第一章 彼女の話
第1話 「おかえり」
夕方に差し掛かる帰路でも日中の暑さは抜けようとしなかった。黒に近づいていく赤と水色のグラデーションの爽やかな空とは対照的に、生暖かくて気味悪い風が肩の横を通り過ぎてゆく。
寒さとは反対の極地にある空間にもかかわらず、私の体は震えを止めることはなかった。目に見える景色や体で感じる全てを私の五感は嫌悪し、拒否して鳥肌が止まらなかった。
そんな寒気を感じる私を裏切るように身体中が汗でベトベトになるんだから、夏はやはり救えない。
どうせ今日も熱帯夜だ。想像するだけでも足は動くのを取りやめたくなり、ボーッと空の色の狭間を見つめたくなる。
エアコンつけないと寝れないよなあ。
私はできるだけそれには頼りたくない種類の人間だった。電気代もかかるし、何よりも嫌なのは朝、喉が痛くなることだった。
口が乾いて喉の奥が水分を失っているあの感じ。それに陥る度に私は後悔を募っていくが、いざその夜がやってくると私は抵抗できなくなる。リモコンを手に取り、震える手でボタンを押すのだ。
私は熱帯夜という言葉それ自体も嫌いだ。なぜその名前になるんだろうか。夏日とか猛暑日とか、そういうのは分かる。というか妥当だ。
しかし、なんだ熱帯夜とは。熱帯?ここは温帯だ。八つ当たりなのかもしれないが、それを名付けた人というのは、つまりそれを定義した人ということになり、それがなければ私は「熱帯夜」を恨むことなどなかったのだ。
暑さは私をどこまでもいらいらさせる。
夏が終わるまであと二ヶ月近くもある。
こんなことを頭で考えていたって今日の夜はどうせ暑いし、家までの道のりは減っていかないし、もっとも、家に帰りたくない理由はなくなってくれないのだ。
やっとの思いで家に着いた。家、というより住居に近い私のアパート。高校生で一人暮らしだ。そこのところは察して欲しい。訳ありなんだ。
階段を上る足取りはそこはかとなく重たい。今までよりもずっと。
別に暑さが原因という訳ではない。ほんの少しも関係していないのかと問われれば、ほんの少ししか躊躇いが生じない程度には。
やっとの思いで玄関までたどり着き、取り出した鍵を刺した。金属の擦れる音と共に鍵が回る。
ドアノブに手をかける。回らない。手が動かない。力が入らない。
違う、拒否してる。ドアノブにかけられた右手を、左手は必死に抑えてる。雑な一人芝居みたいに私は寸劇を行っていた。
中に入ろうと手の力を強めれば、もう一方の体は必死に抵抗する。
右足に体重をかけようとすれば、負けじと左足は右足を引っ張るような形になる。
どうして、私はいつもこうなる?
いつまでたっても私は変われなくて、変えさせてもらえなくて、離れられない。
同じ体なのに格闘を繰り返す両手を見て、その滑稽さに立てなくなった。しゃがみ込んだ私を見た人は何を思うだろうか。
心配して声をかけるかもしれない。
怖がって近づかないかもしれない。
陰に隠れて様子を伺いながら、いつ話しかけようかやきもきするかもしれない。
でも私は、出来れば他人と同じ空間にいたくなかった。
私を一人にしてほしい。暗くなった景色の中で、私をひとりぼっちにさせてほしい。
孤独にしてほしい。寂しさに涙を流させてほしい。
苦痛を与えてほしい。立ち上がれなくなるほどの苦しみを与えてほしい。
私が二度とこのドアを開けたくなくなるように。逆でもいい。
ここにどうしても帰りたくなれるように、ここにしか居場所がないと思えるように。
そんな逃げる手段を探すのに必死な私を君は許してくれないことを、私は知っている。
ギィィィィ、
ドアが悲鳴をあげたような声。夏の怖い一面を蜂起させるような音色。その音たった一つでも、私を苦しませるのには十分だった。
顔をあげられない、目を合わせられない。
一度でもその顔を視界に入れてしまえば、これまでの葛藤が全て意味のないものになる。
毎日毎日抗おうとしてもできなくて、逃げようとすればするほど距離が近づいて、認めようとすればするほど体が拒否を繰り返す。
そんな葛藤を抱える私を、その葛藤ごと包んでしまうような、その綺麗な目。全てを信じてやまないような、疑いの欠けらもないその純粋な目。
「おかえり」
私の耳は彼女の声だけを拾うようになり、口は言葉を発する機能を失った。
頭ではダメだとわかっていても、体は彼女を受け入れ、彼女を欲している。
ああ、まだ私は変われない。変えさせてもらえない。
「ただいま」すら口にできずに私は暗闇の玄関へ足を踏み入れた。
ドアはまた泣きながら外と中とを分断する。全ては夜へと隠し、二人だけの秘密とされるように。
一瞬外の景色に目を向け、ほんのささやかな笑みを浮かべた彼女を見た人がいたとすれば、さっきの私のように力を失い、地べたに膝をつけただろう。
それくらい彼女は美しく、魅惑的だった。
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