第2話 「月が綺麗ですね」
「おかえりぃ。今日暑かったでしょ」
彼女の言葉一つ一つが私の体を震わせる。気軽に返事なんてできるわけもない。
言葉が浮かんで喉まで出てきても、そこで止まる。言おうとしても、外に出て伝わる言葉になることはない。
クーラー効かせて起きた朝みたいだな、なんて思う。喉が機能しなくて気持ち悪くて。
彼女の前の私は外見とは裏腹に想像上は口が達者みたいだ。
傍から見た私は、汗にまみれて緊張を隠せないような愚か者なのに。
「それにしても少し遅かったんじゃない」
彼女は首だけでこちらを振り返り、私は肩をビクッと震わせる。振りまかれる彼女の髪の匂いが私をさらに落ち着かなくさせた。
この上で目を合わせてしまったら、もうどうなってしまうか分からない。
「別に怒ってるわけじゃないんだよ。ただ、先に連絡してほしいっていうか───、まあ心配なんだよ」
心配。たった二文字の言葉が頭の中を回り続ける。
「今日みたいに学校行ったりしちゃうからさ」
窓から覗く彼女を思い出す。心配の文字が頭を駆け巡る。記憶の中の彼女と目が合う。心配の文字が反芻される。彼女が笑いかける。
もうどっちの君かわかんないや。
数瞬を経て私の口は言葉を求めて動き出した。
「ちょっと、きょう、みたいのは、やめて欲し
い、かも。心配は、嬉しいんだけど、ね、」
彼女が身を乗り出す。さっきの匂いがさらに近く感じられる。
「それに、今日のは、ただ見に来た、だけ、でしょ?」
フラフラする頭の中でも私は必死に言葉を探した。
「今度から、は、ちゃんと連絡、するか───」
私の口は言葉を紡ぐのを止めた。否、止められた。
眼前には彼女の顔。至近距離で見る彼女は、私の中の彼女の存在をより強固にしていく。
やっと目が合った、と今にも口に出しそうな彼女。本当にどうにかなってしまいそうだ。
意識を失いそうになるほどの彼女を感じ、私の中の感情は彼女で染め上げられていく。
それでも私の自我はそれを拒み、流れ込む醜悪な何かを食い止めようと抗った。
「ぁ───」
私は自ら唇を離し、力の抜けた足を意志でつなぎ止める。再度彼女を見つめ、ほとんどないに等しい威嚇を行う。
虚勢をはっていても今にも崩れ落ちそうな私を見つめ、彼女は満足そうに舌なめずりをした。
「ああ、それでこそ君だよ。必死に私を拒んで、離れようとして、でも足が震えて。
それに少し、惜しいなんて思ってるんだろ。ああ、それでこそ君だよ。なんにも変わっていな
い、君そのものだ」
彼女の目は終始私を信じてやまないそれであって、曇りなく私を刺し貫いた。
私をとらえて離さない。私の恐怖の概念を形にしたようなそれ。
風前の灯火であった私の抵抗力はとうとう彼女の前にひれ伏した。
倒れそうになる体を、彼女はまるでそれを待っていたかのような動作で支える。
私よりも一回り小さい彼女はなんの不思議もなく私を抱えた。そして魅惑的な声を耳元で囁く。
「君はどうしたい?」
最初から選択肢のないようなその質問。
とうの出題者には私が悩んでいるかのように見えるのか、楽しそうな嬉々とした表情をしていた。
「君の、好きにして」
かろうじて声になる。悲痛な叫びのようなその回答に、彼女は不正解というように顔を暗くした。
数トーン低い声が部屋を満たした。
「強がらないでいいよ。君はそんなこと思ってない」
諭すように続ける彼女に呼応するように、周りに遅れたセミがいまだに鳴いている。暗闇そのものの窓外の景色は、私たちだけを隔てる壁みたいだった。
「好きにしてほしい、でしょ」
彼女はこれまでで初めて笑顔を見せたように思えた。心からの、心の奥底でケタケタ笑っているような、そんな感じで。
あー、でもこれだと私がSみたいだよなぁ。
確認するようにつぶやく。誰かにそれを肯定してほしいみたいに。
でもなぁ、と少々子供っぽく逡巡を繰り返した。
整理がついたのだろうか。再度口を開いた。
「自分の口でいいなよ。そっちの方が、ねえ
、気持ちいでしょ」
そう言って私に微笑みかける彼女は、本当に幼子そのままだった。
そのくせ私のことをどこまでも理解していて。本当にたちが悪い。
「あ、君笑った。あ〜、そうだよなぁ。やっぱ変わってないんだね。大丈夫大丈夫。そんな君が、私も大好きだから」
またそんなこと言って。変わってないんじゃない。君が変わらせてくれないんだろ。
それに今の私はあの時よりもおかしくなっていってる。誰のせいだろうな。
おそらく今の私の顔には貼り付けた笑顔みたいのが見えているんだろう。
