5話 運命

十年前の夏が終わって寒さが心を突き刺すような季節だった。

「明日でこの街の皆ともお別れね。」

切ない顔をした私に彼は優しく微笑んだ。

「お別れなんかじゃない。きっとまた会える。僕は大人になった君の背中を見るいつかの日を楽しみにしているんだ。」

両親の仕事の都合でこの街を出ることになった。

「仕方ないわね。大人になった私の力強くて美しい背中。あなたに一番に見てもらうことにしたわ。」

彼は頷いた後、私に手を振って堤防沿いを歩いていった。

私は彼の弱々しくて頼りにならない背中を見つめた。

弱々しさも愛おしいのだ。

大きな声で彼を引き止めてしまった。

「ねえ、十年後。十年後の夏。必ずこの街に帰ってくるわ。またこの場所で会いましょう。」

彼はこちらを振り向いて満面の笑みで頷いた。

美しい彼の目には涙が流れていた。

それが最後に見た彼の姿だ。

「彼が亡くなった日の事。それは二年前の冬だったのよね。」

「そうだ。寒さ続きの冬だった。十二月四日。彼は水難事故にあった。前日の十二月三日。私は夢を見たんだ。それは海に彼が流される。そんな内容だった。これが初めての不思議な夢だったんだ。当時の私は、嫌な夢だ。その程度にしか考えてなかった。私の不思議な夢は対象の日を日が昇って落ちるまで見ることができる。彼は何故が堤防沿いのベンチに座って本を読んでいたんだ。それも日が落ちてきて空が赤くなるまで。その後は少し靄がかかっていて見えなかった。しばらくすると靄が消えてそこにあったのは海に流されている彼の姿だった。」

先生が話し終えたその時だった。

それは永遠のようで数秒だった。

「なつきくん。どうしたのだ。」

「見えたのよ。はっきりと今見えたわ。この場所から遠目に見える図書室のカーテンが靡いた時よ。彼が本を読んでいる姿が見えた。見間違いなんかじゃないわ。そうだとしても私は認めたくない。」

悲しそうでそれを悟られたくない。

そんな表情をした先生は黙って私を見る。

私はあの頃の様に。

幼くて無邪気で大人になりたかったあの頃の様に校舎へ駆け込んだ。

校舎内では靴を脱ぐ。

あの頃でも出来たそんな事すら忘れて図書室へ駆ける。

息を切らしながら勢い良く扉を開けた。

誰も居なかった。

春を感じさせる少女も居なかった。

「貴方っていつもそうじゃない。私に黙って勝手に消えてしまう。私に貴方のことを何も教えてくれない。私は十年以上の間も貴方を愛し続けてるのよ。もう私は二十四歳よ。大人なのよ。あの頃とはもう違うの。そろそろ私のことを大切にしてくれたっていいじゃない。貴方の事をいつまで待ってればいいのよ。最愛の人を亡くしてしまった私の気持ちにもなりなさいよ。貴方は私よりもあの頃からずっと大人で賢かったじゃない。貴方が私との約束を破ったことなんてなかったじゃない。あずみ先生から聞いたわよ。八年もの間、私と約束を交わしたあの日にあの場所で本を読んでいたのでしょ。ほら、帰ってきたわよ。早く貴方の姿も見せて。見せてよ。」

図書室中に響き渡った。

「なつきさん。」

廊下から春を感じさせる少女が頬を濡らしながら私を見た。

「私の中に遠く昔になつきさんとお話した記憶があるのです。美しい花畑で。その時のなつきさんは、それは夏の風物詩のような笑顔でした。またその笑顔を私は見たい。なつきさんには笑っていてほしい。あなたには幸せになって欲しい。」

少女は私を優しく抱き締めた。

「幸せになんてなれる訳ないじゃない。愛する人に二度と会えないのよ。分かっているわ。嘆いたって仕方ない事くらい。私はもう大人になってしまった。真実を受け入れなければならないの。分かっているのよ。でもこんな事なら大人になんてならなければ良かったわ。」

