第4話 呼吸と拍動
そんな紛い物の夏に目を輝かせた振りをしていた私の視界に、それまた紛い物の夏を形にしたみたいな少女が映っていた。
まだまだ子供っぽくて、夏の女の子と言えばコレ!みたいな服装をしていた。それでいて息を飲むほど妖艶だった。
一度でも見てしまったら、もう目を離すことは出来ない。絶対に触れてはいけない、何か禁忌的なものを彷彿とさせるような。
私がどれだけ努力したって、彼女の美しさのたった一割だって表現出来ない。
金縛りみたいに動けなくなっていた私を、彼女はすぐに見つけてくれた。
不安で揺らぐような目は、瞬きのうちに喜びのものに変わった。
何日か前に逃げ出してしまった猫を見つけたみたいな表情。私も思わず彼女の元へ走っていきそうになってしまったよ。
目が合った瞬間、この人だ。と思った。
これまでの陰鬱な、我慢の塊みたいな人生から私を解放してくれる。
私の視界に収まる彼女には、天使の輪っかみたいのが見えていたかもしれない。
それくらい記憶の中の彼女は神々しく、それでいて決して近寄り難い訳でもない、俗に言う聖女みたいだった。
彼女は私の手を取り、特別なものを見せてくれると言った。
私を引っ張っていく彼女に身を任せれば、どこか夢の国のような場所に行けると、私の心はそう信じてやまなかった。
「こっちこっち!走って、走って。そうそう!君面白いよ。よーし、じゃあ競走だ!」
そう高らかに話し続ける彼女に私の目は奪われ、公園にいた記憶などとうの昔のように感じていた。
世界はこんなに綺麗だったのかと、これまでの記憶を疑うような美しい光景に、私は息をするのを忘れていた。
心の中では友達なんて思っていないただのクラスメイト。夏休みなんだから家にいるなと、ほとんど強制的に私をほっぽり出した施設の大人。
そんな環境に身を隠していた空っぽな自分。
そんなもの関係ないと、私の全てを肯定するような彼女の生き様に、私は初めて喜びを感じた。
この人なら、君なら私をどこかへ連れていってくれる。こんな世界から解き放って、自由の世界へ連れ去ってくれる。
彼女のたった一言で、生まれてきて一度も息をしていなかった私は、呼吸の仕方を教えられた。
この時初めて私の心臓が動気出したんだろう、と本気で確信している。
「君、名前は?私は花、高橋花」
私は聞かれてもない名前を彼女に告げた。言いたくてたまらなかったのだ。自分を知ってほしい。自分の存在を宣言したい。
彼女に認めてもらえれば、それは紛れもない自分自身であり、存在する理由を与えてくれる。
「そうか、自己紹介もせず君を連れてきてしまったね。それに、いい名前だ。君に似合っているよ」
しばし息を整えていた。まさに長年離れていた恋人に会うみたいに服を正して、ああ、彼女はこれまた綺麗なワンピースだったよ。そう、美しい、彼女の体の一部みたいなワンピース。
曇りのない、輝きを止めることのない目で私を見つめて、満を持して口を開く。
その行為全てが愛おしく思えた。その空間一体がスローモーションになり、私は息を飲むように緊張していた。
「じゃあ改めて自己紹介といこう。
私の名前は──────」
その名前を含めた彼女の持つ何もかもに、その瞬間私は恋に落ちた。
それからの月日は流れるように去っていった。毎日公園へ行っては彼女を探し、見つければ日が暮れるまで一緒にいた。
彼女は私に、私の知らない景色をいくらでも見せてくれた。
森の中にある妖精の住んでそうな湖。
裏山のさらに裏にある人類未踏の地みたいな一面の花畑。
歴史的な発掘をし続ける宝物だらけの川辺のゴミ置き場。
いつかクラスの人間が話していたかもしれない。一度くらい耳にしていたかもしれない。
それでも私にとっては彼女が教えてくれた場所であって、私の生涯忘れることのない思い出であり、一種の秘密基地のようであった。
つまり、私と彼女だけのものだった。
全てが新鮮で愛おしくて、それでいてどこか儚かった。
君といればどこでも楽しくて、ただの置物として認識していた一つの岩だって、世にも美しい宝石に見えた。
嫌いだった雨だって、空からの贈り物だと思えた。
嫌いな人間たちを、割り切って嫌いなまま接することだって、君のためなら簡単だった。
ただ君と一緒にいたかったから。
「行こう」
君が手を差し伸べる。私が顔を上げる。君が私に微笑む。私も微笑み返す。君の手を取る。君が私を引っ張っていく。
これだけでよかった。たったこれだけで幸せ以外の何でもなかった。
でも、これは夏が見せる魔法であって、夢はいつまでも続かないことを知った。
泣きじゃくって顔をぐちゃぐちゃにする私を、君は黙って撫で続けた。
泣きやめ、とは言わずにただそばで座っていてくれた。
その優しい空間にずっといたい。このまま君と二人でいたい。君がいないと私は、この環境に耐えられない。
そのまま夢が覚めないでほしいとさえ願った。
「大丈夫。君は、大丈夫だ」
ただの慰めなのは重々承知していた。それでもその言葉に縋る。それだけがその時の私に出来る全てだった。
夏休みの最終日。私は彼女にたった二文字の言葉を伝えられず、去っていく背中を見つめることしか出来なかった。
「夏休みが終わっても、また会えるよね?」
その言葉に彼女は、ただ微笑む。
私の頭はそれを都合よく解釈した。
「また会える」
それだけを信じて、どれだけ時間がたっても彼女を待とうと決めた。
初恋で生涯を終えようと、中学一年生には背伸びすぎるそのくだらない決心は、たった一日で終わりを迎えることになる。
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