「ああ、僕も君が好きだよ」
今度は虚勢なんかはらずに言えた気がした。
包み隠さず、淀むことなく。
こんな私の苦悩を、この禁忌の関係を、夜は全部隠して、全部なかったことにしてくれる。そんな気がした。
「知ってる。だから私も、って言ったんだよ。君、分かってたでしょ」
私はどんな顔をしていたろうか。どんな表情であっても、少女に抱き抱えられていながらこんな会話を続ける光景は、シュールとしか言いようがなかった。
夜が力を取り戻したような静寂が一体を覆っていた。さっきまで元気だった蝉も鳴くのをやめ、ヒソヒソ孤独に泣いているようだった。
それから何度も唇を重ねた。何度も何度も。息が止まってしまいそうになった。でも続けた。
それは機械的で、プログラムのように繰り返されて。
こんなことで興奮できるのか、人間は。
いや、安心してくれ。私もそっち側の人間で間違いない。
気づけば私の頬には一つの線ができていて、彼女は人差し指で優しく、腫れ物を扱うように丁寧にそれを拭った。
なんの涙だろうな。
分かりきっている質問で脳内を満たす。こうでもしないと正気が保てない。ただ一つのことに神経を集めれば、他のことは何にもしなくていい。
やはり私は機械的なことが好きらしい。全部決められたとおりに生きていたいなぁ、なんて思う。これも一つの正気の保ち方。
「辛いの?」
その時の彼女は、死んでしまうわが子を見つめるようだった。優しい温度で私を包んで、逃がしやしないと言ってるみたいで。
赤子にも束縛をするのかと苦笑。まあ出来ればその原因には目をつぶらせてほしい。彼女本来の感情ではないということだけ理解してもらえればそれでいいだろう。一体誰の影響なんだろうか。
「可愛こぶらないでよ。辛いわけがない。どうやっても私の目には楽しそうな君しか映ってないよ。器用だね。片方だけから涙を流すなんて。それに君は実際可愛いんだからさ。それ以上どう可愛子ぶるんだよ」
私の頭を猫の毛繕いみたいに撫でながら、さっきよりも低いトーンで話しだす。
私はといえば、その身の毛の立つような感触にも何の抵抗もせず身を任せていた。
出来なかったと言えばその通りだろう。
「辛そうにするならその手を離せば。そんな必死に私の服を掴んで。泣いている女の子に止められるのは、なんだか女たらしになったみたいだね」
「その通り、でしょ。僕を支配したつもりで。そうやって私をずっと縛り付けてさ」
彼女は驚いたような、何か企んでいるのか、目の奥に悪魔を宿したような表情だった。
「あ〜あ、言っちゃった。わかってんの?君が今何言ったのか。じゃあいいや。それにもう時間みたいだし。またあしたね、バイバーイ」
「あ、待っっ───」
彼女は消えるみたいに家を出ていった。彼女の残り香みたいな風が私を包んで、そして彼女と同じように私の前から消えた。
彼女がいないのに彼女を感じてしまう私を、私は本当に嫌い、気持ち悪く思った。
「ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。私にそんなこと言う権利なんかこれっぽっちもないのに。あなたから、君から離れないといけないってわかってるのに、それでもこの体は───違う、体なんて区別はできない。これも私。私があなたをどうしても求めてしまう。頭ではわかっていてもいうことを聞いてくれないの。だから、お願いだから、お願いだから僕を許して、君から僕を離れてはくれないか。本当に、お願いだから」
彼女を消し去った空間で彼女にすがり、いつまでも彼女に語り続ける。
それはあまりにも滑稽で、格好悪いことなんかとうに分かっていた。それでも、それでも私にはこれしかないんだよ。
こんな私を、君は許してくれるかい?
さっきまで彼女がいた場所で、空気を抱きしめる。息は落ち着いてきて、やっと頭が冷静さを取り戻していった。
自分で自分に吐き気を感じながら、遠い目で空に浮かぶ月を臨む。
これじゃかぐや姫みたいだなぁ、なんて思いながら、それでもどこか、届かないようなところを見つめて、私は長いため息をついた。
「月が綺麗ですね」
届かないことは知っている。それでも私の口は言葉をつむぐのをやめようとしない。
「どうか、元気でね。また明日」
カレンダーを見れば、まだ夏の終わりまでに二枚分くらいの幅があって、さっきよりも重い息がこぼれる。
早く終わんないかなー。
私はこれまでで一番、夏の死を望んだ。
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