4話 不思議な夢

十年の月日が流れ、再び夏がはじまった。

眠っている彼に一冊の本を供えた。

「あなたから借りた本よ。満天の星に消え行く子。大切に持っていたのだけど考えてみればあなたに返すべきよね。」

蝉の鳴き声と私と彼を照らす日差し。

あの頃と何も変わらない。

墓地を出て十年の時を経た町を見渡す。

「この町を出て十年かしら。町並みは何も変わっていないのに見る景色はあの頃と違うわ。何故かしら。」

懐かしさに浸りながら堤防沿いを歩いた。

古びた看板に暑さを飛ばしてくれる風鈴の音。

氷と書かれた暖簾は私を誘っている。

引き戸を引いてしまった。

「いらっしゃい。見ない顔だね。最近、引っ越して来た人かな。」

「こんにちは。昔、この町に住んでいて帰ってきました。なつきです。」

店主は探していた何かを見つけたような表情を見せた。

「君がなつきちゃんか。母から君の話をよく聞いていたよ。五年前に母は亡くなったんだ。生前にお世話になった人に手紙を遺した。そこに君の名前が書かれた手紙があった。そこで待っていてくれ。」

私は何も言わず、その場で立ち尽くした。

店主は封筒を私に渡した。

中には一枚の丁寧に折り畳まれた手紙が入っていた。


なつきちゃんへ

お元気でしょうか。なつきちゃんが五年前にこの町を出てからおばあちゃんは少し寂しさを感じます。この手紙を読んでいるということはこの町に帰ってきたことだと思います。同時におばあちゃんはこの町にはもう居なくなっています。時々、思い出します。大人とは何か。なつきちゃんがこの町の人々によく聞いていた事です。おばあちゃんにも聞いてくれたのを覚えています。答えは見つかったかな。なつきちゃんの思いを聞けなかったことだけが心残りです。これからもなつきちゃんらしくこれからを生きてほしいです。大人になれなくても良い。


「ありがとうおばあちゃん。大人になることを追いかけていたあの頃、おばあちゃんの答えは私を大きく成長させた。大人とは何か。答えはまだ見つかっていないの。いいえ、答えを見つけたくなくなったの。」