少女の腕を解いた。

「ありがとう。咲奈ちゃん。でももういいのよ。」

夏の風物詩で大人な私は少女の前で弱音を吐いてはいけない。

「あずみ先生の所へ行きましょう。」

少女の私より幾分か短い歩幅に合わせて歩く。

先生は海を眺めていた。

「言いたい事は分かる。この展開も夢で見たんだ。咲奈くんだな。このコインを大切に持っていてくれないか。」

先生は星が刻まれた一枚のコインを少女に渡した。

優しく受け取った少女はコインを強く握り締めた。

「物語。読みました。満天の星に消え行く子と夏の風物詩。あなたと遠く昔の私。あなたとなつきさんとの思い出を物語として書いていたのですね。」

「その通りだ。ただ、君は雪菜さんではなくて雪菜さんも君でもない。辿る必要は無いんだ。君は、私の物語を読んで雪菜さんに憧れてしまったのだろ。君は賢い。それも異常な程にだ。なつきくんや私には君が雪菜さんの記憶を引き継いで生まれた少女にしか見えないんだ。私達にそう思わせれる程に物語を読み取って表現することができる。私は感心したのだよ。だからやめて欲しいんだ。君自身を捨てないで欲しい。見失わないで欲しい。君はもう十分素敵じゃないか。なつきくんが夏の風物詩なら君は春の風物詩だ。」

少女と先生は目を見合わせた。

「あずみさんにはお見通しみたいですね。そうです。私には雪菜さんの記憶も感情もありません。欲しかったのです。満天の星に消え行く子の全てを欲しくなってしまった。子供が正義の味方に憧れるのと同じです。雪菜さんになりたかった。私じゃない何かになりたかったのです。」

先生が少女の手を握った。

「私が君の物語を書く。君が主人公で中心となって核心となる物語だ。君がこれから何をしようとしていたのかも全て知っている。夢で見たんだ。雪菜さんの終わり方を辿らないでくれ。死を持って愛を表現するのは美ではなく愚だ。」

少女は号泣した。

言葉にならない。

必死に私達に何かを伝えようとしている。

私と先生はただ泣き叫ぶ少女を見ていることしか出来なかった。

「私の物語。春の風物詩。楽しみにしています。」

そう残して走り去ってしまった。

「彼女の気持ちが分かるの。私もそんな時期があったわ。自分の全てを否定したくなる。別の何か。私以外の何かになりたい。夏の風物詩。私はこの言葉の意味をあまり分かっていなかったわ。でもなりたかったの。当時は何でも良かったのよ。」

「人はそういうものさ。なりたいものに明確な理由を付けれる人は一握りだ。最も砂場から宝石を見つけることよりも難しい。ただ、人為的に宝石を埋めた砂場ならどうだ。時間を掛ければ掘り当てることが出来るだろう。なりたいものや憧れの存在になる為には人為的な干渉と自身の根気強さが必要なのだよ。なつきくんが大人になれたのも周りの人々や経験。自身の成長のおかげということさ。」

「大人になりたくなかった。大人になることが孤独を意味することなんてあの頃には気づけなかったわ。」

「私もだよ。大人になんてなりたくなかった。」

大人になることに意味なんてない。

あの頃の私は意味の無いものを求めていた。

美しいくらいに子供と言える。

私は先生に抱きついた。

「ありがとう。あずみ先生。私はこの夏が最後になるのよね。何となく分かるわ。泣かないで。あなたは何も悪くないのよ。少し未来を見れるからって全てを変える義務はないわ。私は私自身で運命と未来を選択する。もう大人なのよ。そして夏の風物詩だから。」

今にも叫び出しそうな先生の口を封じた。

私はあの場所へ向かって歩き出した。

明るいとは言えない運命に向かって。

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夏の風物詩 NyanX @nyanx

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