夏の風物詩
神父猫
1話 夏の風物詩
「私は夏の風物詩になりたいです。」
髪が長くて綺麗な先生は拍手を贈ってくれた。
「素敵ですね。夏の風物詩。私も教師という立場でなければなってみたいものです。」
将来になりたいものを発表する授業。
私は夏の風物詩をあまりよく分かっていない。
「それでは、授業を終わります。」
休み時間になると私がいつも向かう場所がある。
「図書室は涼しいわね。彼はいるかしら。」
図書室を見渡してみると、一番奥の席に彼は静かに座っていた。
真夏の昼下がり。
カーテン隙間から溢れ出す光に照らされた彼はまるで髪の長い先生の様に美しく見えた。
「ごきげんよう。真羅くん。今日は何を読んでいるのかしら。」
「なつきさんじゃないか。満天の星に消え行く子。最近、図書室に新しく追加された本だよ。でも聞いた事のない名前の作者なんだ。」
「雪菜。私も聞いた事のない名前ね。」
何処か儚さを感じる名前だ。
「隣、失礼するわよ。」
私も本棚から気になる一冊を選び座った。
昼の終わりを告げる鐘が鳴るまでこの一時を楽しむ。
「あら、鐘が鳴ったわ。授業が始まってしまうわよ。」
彼は見向きもせず、小説に見惚れている。
「ちょっと真羅くん。しっかりしなさい。はやく教室に戻るわよ。」
「ごめん。少し集中してたみたい。教室に戻ろうか。」
慌てた表情を見せた彼は小走りに教室に向かう。
頼りない背中を私が追う。
私たちが席に着くと授業が始まった。
「相変わらず先生はつまらない話ばかりね。」
机に身体を伏せて黄昏ていた時だった。
「大人になるとは何か。この時間は皆さんにとっての大人や尊敬できる人について考えてみましょう。」
私は伏せていた身体をすぐに起こし、綺麗な先生の話を聞いた。
「これよ。大人になるとは何か。私が毎晩、頭を悩まされていることだわ。」
私には何度考えても答えが出ない。
「それでは考えれた人から発表してください。」
この教室にいる誰よりも賢くて利口なのに何故か私は大人ではないらしい。
「大人とは大きくなり、立派なお仕事に就いて頑張っている人だと思います。」
眼鏡をかけた彼女は自信を持って言い張った。
「そんなこと当たり前じゃない。あの眼鏡さんはお馬鹿さんなのかしら。」
学級の中のお調子者が少し真面目な表情で話す。
「大人とは人に優しく接することができる人のことだと思います。」
「人に優しくすることは子供でもできることよ。そうじゃないのよ。」
学級委員の優等生が堂々と発言する。
「大人。精神と身体がどちらも成長した姿と思います。」
私は少しばかり首を傾げた。
「そうね。近いのよ。でも違うわ。ただ、私の理想的な答えには少し近づいたような気がする。」
頭の中で整理できた。
「なつきさん。お願いします。」
綺麗な先生がわざとらしい微笑みを浮かべるのを確認してから私は話す。
「尊敬できる部分があり、理不尽な事も受け入れなければならない。一方で自由を手に入れる事が出来る。大人は私たちの見本になり、希望をあたえてくれる。そんな存在だと思います。」
綺麗な先生は呆気にとられた様子で私を見つめる。
「とても素敵な考えですね。先生も皆さんの見本になり希望を与えれるような女性になりたい。そんな風に思えました。」
「先生は立派な私たちの見本よ。希望や将来も与えてくれているじゃない。」
少し上を向いた綺麗な先生はまるで牙を隠した猫の様だった。
「私は大人として。いいえ、大人ではありません。未熟な女性です。それでも、皆さんの未来が少しでも明るくなるように努めます。世の中は自己にとって不利益で理不尽な出来事ばかりです。私たちはそれを受け入れる事を拒んではいけないのです。虚しくなり、泣きたくなる。生きる意味や自分の存在価値。それすらも疑いたくなるような悲しみ。皆さんはそんなこともこれからたくさん経験しなければならないのです。この先の耐え難い事象も乗り越えられるような大人に私と一緒になりましょう。」
私の幼い目には一雫の純粋な涙が零れた。
「先生はもう立派な女性なのよ。私たちは大切なことをこの教室に来る度に教えて貰っている。私は将来、先生のような綺麗で尊敬できる大人な女性になりたい。その為なら耐え難い事象も越えられるわ。」
教室を見渡してみた。
皆は冴えない顔をしていた。