あの頃の私ならきっと涙を流していただろう。

十年は私を成長させてくれた。

同時に大切な存在を消し去った。

この時間軸を生きているのは私だけではない。

皆も平等に月日を費やす。

そして死も平等に訪れる。

それすらも平気な顔をして受け入れる事が大人なのだとすれば私は子供のままでいい。

「ねえ、店主さん。おばあちゃんはどんな最期を迎えたのかしら。」

店主は微笑みながら答えた。

「笑っていたよ。それは儚さや虚しさを吹き飛ばすような笑顔だった。」

「おばあちゃんは笑っていたのね。私や店主さんも笑顔で最期を迎えたいわね。」

店主は不器用な笑顔で黙って頷いた。

「ありがとう。そろそろ失礼するわ。」

私は手紙を持ち、商店を出た。

大人になることと生命の死は紙一重。

そんなことを考えながら母校へと足を運ぶ。

夏の甘い香りと銀色に輝く海。

最後に見た時よりも遠くが見えるようになっていた。

坂を登って懐かしい校門の前まで着いた。

空は赤く染まり、涼しい風が吹き始めた。

美しい女性が一人、校門の前に立っていた。

女性は空を見つめている。

何かに気づいた女性はすぐに私を見た。

今にも泣き出しそうな表情で話しかけてきた。

「なつきくんじゃないか。この町に帰ってきたのか。会えて嬉しい。君を見た瞬間、忘れていた夏を思い出したよ。」

「先生、お久しぶりです。会いたかったわ。煌めく夜空の港で会ったのが最後だったわね。懐かしい。」

先生は浮かない表情で話す。

「彼のこと。残念だった。私も聞いたとき驚いた。」

「彼は今もどこかで生きているわ。いつの日か先生が言ってた。私たちが忘れなければ大切な人はこの世界のどこかに生きている。」

「ああ、そうだ。きっとどこかで笑いながらなつきくんのことを見ているさ。」

彼は滅多に笑わない。

「ねえ、先生。少し学校の中に入ってもいいですか。」

「もちろんだ。生徒たちはもう居ないはずだ。気が済むまで居てくれて構わない。」

「ありがとう。少し用事を済ませたら戻るわ。」

校舎の下の靴箱が新調されていることに気がついた。

あの頃から時間が過ぎ去った事を改めて実感する。

私は慣れた足取りで図書室に向かう。

「休み時間はいつもここで彼と本を読んでいた。彼が世界に生きているのだとしたら今もここにいる。」

生徒たちは帰宅し、誰もいないはずの図書室。

電気のついていない夕日だけが頼りの暗い部屋に赤く照らされた少女が座って本を読んでいる。

私と少女は目を見合せた後、驚いた少女は本で顔を隠した。

私はその場で何もすることが出来ず唖然とした。

「脅かしてしまったわね。ごめんなさい。少し用事があって来たの。」

少女は本から目だけを覗かせ震えた声を出した。

「すみません。下校時間は過ぎているけど本を読みたかっただけです。すぐに帰ります。」

「待って。私はあなたのことを叱りに来たわけではないの。安心して。この事は先生たちには秘密にしておくわ。」

本を置いた少女は安堵した。

「よかったです。ありがとうございます。」

「お嬢ちゃん。お名前を教えくれるかしら。」

少し躊躇った後、口を開いた。

「咲奈です。」

明るくて夏ではなく春を感じる暖かい名前だ。

「咲奈ちゃんね。私はなつきよ。ところで何を読んでるの。」

「夏の風物詩です。作者は雪菜さんですね。」

体中に衝撃が走った私は少し怖い顔をして黙って少女から本を取り上げた。

「ちょっとなつきさん。何するのですか。」

少女の言葉は私の耳には届かない。

夢中になり立ち尽くしたまま読んでしまった。

あの日、隠れ家で話したことや港での出来事が物語の様に綴られていた。

「ねえこの本は図書室にいつからあるの。」

「二日前に新しく追加されたみたいです。」

二日前は、七月の二十九日。

それは十年前に港であずみ先生に会った日だ。

これはあずみ先生からの贈り物と考えるのが妥当だ。

「ありがとう。ところであずみ先生って知っているかしら。」

少し考えて少女は口を開いた。

「あずみ先生。聞いた事のない名前ですね。」

「ほら、あれよ。いつも門の前に立っている先生よ。」

「門の前に立っている先生は腰まである髪の長い先生です。名前は知らないのですがその先生ですかね。」

「いいえ、違うわ。あずみ先生の髪は肩あたりまでよ。」

私がよく知っている先生をもう一人思い出した。

美しくて腰まである長い髪の先生。

私が学校に通っていた間、担任を務めていた先生だ。

「もしかして文香先生じゃないかしら。」

私がそう言うと少女は何かを思い出した様に言った。

「そうです。思い出しました。文香先生です。」

「文香先生は私がこの学校に通っていた時の担任よ。あの頃の私の馬鹿みたいな話を笑わずに聞いてくれた。私も文香先生の様になりたい。本気でそう思ったわ。」

少女はあの頃の文香先生のように私の話を聞いてくれた。

少女は感傷的に話した。

「私もあります。なりたい存在。いいえ、どこか私を感じる存在がいます。雪菜さんの満天の星に消え行く子に登場する星空が好きな少女です。彼女の言動や行動を読んでいると、自分が本当に経験した出来事のように考えてしまいます。」

