室を作ろう。

目だけで彼女にそう訴えかけた。


何回もキスを繰り返した。途中で休憩することはあっても、息が整う前にもう次を始める。

前に小説で、キスはいかがわしい行為ではなく、人と人を繋ぐ行為なんだと書いてあったのを思い出した。

その通りなのかもしれない。彼女は私と繋がることを求めているし、私も彼女を自分のモノしようとしている。


ふと彼女の口から私の知らない言葉が漏れるのに私の耳は目ざとく気づく。最初のうちは形を持っていなかったそれは、じきに人の名前の形を帯びてきた。


「ぁっ、う、───ん、───くっ、ん」


合計三回くらい自分の耳を疑った。

頬は五回くらいつねったかもしれない。それが無意味であることを知った私は、跡がつくくらいに眉間のシワを寄せた。


───?誰だ───君って。

でも彼女はそれに気づいていないのか、何もなかったように続きを求め、その後も平然とその名前を口にする。


満足したのか、もう限界なのか、どちらにしても彼女は自ら私を離れた。

彼女から離れるのは初めてだったと思う。

その時の私には、彼女が私じゃない誰かに拠り所を見つけたようにに見えた。

怒りとも憎しみともつかない感情を、いつものようには堪えられなかったんだと思う。


彼女を突き飛ばした。ありったけの力で。

椅子から落ち、絶望したような表情を浮かべる彼女に、思いつく限りの言葉で問いただした。


「誰?ねぇ誰、───君って、ねぇ答えてよ!早く!そんな人私は知らない。ねぇ、教えてよ。怒ってないから、ほら」


彼女の顔はみるみる青ざめていって、私を掴んでいた手は震え始めた。必死で首を横に振って、今までの言動を否定する。


「そんなことしたって分からないよ。答えになってない。さあ、自分の口で答えて、じゃないと分かんないよ」


目の前の彼女の目は、もう光を失っていた。

今思えば、私も反省すべきことは多い。それでもさっきの行動が間違っていたとは思っていない。

先に二人の関係を破ったのは彼女だ。二人でいるのに、他の男の話なんかして。

私しかいない、なんていつも並べていた彼女が、だ。

最初に私を連れ出したのは彼女だ。間違いない。でも今の彼女の居場所を作ってあげたのは他でもない私だ。


冷えきらない頭で、質問と呼べるかも分からない言葉を繰り返す私は、やっと教室に入ってきた他の猿Dの悲鳴で、ついに正気に戻った。


自分が彼女に手をあげた。

多分私は驚いたんだと思う。でも、驚いただけだ。さっきも言ったが、別に間違っているなんて思っていない。

だから尋問を再開。彼女が泣いていても別に気にしない。泣いて許されるなんて甘い考えを持たせちゃ彼女に悪いし。そう、彼女のため彼女のため。

私ってば優し〜い。

そこら辺の木にいた蝉も感動して鳴かなくなっちゃったし。


楽しい時間はすぎていくのが早い。

さすがに猿は見て見ぬふりをしてくれなかったみたいだ。私の手は息を切らしながらも、走ってこの教室に向かってきた教師によって、自由を失うのであった。


ん?楽しい時間?あぁ、楽しかったんだ。私。


今日の収穫は、彼女の泣き顔を見れたこと。

これはSSRだし、可愛さも百点満点だ。気持ちだけでは多分、馬鹿どもが言う百二十点満点とかと同じなんだろうけど、あいにく私はそういうのが嫌いだ。

そういうの、ってのは頭の悪い感性というか、まぁそういうのだ。わかってくれるか?