「ありがとう。なつきさん。あなたの言葉に感動してしまいました。今日の授業は先生も大切なことを学ぶことが出来ました。なつきさんや皆さんのおかげです。また来週も皆さんだけではなく私も学べるような授業を心掛けます。それでは授業を終わります。」
綺麗な先生は優しく扉を開けて教室を出た。
皆は帰りの支度をはじめた。
「なつきさん。とても素晴らしかったよ。僕も君の言葉に感動してしまった。」
彼は優しい笑みを浮かべながら私に話した。
「私は夏の風物詩よ。あれくらい当たり前だわ。」
先程までの幼い目は鋭い目に変わっていた。
「そういう所も君らしくて僕は嫌いじゃないよ。」
彼はそう言って教室を出てどこかに行ってしまった。
私だって伝えたいことがあったのに。
校舎を出て校門に向かう。
お調子者の男の子たちが楽しそうに騒いでいる。
夕日に照らされながら校門までの道を歩いている私は大人に近づけているのだろうか。
校舎の横に大きな顔をしてそびえ立つ山を眺めながらそんな事を考えた。
肩を叩かれた私は驚いてすぐに後ろを振り返った。
「なつきちゃん。落としたよ。」
見覚えのある花柄のハンカチを渡された。
「あら、うっかりしていたわ。ありがとう。」
お馬鹿さんな眼鏡をかけた少女だ。
「このハンカチ素敵だね。私も似ている物をもってるよ。」
「そうなのね。ところであなたにとっての大人。良かったわよ。」
「私の両親は立派なお仕事をして、私を育ててくれている。大人とは何かを考えた時に両親の顔がすぐに浮かんできたの。」
腑抜けた表情をした彼女はそう言った。
「あなたのご両親、とても素敵ね。あなたも立派なお仕事をして誇れる大人になれたらいいわね。私はそろそろ帰路に着くわ。また学校で。」
彼女の話を聞いた私は、急いで家に帰る用事ができたのだ。
「またね、なつきちゃん。」
いつも地面を見ている彼女がめずらしく顔を上げ、私に手を振った。
私も彼女に手を振りながら校門を出た。
後ろを振り返るとまだ手を振っていた。
「ふふ、やっぱりお馬鹿さんね。」
高所にある学校は一歩出ると町全体を見渡せる。
ひぐらしの鳴き声と赤く染った街に帰路に着く男児たちの騒ぎ声。
この風景と夏の音色は私を風物詩に描いてくれた。
「ただいま。」
自宅の扉を開けた私は響き渡る声で居間に話しかけた。
「おかえりなさい。夕食はもうすぐ完成するわよ。今夜はシチューです。」
母親の言葉を遮って両親に思いを伝える。
「お母さんとお父さん。いつもありがとう。私が感じてるこの当たり前の幸せは二人の努力のおかげよ。」
火を消し、料理の手を止めた母親は腰を落として私の手を握った。
「私たちはなつきが今を幸せに感じてくれているだけで何だってできる。なつきが言ってくれた努力は私たちにとって全く辛いことではないの。私たちに頑張れる理由を与えてくれているのはなつきなのよ。感謝しているのは私たちの方でもあるんだよ。生まれてきてくれてありがとう。これからも私たちの前で元気に生きてくれるだけで私たちは幸せだよ。」
そう言って頭を撫でてくれた母親の手は綺麗な先生の手とは違って小さな擦り傷が見えた。
大きな愛情を感じた私は号泣してしまった。
「ありがとう。本当に感謝の気持ちでいっぱいなの。こんなにも愛情を感じれて幸せだわ。」
大きくて図太い笑い声を上げた父親は優しい顔で私を見る。
「お母さんの言う通りだ。感謝したいのは私たちだよ。こんな愛嬌があって可愛い娘がいてくれて私も幸せだ。」
父親は瓶に入ったお酒を一口呑んだ。
「いつも遅くまで家族の為にお仕事してくれてありがとう。お父さんのおかげで私たちは何不自由なく幸せに暮らせているわ。」
シチューの甘い香りと愛情が漂う食卓。
「シチューがもうすぐ出来上がるわよ。鞄をおろして席に着きなさい。」
母親は再び火を付け料理に戻った。
手を洗う為、洗面所にきた。
鏡に映った少し目の腫れた幼い少女を見た。
「私、まだまだ子供みたいね。でも大人になるとは何か。また少し答えに近づいた気がするわ。」
食卓に戻り、談笑しながら並んだ料理を美味しく食べた。
幼い私には有り余る程の沢山の感情を経験した一日になった。
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