私は反射的に聞いてしまった。

「あなたはどんな星が好きなのかしら。」

少女は台本が用意されていたかのように答えた。

「港で見上げる満天の星に鮮やかな夜空です。」

その瞬間、少女の顔が十年前にバス停で見た夢に出てきた少女の顔に重なって見えた。

驚いた私は言葉を失った。

「なつきさん。どうかしましたか。」

「いいえ。なんでもないの。ごめんなさい。」

「そういえば、なつきさんのここに来た用事は何ですか。」

「昔、ここによく来ていた男の子がいた。私が大人になる過程で、私の近くから消えてしまったの。でもここに来ればまた会える気がして足が勝手に動いたのよ。」

「そこの端の席で本を読んでいる男の子が見えることがあります。彼のことですかね。彼はいつもお昼頃に日差しに照らされて輝かしく私の目に映ります。」

彼がここに来て本を読んでいる。

私はそれが知れただけで心が満たされた。

彼はいつも私の心を満たしてくれる。

心の暗雲を断ち切るのもいつも彼だった。

今は私の心に雨雲を作るのも彼だ。

「あの時に借りた本。あなたの眠っている場所に返したわ。遅くなってごめんなさい。私はこの町を出るわ。どこかで私を見守ってて。また彼を見つけた時に伝えて欲しいわ。」

真面目な表情で少女は頷く。

「分かりました。伝えておきます。」

ろうそくの火が消えた感覚がした。

ここを出ないといけない。

そんな気がした。

「ありがとう。そろそろ次の目的地に行くわね。」

少女は再び本を手に取り、読み始めた。

私は後ろを振り返らずに扉を開けた。

だってもし彼が見ているのだとしたら、あの頃よりも幾分か成長した背中を見せてあげたいもの。

「久しぶりの学校はどうだったかい。」

門の前に立つあずみ先生は私に問いかけた。

「懐かしい気持ちになったわ。ところで先生に聞きたいことがあるのだけど良いかしら。」

「ああ、もちろんだ。何でも聞いてくれ。」

私は何かを暴くように聞いた。

「単刀直入に聞くわ。先生はもうこの学校では働いていないわよね。」

何かを見透かされたような驚いた顔をした先生はゆっくりと話してくれた。

「そうだ。さすがなつきくんだ。気づかれないと思っていたよ。学校の教員は二年前にやめてしまった。今は小説家として物語を描いているんだ。」

先生は続けて話した。

「昨晩のことだ。夢を見たんだ。なつきくんがこの町に帰ってくる夢だった。物語を描く仕事を始めてから時折、不思議な夢を見るんだ。夢で見た内容が全て現実に起こってしまうんだ。」

「予知夢と言われているやつかしら。その夢の中では、私がこの町に帰ってきた後に何が起こったのかしら。」

先生は少し黙った後に話し始めた。

「私はこのなつきくんが帰ってきた七月三十一日の結末を全て知っている。ただ、せっかくの夏の全てを教えてしまうのは気が引ける。もったいないのだよ。夏は楽しむものだ。夏の風物詩であるなつきくんが一番に知っているはずだ。」

先生は続けた。

「世の中には知らなくていい事もあるんだ。真実を知ることだけが全てではないだろう。でも人は真実を知りたがるんだ。建前の先や虚像の真理。同時にこれらを知った時、知らなければ良かった。そう思うのだよ。建前や虚像は奥にある何かを隠す為に使うものだ。知らなくていいじゃないか。私も七月三十一日の全てを知りたくなかったんだ。またあの時のように夏を楽しみたかったのだよ。」

濁った表情を浮かべた先生に私は言った。

「既に発生した事象でも、それを知るまではその事実は確定しない。つまりその事実を知るまで何も起きていないことになる。大丈夫よ。七月三十一日の真実を知らない私はこれから起こる先生の夢の中で確定した事象を変えることができるわ。夏は私だけが楽しむものではない。先生にも夏を楽しんで欲しいの。美しい夜空を見たあの夜のように。」

先生は何かに怯えたような表情で少し下を向いた。

「夢の中で私がなつきくんに話した事と別の事を話してみたんだ。同じだった。夢の中と同じだったんだ。なつきくんの返答が夢の中と同じだったのだよ。運命は変えることはできない。過程が変わっても辿り着く結果を変えることはできないみたいだ。」

私は少し考えた後、決断した。

「この夏に定められた結末なんていらないわ。運命は変えられないとしても私の夏に対する思いは運命には変えれない。先生が見た七月三十一日の結末は分からないわ。そしてもう知りたいなんて思わない。私はこの街に帰ってきた今夏を全力で楽しむわ。まるで星空が好きな少女のように。」

私の手を握って震えた声で話し始めた。

「怒らないで聞いてほしいんだ。これは私の見た夢の中でもなつきくんに話していない事なんだ。元々話す予定はなかった。」

猫のような優しい声で先生に言った。

「ええ、何を言われても怒らないわ。私は先生の事が大好きなのよ。」

「私もだよ。なつきくん。いいかい。よく聞いてくれ。」

「彼が亡くなった日の事を知っているんだ。」

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