初耳です
「あっ、あの時の魔法使いさん!」
以前ソフィーが姿をうさぎに変えられてしまった時に助けてくれた魔法使いの男性だ。これだけの美貌を見間違えるはずがない。
「なんできみがここに……予定では明日のはずじゃ……」
「あ、の、ええっと、よくわからないんですが、私はソフィー・シラーと申します。本日よりこの屋敷で働かせていただくことになりました。よろしくお願いします」
一度しか会ったことはないが、見知った顔を見ることができて少しだけ安心した。ソフィーは男性に自身の紹介をすると頭を下げた。
「ああ、いや、そうか。すみません、僕が日付を勘違いしていたみたいですね。どうぞ、中へ」
男性はなんの躊躇いもなく扉を開けると、ソフィーを中へと招いた。ソフィーは遠慮がちに屋敷の中に入る。
「わぁ」
外見は立派だったが、中もなかなか立派な建物だ。調度品などはあまり置いていないようだが、それがかえってシンプルで屋敷自体の味を生かしているように見える。あまり詳しいことはわからないが。
「まずはお詫びを。こちらから招いておきながら日付を勘違いしてろくに出迎えができなくて申し訳ありません。僕はルゼル・ルートランド。本日よりあなたの夫となる男です」
「…………はい?」
ソフィーの困惑の言葉のあと、しばらくの間天高い玄関ホールに静寂が流れた。
「……え? 夫、ですか」
「はい」
ソフィーの言葉にルゼルは頷く。
「あなたには僕の奥さんになってもらいます」
「おく、さま……の使用人ではなく?」
「使用人ではなくあなたが奥さんです。僕のお嫁さまということになりますね」
「…………は?」
再び静寂が流れた。
どういうことだろうか。ソフィーは屋敷の異動を命じられてこの屋敷に来た。異動だ。異動でここに来たのだ。決して嫁入りに来たのではない。
「えっと、あなたがこの屋敷の主人様、ということですよね?」
「そうなります」
「そして私はあなたさまの奥様になる、と」
「そうです」
「……いや、え?」
ソフィーは普通に困惑していた。
目の前にいる彼が、ルゼルがこの屋敷の主人だということはわかった。しかしルゼルはソフィーを使用人ではなく妻としてここに招いたというのだ。聞いていた話とまったく違う。
「ちゃんと話は通しておいたはずなんですが……」
「すみません……その、初耳です」
「そうですか……」
なんとも気まずい沈黙が続いた。体感十分が経った頃、ルゼルがここではあれだからと言って場所を移動した。
案内されたのは応接間らしき部屋で、暖炉の上に大きな絵画が飾られているのが特徴的だ。
のどかで温かみのある油絵にソフィーが見惚れていると、席に座るように促されてルゼルと向かい合うようにして腰を下ろした。
「どうやらなにも知らないようなので説明させていただきますね。僕には少し特殊な事情がありまして、嫁となる人が必要なんです。誰でもいいが、誰でもは良くない。僕にも苦手な性格の人はいますからね。そこであなたを選びました」
「……ん? それはつまりルゼルさまは結婚したいと思っているわけではない、ということですか?」
「ええ、まぁそうなりますね。結婚などする気はなかったのですが、とある方からうちの娘と結婚しないかとしつこく婚約を勧められまして。何度断りを入れてもなかなか諦めてくれず……ならばべつの人と結婚すればいいのでは? という結論に至りました」
そう言ってルゼルは紅茶の入ったカップに口をつけた。
「はぁ、なるほど……って、え⁉︎ いつの間に⁉︎」
噴水の前で出会ったルゼルが持っていた紙袋はルゼルの座るソファーの隣に置かれている。それはルゼルがどこか別の部屋に立ち寄ったりせずにまっすぐにこの部屋に来たからだ。
だというのに、ルゼルの目の前には紅茶の入ったカップがいつの間にか置かれていた。
「あなたの分もありますよ」
「本当だ!」
視線を自身の手元の方にずらすと、たしかにソフィーの目の前にも紅茶の入ったカップが置かれていた。
「い、いつの間に……」
この部屋についてから、ルゼルは一度も席を立っていない。なのに目の前には人数分のカップが用意されていて、ソフィーは驚いて目を丸くした。
「まるで……」
