2話 一枚のコイン
休日の昼下がりに少女は目を覚ました。
鳥のさえずりに騒がしい蝉の鳴き声。
花のような夏の甘い香り。
少し遠くに見える海は銀色に輝いている。
窓に肘をついて美しい町を眺める少女。
「夏の風物詩ね。」
一言を部屋に置いて美しい町に足を踏み入れた。
「お散歩日和ね。港の方まで歩いてみようかしら。」
海に向かって歩き出した私は美しい光景の一部となっている。
坂を下ると、古い商店が見えた。
氷と書かれた暖簾に美しい音色を奏でる風鈴。
みやび商店と書かれた看板が下げられている。
思わず私は引き戸を引いた。
「いらっしゃい。なつきちゃんかい。しばらく見なければ大きくなったね。」
店主の包み込むような声をしたみやびのおばあちゃんは笑顔で迎えてくれた。
「久しぶりね。みやびのおばあちゃんも元気そうじゃない。安心したわ。」
「おばあちゃんはまだまだ元気さ。とりあえずそこに座りな。」
食品が並んでいる棚の横に置いてある椅子に座った。
「冷蔵庫の中にジュースがあるからね。好きなのを飲んでね。」
「有難く頂戴するわ。」
冷蔵庫の中から瓶に入ったラムネを選んだ。
「最近、学校はどうなのかい。楽しんでいるのかいさ。」
「ええ、楽しんでいるわよ。友達も沢山いる。まるで学校の人気者よ。」
嘘をつく事が最適な場面に遭遇することもある。
「そうかい。昔からなつきちゃんは人懐っこいもんね。」
「ところでみやびのおばあちゃんにとって大人って何かしら。」
「そうだね。自分の弱い部分も強い部分も受け入れて、誇りを持てるようになった者。それが大人だと思うよ。」
弱い部分を受け入れる。
私には到底できないことだ。
「弱い部分を受け入れるっていうのはどうすればいいの。」
「例えば人と話すのが苦手で黙ってしまう人がいるでしょう。でも授業中ならどうだい。利口に授業を受けている優等生になるね。自身の弱さを追求して本質を見極めると強さに変換することができるのさ。つまり受け入れることができるのだよ。」
私は自分を強く見せるために虚像を作ってしまう。
大人には見抜かれているのだろうか。
「弱さを強さに変換する能力。何か近づいた気がするわ。ありがとう。」
これからは虚像を作るのではなく、弱さを受け入れ強さに変える。
実像が魅力的になった時、大人に近づける気がした。
店を後にする素振りを見せるとおばあちゃんは棚から饅頭を取り出して私に渡した。
「絶品な饅頭だよ。一つ持って行きな。」
白く雪のような粉で覆われて、薄らと見える餡子が愛おしい。
「ありがとう。みやびのおばあちゃん。美味しくいただくわね。また近いうちに遊びに来るわ。」
笑顔で何も言わずにおばあちゃんは皺だらけの手を振ってくれた。
引き戸を引くと夏の日差しと潮風が同時に襲ってきた。
商店の中がまるで別世界に思えたほどに。
再び港へと歩き出した。
みやび商店から少し坂を下りると、堤防が見えてきた。
堤防の先には部屋から見た銀色の海が広がっている。
堤防沿いを意気揚々と歩く。
異質な音と普段とは違う感覚に襲われ立ち止まる。
地面を見ると一枚のコインが落ちていた。
「何かしらこれは。」
気になった私はポケットに入れ、持ち帰ることにした。
小さな船が数台停まっている港に着いた。
そこには漁師のおじさんたちが魚を持って歩いている。
「春風さんのところの娘さんか。こんな所に何の用だ。」
「こんにちは。天気が良いからお散歩に来たの。」
タオルを巻いた漁師のおじさんは元気よく笑った。
「そうか。それはいいな。暑いから気をつけてな。」
「ねえ、おじさん。そこのバケツに入っている大きな魚は何かしら。」
「これは青物だ。刺身で食べると美味しいぞ。」
「素敵ね。お腹空いてきたわ。」
漁師のおじさんにも聞いてみる。
「おじさんにとっての大人を教えて欲しいわ。」
おじさんはまた元気よく笑った。
「急だな。大人か。守らなければならない立場、環境や人。それらを守る為に努力をする人。それが大人じゃないか。」
「おじさんは守らなければならないことがあるの。」
「勿論だ。妻や子供。母や父のような家族。それらを守るには同時に漁師としての立場も守らなければならない。そこにいる部下達もだ。彼らそれぞれに家庭があって何かを守っている。」
私は守られている立場にあることに気がついた。
「私は家族や先生、町の優しい人たちのような大人に守られて生きているわ。感謝しないといけないわね。」
同時に私の大人への道が少し遠のいてしまった。
おじさんは魚の入ったバケツを持って歩き出した。
「お嬢ちゃんは大切な人達に守られながらゆっくり大人になればいいさ。それじゃあおじさんは仕事に戻る。話に付き合ってくれてありがとうな。」
「ええ、こちらこそありがとう。お仕事頑張って。」
おじさんに負けない元気な笑顔で手を振った。
「私も未熟ね。早く大人になりたいわ。」
少し日が落ちてきて海の色が変わってきた頃、少女は呟いた。
海鳥の鳴き声が少し涼しくなった潮風を運んできてくれる。
ポケットからコインを出して太陽に重ねてみた。
「よく見たら何か書いているじゃない。星の様な形をした模様が刻まれているわ。」
星と例えるには歪で不細工だ。
幼い子供が書いたと言えば納得できる。
そんなことを忘れさせるような強風が吹いて、私の腰まである長い髪が靡いた。
純粋な黒髪は燃えるような夕日で赤く染った。
「素敵な散歩ができたわ。家に帰ろうかしら。」
広大な海を背に小さくて幼い私は帰路に着いた。
背後には何故か儚さを感じた。
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