皆さんお気づきだろうが、私は基本人を見下している。ほとんどの人間を猿だと仮定し、ギリギリ言語が通じるか、意思疎通が図れない野生型に分類する。

しょうがないでしょ。何にも分かってないんだから。

まず、彼女を排除しようとするって時点で馬鹿そのまんまだよなぁ。なーんも分かってない。

第一彼らは彼女に触れる権利すら持っていない。いじめるなんてもっての外。私に許可もなしにするのは限りなくナンセンスだ。


お前なんもしてなかったじゃん、なんて私に言わないでおくれよ。事実ではあるのだが、立ち向かえなかったとか、怖かった、とかつまんない理由ではない。

ただどうでも良かったのだ。彼女がいじめられても私の立ち位置は変わらず彼女のそばだし、彼女から離れていくことなんかできっこない。


というか、どちらかと言えば好都合だったのかもしれない。


いじめが起きる→放っておく→彼女が辛くなる→私に拠り所を求める→居場所をあげる

で、どんどんいじめはエスカレートしていく。こんな理想的なサイクルがあるだろうか。


激しくなるいじめと私への依存は比例関係だし、それに伴って彼女のクラスでの居場所はどんどん少なくなっていく。

こう見ると結構感謝だなぁ、なんて思うけどそれとこれとは話が別なのだ。


彼女をいじめていいのは私だけだし、彼女の泣き顔を近くで見ていいのも私だけ。

あ、さっき私たちのこと見たあいつって誰だっけ。探しとこ。


そう、だから奴らに彼女をどうにかしていいなんて権利はない。というかいじめに至るまでの前提が間違ってるんだなー、これが。

奴らはまず、彼女を自分らと同等のものだとして見てはいけない。彼女はまさしく可愛がられるために生まれてきた生物であるのだから、そこら辺の猿は彼女と同じ空気すら吸っちゃいけないということをわきまえて欲しい。


自分でも分かりきっているだろう。彼女は違う。普通の人間とは根本的に異なる。

可愛くて可愛くて、汚したくて壊したくて、そんな成分の塊みたいな存在。

奴らが彼女に持つ感情は嫉妬なんていう立派なものではなくて、神々しいものに向けられる畏怖のそれだ。昔の人は自分たちではどうにもならないことを神に求めたんでしょ。それと同じ。

自分たちには無いものを持ってる彼女に、現実とは一線を介した何かを求めただけ。


こんな話しても仕方ないか。ごめんね長ったらしく話して。

でもこんなに説明したって君たちに彼女のことは1%だって理解できない。


まぁいいや。私だけがわかってればいいんだし。



じゃあ続き続き。

彼女の泣き顔がとてつもなく可愛かった、ってところからだね。

可愛さは百点満点。で、私はそれを見てなんかに目覚めちゃったわけだ。泣き腫らした彼女は満面の笑みのときの彼女の数倍は美しくて、どうしようもないほど色っぽかった。

あの時誰かが止めに入っていなかったらどうなってたのかな。

そんな想像をしつつも、さっきの今でそんなことを考える私に、別に嫌気なんか差さず、そのまま想像を決行。

その時の内容は些細な断片みたいのしか覚えてないけど、中の彼女はさっきのなんか比にならないほど、燃えた。



授業が終わるチャイム。妄想を続ける間に気づけば二時間近くたっていたらしい。

一種の夢見心地のまま、夢を現実にしようと決意を固めた。


思わず握りしめてしまった手のひらを見て、雑務を思い出す。

さっき教師に二限休みに教員室に来るように言われていた、らしい。少なくとも手にはマジックでそう書かれている。半ば強制的にこれを行わせるのは立派なパワハラなのでは?と、心の中で異議を申し立てる。

残念だが私はこの文化が大嫌いだ。


教室を出ようとドアの方に向き直れば、五感で感じる視線、視線、視線。いや実際には三感くらいだが、通常の五感に勝るくらいに体には伝わってきた。

今では私はなんて呼ばれているんだろうか。

暴力女?ホモ?色々出てくる。DV女なんてのも悪くない。意味をきちんと理解して使っているのかは物議を醸すが。


彼女を突き飛ばした時のことを思い出し、軽い足取りで教室の前のドアへ向かった。

そこでたむろっていた男子生徒らが、一瞬恐れるような表情をして、後ずさるように道をあける。

ように見えたが、すぐさま体勢を整えて語り始めた。


「お前、すぐ人を突き飛ばすし、それに、なぁ、ホモなんだろ。あの───のこと好きなんだろ、なぁ、そうだよな。───あ?答えねーの?よっわ。てかダサっ」


次の瞬間には壁の方まで移動して尻もちをついている彼───猿Cが視界に移る。

身構えてない状態で人から衝撃を受けると呆然とする生物らしい。猿たちは。

本当にだらしない顔。


今日だけで二つアンプルが取れたのだから、整合性はかなり高いと判断する。

あ、彼女は猿じゃないよ。ましてや人間なんかでもないけど。


わかっていると思うが私のその足は教員室に向かう階段と逆向きの階段。つまり下ったのだ。

行き先は───その通り。保健室。

さっきの答えが聞けるまで、今日は帰れないから、ね?

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