魔法みたい。ソフィーがそう言おうとして、ルゼルが魔法使いだったことを思い出した。
そうだった。ルゼルはソフィーにかけられた変化魔法を解いてくれた魔法使いなのだ。それならばこのような不思議な芸当ができてもおかしくはないだろう。
「どうですか? 僕の妻となってくれるのであれば、なに不自由なく暮らせるように手を尽くしますよ。それは約束します」
「それは……その、愛のない結婚となりますが、それはよろしいのでしょうか?」
親が婚約相手を探して結婚する愛のない戦略結婚、これがないわけではない。貴族社会だとむしろ多い方だ。恋愛結婚をした元勤め先の侯爵家の方がマイノリティ。
なのでルゼルが愛のない結婚をするの自体はそこまで不思議ではないが、貴族ならともかく使用人と結婚しようだなんてメリットがなさすぎる。
使用人は権力も富もない。あるのは家庭的なスキルだけだ。ついでにいうとソフィーはルゼルのように魔法が使えるわけでもない。
「僕はかまいません。少なからずあなたに好意を持ってはいますから」
「えっ」
ソフィーの問いに笑顔で返すルゼルに、ソフィーはまたもや目を丸くした。
彼と会ったのはこれで二度目。好意を持たれるようなことをした覚えはない。むしろ助けてもらったソフィーがルゼルに対して感謝の気持ちを持っているくらいだ。
ソフィーはルゼルに恩を感じているが、特段好かれるようなことはしていないはずなのだが。
「あなたはとても綺麗なので」
そう言って困惑するソフィーにルゼルは笑いかけた。
微笑する姿はさまになっていて美しい。この姿を額縁に飾ればきっと多くの貴婦人たちが高値をつけて買うことだろう。
「き、れいですか。そうですか。わかりました。とにかくルゼルさまには妻となる方が必要で、それに私が適任だと判断されたのですね。ならば私はルゼルさまの妻となりましょう。もとより私はこの屋敷に仕えに来たのです。その屋敷の主人であるルゼルさまが妻になれとおっしゃるのでしたら、そのように振る舞います」
こんなに美しい人に綺麗と言われてどきどきと早くなった鼓動を冷静に収めてそう答える。
綺麗、なんてお世辞に決まっている。ソフィーは平凡な、普通の平民育ちの使用人。貴族のように絢爛豪華なドレスや宝石など纏ったことはなく、煌びやかな髪色でもない。なんてことはない、普通の茶色い髪。
これは仕事だ。ルゼルの妻という仕事を与えられたのだと解釈してソフィーは仕事内容に同意した。
「……」
そんなソフィーの姿を見て、ルゼルはどこか少し悲しそうに、困った顔で笑っていた。
「私は今日からルゼル・ルートランドさまの妻ですね。貴族としての教養などはあまり得意とはしていませんが、頑張らせていただきます」
「いや、社交界に出る気はないから貴族の立ち振る舞いなどはわからなくてもかまいません。きみは必要なときに僕のそばにいてくれたらそれでいい。それ以外のときは自由に過ごしてもらってかまいませんからね」
「わかりました! いちおうお嬢様の侍女として多少の礼儀などは知っていますが、それ以上の学習は不要ということですね」
そしてずっとルゼルのそばにいなければならないというわけでもない。ということはいつも通りに使用人として振る舞うだけだ。
そして必要なときだけ妻になればいい。
ルゼルは以前ソフィーの窮地を助けてくれた恩人。恩を返すときが来たのだろう。
ソフィーは気合を入れて、
「……ん? ルゼル・ルートランド?」
他の使用人たちに挨拶をしようと席を立ち上がったところで違和感を感じて動きを止めた。
この屋敷の主人であるルゼル・ルートランド。ソフィーの夫となる魔法使い。
ルゼルと同じ名の、妻を探していた大魔法使いがいた気がする。
「……あの、ルゼルさま?」
「なにかな? べつにさまなどつけなくてもいいのだけど、きみが呼びたいようにしてくれてかまわないよ」
「いや、その、ルゼルさまって……」
あの有名な大魔法使いさまなのですか、というソフィーの問いにルゼルは頷いた。
もちろん、ソフィーが仰天して空を仰いだのは言うまでもない。
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